覇王ときどき革命

中国・清末民初のお話など

2024-01-01から1年間の記事一覧

ないのなら、書こうと思った

約20年間をかけて、中国近代史を書いてきた。最初が、中華民国初期(民初)の軍閥史、次が張作霖の評伝、そして、三作目が清末史である。今回は、こうしたテーマをどうやって決めてきたかについて記したい。決めたというより、流れに任せてきたという方が…

歴史のレシピ

※これまでに出した3冊は、いずれもほぼ同じ手順、方法で書いています。 『清朝滅亡』の「はじめに」にこう書いた。 「本書は、そのダイナミックな時代、とくに生身の人間の動きを、基礎的史料のほか、近年出版された史書や論文、報道などの新たな素材から再…

見書必買

2012年に『覇王と革命』を出して以降、拙著を読んでくださった方々から、しばしば同じ質問を受ける。「巻末の参考・引用文献に載っている中国の本はどうやって集めたのか」というものだ。 これについては、単純明快な個人的指針がある。 「見書必買」だ…

未完の革命

袁世凱が弁髪を切ったのは、一説によれば、清朝最後の皇帝・宣統帝溥儀が退位詔書を発表した1912年2月12日の夜だったという。前の月に革命党員に爆弾を投げつけられ、危うく難を逃れて以来、袁は外出を避けて自邸で執務しており、この日も朝廷に出仕…

進撃の逃走

内戦続きの中国近代史を書いていて、かなりの頻度で使う単語は「逃げる」、またはそれに類する動詞である。権力者であれ、軍人であれ、形勢が悪くなると、まあよく逃げる。多くの場合、戦わずして逃げる。その速度はすなわち、勝者側の進撃の速度となる。 『…

三つの棺

清末の主役の一人、光緒帝は、北京から南西に百数十キロ離れた河北省保定市にある清西陵に眠っている。 光緒帝の陵墓・崇陵は、内部まで一般公開されている。石畳の階段を下りると、巨石がアーチ状に組まれた通路から石室にかけた空間の荘厳さに息をのむ。そ…

陽だまりの日々

八カ国連合軍との戦争が終わり、1902年1月、逃亡先の西安から北京に戻ってきた慈禧は、それから数年間、お気に入りの頤和園(いわえん)を中心に、比較的穏やかな日々を過ごす。満洲が主戦場となった日露戦争、革命団体が結集した同盟会の創設など、王…

珍妃殺害異説

1900年8月、八カ国連合軍が北京に進撃、慈禧(西太后)、光緒帝らは、紫禁城を脱出し、黄土高原を通って陝西省・西安に逃げた。西への逃避行は、光緒帝が愛した珍妃を井戸に投げ込んで殺すという陰惨極まりない事件から始まる。 『清朝滅亡』では、第五…

隣にいる拳民

1963年に初版が出た名著『義和団研究』の中に、義和団の乱を、簡潔に表現している言葉を見つけた。 「千古未有的奇変」である。意味は明らかだろう。 この「奇変」は、『清朝滅亡』の第四章で描いた。神々の降臨によって不死身になったとうそぶく拳民(…

プレートがかかる家

北京にいたころ、時折、古くからの住宅街・胡同(フートン)を回り、住民の許しを得て、家屋の外観や中庭などの写真を撮らせてもらっていた。 近代史で登場する人々のゆかりの場所だ。「文化財」として大事に扱われているのは少数で、庶民の住宅になっている…

急潮に立つ巨人

平家物語を愛し、幕末小説を読みふけり、清末史にのめりこんだ自分にとって、山口県下関は「聖地」である。 訪れるたびに、海峡の光景に圧倒される。火の山公園や海峡ゆめタワーからは絶景が見渡せる。海底のトンネルを歩いて対岸の北九州市・門司に渡り、そ…

劉公島の敗将

数年前、中国山東省威海(旧・威海衛)の湾の入り口に浮かぶ劉公島を訪ねた。 1895年2月、アジア最強の艦隊とも言われた清国の北洋艦隊は、この地で全滅した。『清朝滅亡』では、この歴史的な事実をそのまま第一章のタイトルとした。 海抜153メート…