覇王ときどき革命

中国・清末民初のお話など

急潮に立つ巨人

 平家物語を愛し、幕末小説を読みふけり、清末史にのめりこんだ自分にとって、山口県下関は「聖地」である。

 訪れるたびに、海峡の光景に圧倒される。火の山公園や海峡ゆめタワーからは絶景が見渡せる。海底のトンネルを歩いて対岸の北九州市・門司に渡り、そこから眺める海峡もいい。

 岸辺を歩けば、潮の流れに往時を思い、「壇之浦町」という住所表示に興奮し、目の前を幻燈のように往来している巨大な船舶群に息をのむ。

 司馬遼太郎は『街道をゆく』で、「私は日本の景色のなかで馬関(下関)の急潮をもっとも好む」と書いている。

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 1895年3月、日本との戦いで大敗を喫し続けた清国は、講和交渉の全権代表として、李鴻章を下関に派遣した。『清朝滅亡』では、第二章の最初の節で、この海峡の街での李に焦点を当てた。

 講和交渉は、割烹旅館の春帆楼(しゅんぱんろう)で行われた。日本側の代表は、首相・伊藤博文、外相・陸奥宗光らであった。

 当時の建築は戦災で焼失したというが、春帆楼は今も営業を続け、すぐ脇には、講和交渉の舞台となった大広間を再現した記念館がある。椅子をはじめとする当時の調度品、李の宿所・引接寺(いんじょうじ)を飾ったというシャクヤクの屏風など、展示内容は実に興味深い。

 李鴻章は、領土割譲、賠償金支払いを迫る日本の圧力に抗い、動かぬ北京を動かし、大国の大臣の面子もかなぐり捨てて懇願した。その上、暴漢に撃たれた。身長180センチを超える巨躯を持つ李は、下関で「急潮」になぶられ続けた。

 春帆楼から引接寺に続く道で、地元の方々に、李鴻章狙撃事件の現場について尋ねてみると、皆、「李鴻章道というものがあります」と親切に教えてくださった。ただ、それ以上の詳細は伝わっていないらしい。130年近く前の記憶は消えつつあるのだろう。

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 李鴻章は、下関を去っても執拗に痛めつけられた。

 北京では、朝廷が講和を最終決断したにもかかわらず、条約に署名した李鴻章が白眼視され、王府井(ワンフージン)にある宿所・賢良寺で蟄居同然の暮らしを余儀なくされた。李はその後も、結果的に清国が煮え湯を飲まされたロシアとの密約や、八カ国連合軍に敗れた後の辛丑(しんちゅう)条約(北京議定書)の調印に駆り出され、高原で荷を運ぶヤクのごとく、国家の屈辱を背負わされ続けた。

 義和団の乱の際は、両広(広東・広西)総督として、「滅洋勤王」を求める朝廷の命に逆らい、列強と結ぶ意思を率先して示した。大動乱を北京・直隷周辺に封じ込めておくためには、それしかなかった。

 清末期の李鴻章は、俗な言い方をすれば、明らかに損な役回りを担った。国の存亡がかかる非常時にあって、彼はたとえ「売国奴」と罵られようとも、国を救うために動いた。必要であれば敗戦の道を歩み、抗命さえいとわなかった。最後には、文字通り血へどを吐いて斃れた。

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 李鴻章は、ロシアと密約を交わした時の外遊で、ドイツも回っている。ビスマルクとの会見でわが身の不遇を嘆いた言葉は、ほとんど愚痴である。

 賢良寺では、自虐的に、自らを表具師にたとえてみせた。そのユニークな自評は、清国において彼が果たした役割を極めて的確にとらえている。

 「やれやれ」とこぼしながら、身を刻む歴史の急潮に幾度も入っていった近代史の巨人の姿が目に浮かぶ。

 「国士」というのは、こういう人物のことを言うのかもしれない。

                            (2024年1月25日)

 

 ※写真は、1枚目は北九州・門司側から見た壇ノ浦付近の関門海峡。2枚目が下関・春帆楼脇の日清講和記念館に再現された交渉のテーブルで、右が李鴻章の椅子です。3枚目は、李が宿所とした引接寺。4枚目は、下関の夕景です。最後は、北京の賢良寺跡。現在は学校になっています。