覇王ときどき革命

中国・清末民初のお話など

進撃の逃走

 内戦続きの中国近代史を書いていて、かなりの頻度で使う単語は「逃げる」、またはそれに類する動詞である。権力者であれ、軍人であれ、形勢が悪くなると、まあよく逃げる。多くの場合、戦わずして逃げる。その速度はすなわち、勝者側の進撃の速度となる。

 『清朝滅亡』の第八章では、辛亥革命を書いた。1911年の武昌蜂起から翌年の宣統帝退位まで、わずか四か月しかかかっていない。これは、王朝を守るはずだった者たちの逃げ足がいかに速かったかを物語ってもいる。

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 湖北省武漢・武昌で革命の火の手が上がった10月10日夜、成り行きで蜂起部隊を指揮することになった呉兆麟は、夜明けまでが勝負と見て、湖北、湖南を統括する大官・湖広総督の庁舎である総督署などに攻撃をしかけた。

 呉兆麟の思惑通り、朝までに決着が着いた。革命軍は総督署を攻略、武昌のほぼ全域をあっさり占領下に置いた。総督は逃げていた。しかも、長江に浮かぶ軍艦に、だ。まるで屋島の平家である。

 同月22日、湖南省が、湖北に次いで「独立」(清朝統治からの離脱を意味する)を宣言した。湖広総督同様、湖南巡撫(地方長官)も船に乗り、上海に逃れた。『帝制的終結』などによると、逃走にあたって、「兄弟たちよ、我々は皆漢人だ」と叫び、「大漢」と書かれた旗を掲げさせたという。満洲族支配の象徴である弁髪を切ったとも伝えられる。

 逃亡以外に、寝返りで革命軍を平和的に招き入れるケースもある。

 史書『近代中国』は、武昌蜂起以降の九都市の蜂起、独立の状況を紹介しつつ、こう総括している。

 「非常にスムーズで、戦闘はなかった。あるいは、激しい戦闘はなかった。一日のうちに、長くても二日のうちに任務を完了した。四十分以内のところさえあった。総督と巡撫、将軍たちの大半は抵抗しなかった」

 ここまでくると、もはや「臆病な満洲族督撫(総督と巡撫)」といった個人的な問題ではない。革命軍に背中を見せる逃走、あるいは寝返りは、それ自体が、旧体制を突き崩し、新たな時代へと向かう大規模な進撃の一形態でもあったとも言えるだろう。王朝という巨大な塔のごとき構造物を支える国民の忠誠心は、嘘のように溶解しつつあった。

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 念のために言うと、逃げ足の速さを笑うつもりはない。内戦において、戦いの前に逃げるという選択は、最善策となりうる。

 民意の支持を失った権力者や軍人がいち早く逃げて戦乱を避けられる、あるいは最小限に抑えられるなら、一般の民衆にとってこれほどの幸運はない。「死ぬまで戦う」と叫んで民を巻き添えにしたあげく、最後に逃げる者より、はるかにましだろう。

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 例外的に革命軍の前に立ちはだかった二人の名を挙げよう。

 一人は、言うまでもなく、袁世凱だ。当時最強の北洋軍を握っていた袁は、その気になれば、革命軍を殲滅できたかもしれない。

 だが、袁世凱は漢口で革命軍に一撃を見舞い、ダウンを奪うと、すぐに手を緩めた。彼は、これによって革命軍と実質的に連携する態勢を築き、皇帝退位に向けて朝廷を追い込んでいく。

 もう一人は、奉天の地方軍人・張作霖である。

 辺地にあった彼は、武昌蜂起の一報を受けると、部隊を率い、奉天省城に向けて全力で馬を駆った。清朝の東三省総督を革命から守るためだ。中国各地で大勢が逃げ足を飛ばしているさなか、張は革命の炎が上がろうとしている危地を目指して走った。奉天まで走り抜けた彼は、辛亥革命を跳躍台として乱世を駆け上がっていく。このあたりは、彼の評伝で書いた。

 天下を取る者、天下に迫る者の行動は、やはり常人とは違う。

                             (2024年3月7日)

 

 ※写真は、1枚目が、武昌蜂起直後に革命党が軍政府を置いた旧鄂軍都督府大楼(湖北省武漢・武昌。現在は辛亥革命博物館になっています)。革命前は、省咨議局の建物でした。2枚目は武昌から見た長江。3枚目は、湖南省・岳陽を流れる長江です。4枚目は、辛亥革命時に袁世凱が蟄居していた河南省安陽(旧名・彰徳)にある袁林(袁の墓園)の牌楼、5枚目は、張作霖が生きた清末~中華民国時代の面影をとどめる遼寧省瀋陽駅(旧奉天駅)。最後は同省にある張作霖の墓です。