覇王ときどき革命

中国・清末民初のお話など

ないのなら、書こうと思った

 約20年間をかけて、中国近代史を書いてきた。最初が、中華民国初期(民初)の軍閥史、次が張作霖の評伝、そして、三作目が清末史である。今回は、こうしたテーマをどうやって決めてきたかについて記したい。決めたというより、流れに任せてきたという方が実際に近い。

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 2003年、中国の体制内知識人の対日関係論を翻訳出版した後、日中関係にかかわる中国近代史を書いてみたいと思い、満洲事変、日中戦争の前段となる民初の歴史を調べ始めた。不惑を超え、いいかげんに動き出さないと、歴史を書くという長年の夢は夢のままで終わるという焦りも感じ始めていた。

 まずは日本語の本にあれこれあたってみた。そして驚いた。

 民初の歴史、とくに、軍閥混戦の時代に関する記述が、ほとんどないのである。「欠落」と言ってもいいほどだった。その期間の空洞を埋めているのは、なぜか、中国共産党史だった。

 ないのなら、書こうと思った。

 これがすべての出発点だ。

 日本語の資料はあきらめて、中国語の資料を探し始めると、もう一度驚いた。

 このときはまさに、中国の新しい近代史の開花期にあたっていた。「悪人」の一言で片づけられる印象しかなかった袁世凱や、その継承者たる諸軍閥について、革命を「正義」、「善」とする伝統的歴史観から離れ、具体的に、客観的に描こうとする資料が続々と登場しつつあった。

 「腐った清朝孫文らが革命で倒したが、袁世凱がその成果を横取りし、中国は、民を顧みない軍閥混戦に陥った」といった清末民初の固定観念が、心地よく崩れていった。

 三国志を思わせる戦乱は、混沌から生じる次の中国の姿を決める戦いでもあった。武人たちは己ばかりか、国の未来も背負って、戦い、騙し、手を組み、逃げた。中国大陸の地図は空前の速度で激しく流動化し、無数のパラレルワールドが現れては消え、その渦の中で、現代中国に直結する革命が動き始めた。

 軍閥史は、めちゃくちゃ面白い――その興奮を持ち続けながら書いたのが、『覇王と革命』だった。

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 群雄が駆け巡る軍閥史で、最も魅力を感じた人物が、奉天張作霖だった。

 「張作霖」の名は、日本の運命を変えた1928年(昭和3年)の「張作霖爆殺事件」によって、日本でもよく知られている。

 ところが、張作霖とは一体何者なのか、という根本的な疑問に答える歴史書は、日本にはほとんどなかった。現在に至るまで、「馬賊の親玉」的なイメージが独り歩きしている。

 これに対し、中国の新しい近代史は、張作霖を、軍閥の時代を代表する大軍人として正確に位置づけ、彼がどのような生涯を送ったのかも詳述していた。以下、『張作霖』の「はじめに」に書いた文章である。

 「草莽から身を起こした(張)作霖は、桁違いの器量によって、乱世を駆け上がっていく。匪賊を斃し、モンゴル兵と死闘を演じ、常勝を誇る大軍閥と激突した。北上する巨大台風のごとき革命軍にも白旗を掲げることはなかった。満洲を勢力圏とする日本に対しては、その力を利用しながら、傀儡にはならず、最後は日本の軍人に殺された」

 そんなことは、日本ではほとんど知られていない。

 「ないのなら、書こう」

 『覇王と革命』に続き、『張作霖』も同じ思いでスタートした。

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 少し話が逸れる。

 正直に言えば、かつては、歴史学者の肩書がないどころか、大学で歴史学を専攻したことすらない自分が歴史を書いてもいいのだろうか、というコンプレックス、怖れがあった。それは同時に、歴史を放置しておくことの言い訳でもあった。

 自らの心が生み出した「壁」を壊してくれたのが、冒頭に記した翻訳書だ。同じ新聞記者であった著者は、歴史に根差す反日感情が渦巻く中国にあって、「戦後日本」を客観的に見ることの重要性を訴えていた。彼は、日本に媚びたのではない。中国の立場に背いたわけでもない。そうすることが中国の改革につながると信じていたのだ。だが、横殴りの雨のような石つぶてを浴びた。それでも主張を曲げず、降りかかる石はますます勢いを増した。

 彼の勇気、彼の強さに比べれば、何もしていないうちから、幻影におびえて尻込みしていた己の姿があまりに情けなかった。歴史を書こう、と思った。

 書籍翻訳という苦しい作業をやり遂げたことで、分厚い中国語資料にぶつかっていけるという自信がついたのも大きかった。

 それから20年以上たった現在、はっきりと分かる。畏敬すべきは、「学術」という字面上の権威ではなく、肩書でも名声でも学位でもなく、畏敬するに値する人なのだ、と。つまりは、他の世界となんら変わらない。

 自分の強みも見えた。

 書きたい歴史を書く意志があり、そのためなら、孤独な作業を何年も続けられるということだ。今では、「常識」や立場、業績といったものにとらわれない「素人」にしか書けないこともある、と桜木花道的に考えている。

 なお、自身の中国取材経験、語学、北京駐在歴などは、個性の一つと言うべきものだろう。そもそも、職業や社会活動などを通じて得られる経験、知識、技術、倫理観といったものは、人によって違う。歴史を書く人々の集団に限っても、その興味の対象、視点、描く手法は、書き手の数だけあるに違いない。自分は、自分の手にある道具を使って、自分の中国史を書いている。

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 『清朝滅亡』は、『覇王と革命』に取り組んでいたころから、いずれ必ず書こうと思っていたテーマだった。新しい近代史の主舞台・清末民初の前半たる清末史にも大きな変化が生じており、しかもそれが恐ろしく面白いことは分かっていた。『張作霖』の執筆を終えると、迷わず清末に着手した。

 この時代に関する歴史書は、日本でも数え切れない。前二作では、ほとんど無人の野を行くような感覚があったが、今度は違う。激戦区に出店するラーメン屋の気分である。

 ただ、自分なりの旗を立てる余地はあると思った。日本の一般向け清末史の圧倒的多数派は、孫文が主役の革命史だったからだ。目にした限りでは、滅亡する清朝側に視座を置き、王朝崩壊の過程を全面的に描いた歴史書、とりわけ、新しい近代史を反映している本はほとんどなかった。

 「ないのなら、書こう」と、この時も思った。

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 最初に漠然と考えていた「日中関係にかかわる中国近代史」は、いつの間にか、こんなところに来た。結局、これまでに出した三冊のテーマを決めるにあたって、二つのことを共通の基準にしてきたということになるだろう。

 一つは、心から面白い、書きたいと思うものを書く、ということだ。

 もう一つは、日本に類書がない、少なくとも、ほとんどないものを書く、ということである。そうでなければ、書き手としての楽しさがなく、何より、読者が価値を見出せる本にはなりそうもない。

 何の変哲もない、平凡な結論である。

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 テーマの決定に深くかかわる存在が、出版社の編集者だ。ライターがいくら偉そうなことを言っていても、出版社のゴーサインがなければ、本にはならない。

 このブログでも白状してきたように、八年以上に及んだ第一作『覇王と革命』の執筆作業は、「ほとんど誰も知らない軍閥話を読んでくれる人が本当にいるのか。そもそも本になるのか」という不安との闘いでもあった。

 その分厚い持ち込み原稿を読み、しかも、書籍化に向けて動いてくださったのが、白水社の編集者・阿部唯史氏だった。

 後日、喫茶店でコーヒーを前に半信半疑でいる自分に、阿部氏は、分量の調整、主観的表現の手直しなど、淡々といくつか注文されたものの、「誰も知らない軍閥史」のリスクには一言も言及されなかった。氏にしても、中国の軍閥話など初めてで、売れるかどうか以前に、目の前の原稿が信用できるかどうかさえ判断しようがないはずだった。

 その点について尋ねると、微笑みが返ってきた。

 「いえ、原稿を読めば分かります」

 阿部氏には心から感謝している。『張作霖』、『清朝滅亡』でも、同じように、リスクについては何も言わず、企画段階から全力でサポートしてくださった。三冊はいずれも、阿部氏なくして世に出ることはなかったと思う。

 のちに、阿部氏の口から、本づくりについて、こんな言葉を聞いた。

 「大事なのは、筆者、編集者の『熱』です」

 なるほど、確かにそうかもしれない。阿部氏は穏やかだが、熱い人だ。そして、書きたいテーマを書く熱なら、自分にもある。           (2024年4月4日)

 

 ※今回の写真は、これまで掲載していない北京の歴史的現場のものです。1枚目は、天壇の祈年殿です。清朝歴代皇帝のほか、洪憲皇帝となった袁世凱も、天壇で祭天の儀式を行いました。2枚目は、慈禧(西太后)が咸豊帝と過ごし、その後、英仏連合軍に破壊された円明園。3枚目は、北海です。共産党・政府機関がある中海、南海(中南海)と違い、「三海」で唯一公園となっています。4、5枚目は、義和団の乱に関係する写真で、最初は、籠城戦の舞台の一つとなった西什庫の教会。撮影時は自由に敷地内に入れましたが、近年、宗教統制が厳しくなり、関係者以外の立ち入りは禁じられています。次は、大火に見舞われた前門の繁華街です。今もにぎわっています。

 ※毎週1回、計3回にわたって、歴史を書く手順などについて記してきました。たくさんの方に読んでいただきました。本当にありがとうございました。

 ※東方書店様には、写真撮影、ブログ掲載を快諾していただきました。また、白水社のX(旧ツイッター)担当の方は、『清朝滅亡』シリーズに続き、ブログ更新情報を発信してくださいました。心より御礼申し上げます。

 ※「覇王ときどき革命」は、今後も折に触れて、清末民初のお話や、とりとめもない感想などを掲載していきます。引き続きよろしくお願いいたします。