覇王ときどき革命

中国・清末民初のお話など

泣こかい、飛ぼかい

 ふるさと、鹿児島にこんな言葉がある。

 「泣こかい、飛ぼかい、泣こよかひっ飛べ」

 幕末~明治初頭の薩摩に関する時代劇、小説に詳しい方なら、聞き覚えがあるかもしれない。劇中で若き西郷隆盛や大久保利通が、時代に向けて走り出すとき口にする決め台詞になっているように思う。

 文字になっていれば、その意味は、鹿児島県人ならずとも容易に見当がつくだろう。「泣こうか、飛ぼうか、泣くより飛ぼう」である。「ひっ」は動詞に勢いをつける鹿児島弁の接頭語だ。

 自分は、子どものころ、広いおでこで前髪をまっすぐ切りそろえたおりこうさんだった。今は、薄くなった白髪頭を中国の歴史資料に埋めている。性格的に見て、「ひっ飛べ」の語感に宿る向こう見ずの勢い、あるいは勇猛さとは無縁である。

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 ところが、不思議なことに、「泣こかい……」的な精神は、いつのころからか、わが心の相当深いところに根付いている。地域性豊かな教育のためか、父母の教えか、はたまた友人たちの影響かは分からない。弱っちいくせに、なぜか、「迷ったら、やる」という行動基準を持っているのだ。「泣こかい……」より数段おとなしいが、方向性は変わらない。

 いまの頭で後付け的に考えれば、迷ったときに「やる」方を選ぶのは、示現流(じげんりゅう)的な気合を重んじるといった理由からではない。心理的なダメージコントロールを図ると同時に、経験値を上げるという得失計算によるものだろう。あえて書けば、

 「やらずに終わった後悔」>「やって失敗したときの後悔」

 「やらずに終わって得られるもの」<「失敗から得られるもの」

 といったものだ。

 もちろん、この数式もどきは個人的基準であり、「正解」などではない。人によって、場合によって、「迷った末にやらない」選択の方が賢明というケースも無数にあるに違いない。

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 北京にいたころ、中国の政治改革を切望する若い知識人が、自分の考えを文章にして発表するかどうか、迷いに迷っていた。

 話を聞いて、危ないと感じた。政治的言論を厳しく監視、統制する当局がこれを見逃すはずがないと思った。

 「発表しちゃいけません。危険すぎる」と、断定的に、強く言った。

 日ごろ、「迷ったら、やる」などと呑気に構えているくせに、他者の迷いを見て、その行動にストップをかけた。この場合、上述の二つの〝不等式〟の不等号の向きは逆になり、しかも、失敗がもたらす損失は、彼の人生にとって致命的なものになりかねないと思った。「迷う」ケースじゃないと即断した。

 お節介な日本人の制止を考慮したかどうかは分からない。彼がその文章を世に出すことはなかった。

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 「迷ったら、やる」の「やる」は、不確実性に満ちたプロセスに自らの足で一歩踏み出すということだ。好結果に対する保証は何一つない(そんな保証があれば誰も迷わない)。逆に、「やらない」という選択は、リスクを回避できる代わりに、未来の可能性と、そこに至るまでのプロセスを棄てることになる。

 四半世紀ほど前、大いに迷った末、世間的には何の意味もなく、自身の地位や収入にもほとんど関係のない決断をした。

 「中国近現代史を書こう」

 即、行動に移り、人生が、新しいプロセスに入った。

 最初は、日中に中国担当記者として、夜は歴史をひも解く者として、一人アメフト的二重生活をしているような気がした。当時中国のトップだった「江沢民」氏と、資料上のトップの「袁世凱」は、まったく別の世界にいた。正直、この時期はつらかった。

 しかし、同じ生活を何年も続けているうちに、日々取材している中国政治と、日々読んでいる歴史書の世界は、不可分のものであると気づいた。過去を踏まえれば、現在が格段に深く理解できる気がした。逆に、現在の生々しい政治状況を見ている目で過去を観察すれば、同じ中国人が紡いだ歴史をこの手で確かにつかまえられるように感じた。いつしか、二重生活の意識は消えた。

 以前このブログでも記したように、文章を書くにあたっては、こんなふうに心がけるようになった。

 「歴史を書くように記事を書く」

 「記事を書くように歴史を書く」

 これは、自ら選んだプロセスから生まれた、自分なりのスタイルだと思っている。

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 中国近代史を書くと決めたことで、捨てたもの、失ったものも多い。それは、別の可能性と、そこに至るプロセスを閉ざしたことを意味する。

 自分の選択が、結果的に「成功」だったか、「失敗」だったかなど、どうでもいい。何より大事なのは、自分がまったく後悔していないということだ。比較の対象は、他人ではない。別の世界線にいる、歴史を書かなかった自分である。

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 いま、多くの個人、企業が、AIに対して、瞬時に、楽に手に入る「正解」、「解決策」、「プロ顔負けの技術」を求めているように思う。世界中で、「ドラえもーん」の声があふれているような気がする。

 やがては、「迷う」ことさえ、「タイパが悪い」と切り捨てられるようになるのだろうか。「ひっ飛んで」失敗でもしようものなら、物笑いの種になるのだろうか。

 そんなことはあるまい。人間は、どこまでいっても、迷いの中にあり、最後は自分で自分の道を決めざるを得ない生き物だと思う。        (2026年11月3日)

 

 ※写真は、1枚目が鹿児島市から見た朝の桜島、2枚目は南九州市・知覧に残る武家屋敷の玄関です。3枚目は、鹿児島市内にある西郷隆盛の墓所です。

  ※「飛ぼかい」「ひっ飛べ」は、「跳ぼかい」「ひっ跳べ」と表記されることもあります。

名前の物語

 執筆中の文章の参考資料として手に取った古典太平記が面白く、いつの間にか夢中になって、最後まで読み終えた。

 『太平記』の舞台は、鎌倉末期から南北朝期にかけての乱世だ。後半からは、誰と誰が誰の側に立って戦っているかすら分からなくなった。それでもよかった。随所にちりばめられた迫真の描写を堪能するだけで満足した。

 例えば、合戦。戦場に駆け入る者たちの華麗ないでたち、勇ましい口上、火花を散らす打ち物といった定番だけでなく、当時の実戦で決定的な意味を持ったであろう馬の疲れや傷についても記す。武者の肉体を貫いた矢は、鎧のどの隙間から入り、どれほど深く達したかを書く。

 しかも彼らは、「名もなきエキストラ」ではない。合計何千人いるのか見当もつかないほどの登場者がおり、足利将軍兄弟、後醍醐天皇、新田義貞、楠木正成といった主要人物以外の多くも、在所、名前を持つ一人の人間として描かれているのだ。だからこそリアリティがある。

 「宇都宮三河三郎(うつのみやみかわのさぶろう)」

 「酒匂左衛門(さかわさえもん)」

 手元の文庫本でたまたま開いたページには、聞いたこともない名が並んでいる。誰かの父や夫、息子や兄弟だったであろう。全編通すと、人々の在所が、東北から九州まで、当時の日本全土にわたっていることが分かる。

 大部を通読して積み増した教養的新知識は、ほとんどない。すがすがしいほど何も残っていない。しかし、無数のいのちが天の川の星々のように明滅する、鮮烈な「名前の物語」の印象は残った。それで十分だ。

     *     *

 40年以上、新聞記事や歴史の文章を書いてきた者の実感から言えば、膨大な固有名詞と、一人ひとりの生々しい生死の状況を、頭の中で創作するのは不可能だと思う。執筆者またはそのチームが全国津々浦々を聞き取り取材して数十年間の歴史の現場状況をまとめたというのも現実的ではなかろう。

 そこから『太平記』の成り立ちを想像すると、誰もが知る歴史の本流を記す大きな物語に、数えきれないほどの局所的、時限的物語を詰め込み、集成したという線が思い浮かぶ。素材となった大小の物語は、武人らが、己や一族、さらには、より大きな集団に属する人々の名前と事績を残すために作ったもので、史実であることを担保する客観的な記録ではないだろう。

 そうした考え方が成立するためには、南北朝時代の終盤ごろ、『太平記』が一本の軍記物となる前に、生々しい物語が広く存在していたことが前提になる。

 『太平記』の文面のそこかしこから、陰に陽に『平家物語』が姿を現す。鎌倉時代に成立し、源平の武者たちに永遠の生命を吹き込んだ『平家』は、その後の武人たちの心を揺さぶった。鎌倉末から南北朝という源平以来の大争乱期にあって、己の名も物語の中に永遠に残したいと願った人は多かったのではないか。だから数多くの物語があった……。

 以上は、素人の推測で、まったくの的外れかもしれない。いずれ種明かし的な解説書や研究書を読むこともあるだろう(文庫本の解説すらまだ読んでいない)。だが、今は自分の読後感を大切にしたい。

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 「名を惜しみ、名を残す」

 これは、『太平記』を貫く価値観の一つである。勝ち馬に乗る裏切りが常態化し、一族郎党を守るためにはそれが「正義」とも言える乱世にあって、忠や勇を通じた「名」にこだわる姿勢は、「純粋さ」が際立つ一方、自己陶酔的で、視野が狭いといった印象も受ける。

 「名」に重きを置くことの必然的帰結であるかのように、物語の中で敗者たちが集団で自刃する場面が何度も出てくる。鎌倉幕府とともに滅んだ北条高時以下の得宗(とくそう)家、帝に殉じた楠木正成らのすさまじい最期には、息をのむ。

 ただ、高時や楠木には申し訳ないが、集団自刃を「美」の文脈で語りたくない。第二次大戦期の日本軍、日本政府、日本メディア、日本人が起こした数々の悲劇、理不尽な死の強制を連想してしまうのだ。

 時代状況を無視して歴史を軽々しく裁くことはできないのは分かっている。しかし、現代を生きる自分は、勇気を持って生き、他者を生かすことこそが、人として真に美しい行為だと信じている。

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 近代中国もまた、とんでもない乱世である。特に軍閥混戦期は、『太平記』同様、誰と誰が誰の側に立って戦っていたのかという基本的構図さえ分かりにくい。

 その当時の中国の武人にも、戦に敗れて自決した者はいた。巡洋艦で特攻のような突撃を敢行し、海に沈んでいった海軍軍人もいた。

 だが、少なくとも自分が読んだ資料の範囲内で言えば、命より「名を残す」ことを優先する行動の方が、近代中国の主流になったことはなかった。彼らの多くは、何度負けても再起を図った。「桜のようにいさぎよく、皆で散る」といった、美しくも脆い精神は、ほとんどお目にかかれない。強く感じるのは、「一時の汚名は耐え忍べばいい、最後に勝てばいい」という実利的かつ強靭な大陸的精神だ。武人だけでなく、孫文のような革命家もそうだった。

 ひょっとすると、これは、古代から現代に至る中国史に通底する特徴なのかもしれない。

 会稽(かいけい)の恥をすすいだ越王・勾践(こうせん)がいる。

 敗れに敗れた末、最後に勝利をつかみとった漢祖・劉邦がいる。

 宮刑(きゅうけい)の地獄を見ながら、『史記』を著した司馬遷がいる。

 いかにも中国的な文武の英雄である彼らは、名を残すために命を捨てたりはしなかった。命を残して、名を残した。

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 内外の観光客でごったがえす鎌倉・鶴岡八幡宮の参道、若宮大路から東の小道にそれ、山裾にある東勝寺跡に向かった。

 人通りはほとんどない。国指定史跡の説明看板を過ぎて、少し坂を登った茂みの中には、「腹切やぐら 霊処浄域につき参拝以外の立入り禁」と刻まれた石碑がある。元弘三年(1333年)、北条高時らが自刃した場所だ。

 『太平記』は記す。

 「血は流れて、こんこんたる洪河のごとし。かばねは満ちて、塁々たる郊原のごとし。死骸は焼けて見えねども、のちに名字を尋ぬれば、ここ一処にて自害したる者、すべて八百七十三人なり」(一部漢字表記をひらがなに改めた)

 その恐るべき数の名前について、あれこれ語りたいとは思わない。ただただ、合掌するのみである。                      (2026年10月7日)

 

 ※参考資料=『太平記(一)~(六)』(岩波文庫)

 ※写真は、1枚目が、1333年に新田義貞が鎌倉を攻めた際、潮がひいて海中に進攻路が開けたとされる稲村ケ崎です。2枚目が神戸・湊川神社にある楠木正成戦没地。3枚目は、鎌倉・長勝寺跡のすぐ近くを流れる小川の光景です。

ライトバンザイ

 退職後、ようやく念願の自由時間ができたというのに、何年も中国に行っていない。中国に足を踏み入れた後、その筋の人に呼び止められ、妙な疑いをかけられてはたまらないと思うのだ。そこで人生が崩壊したら、心残りがあまりに多すぎる。

 言うまでもなく、こちらに違法行為の心当たりなどない。自分は中国当局にマークされるような重要人物ではない、という妙な自信もある。ただ、経験上、本気になったときの共産党政権の怖さは知っている。人がある日突然、本当に消える。「だろう運転」的な気分で、中国を訪れることはできない。

     *     *

 学術界やビジネス界などでも、中国への渡航を見合わせる、あるいは往来を縮小する傾向が顕著だという。

 最近、雑談の中で、こんな嘆きを聞いた。

 「このままだと、日本の中国史研究が途絶えちゃうんじゃないでしょうか」

 日中間の研究者や資料の往き来がほぼ止まったばかりでなく、中国関係の学問を志向する若者も激減しているそうだ。

 圧倒的な質量を持つ隣国を知る。これは、古来、日本という国のあり方にかかわる戦略的行動の一つであった。その中で、歴史の研究は、恐るべき時間を積み重ね、高度な文明を築いてきた中国の本質を知るために不可欠だった。中国の膨張が続く中で、今後もその必要性は変わらないと思う。いや、むしろ、これまで以上に重要になるかもしれない。

 しかし、金で膨れた服にこれ見よがしに銃を突っ込んで、不機嫌な顔で周囲をねめまわし、時に怒声を発するような政権が続く限り、日本での中国離れに歯止めがかかるとは考えにくい。

     *     *

 中国史研究の命脈を保つためには、何が必要なのだろう。

 学術機関絡みの問題については、ポストや予算といった核心部分を語れない門外漢なので、ここでは触れない。

 個人的には、研究者、専門家といった人々とは比較にならないほど多くいる歴史ファン、すなわち「ライト層」が大事になると思う。できるだけ多くの人が中国史を面白いと思い、関心をつなぐことこそが、何より重要と考える。現在の中国に対する好悪の感情とは別に、「中国の歴史は面白い」と感じた彼らの中には、「もっと知りたい」と思う人もいるだろう。その自然な知的欲求こそが、未来へと続く種子だ。種子が残る限り、未来はある。

 自分もまた、歴史を楽しむライト層の一人、一粒の種子でありたい。

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 同年代の日本人女性が、会話の中で、いきなり「ホワンシャン」、「ホワンホウ」という単語を混ぜてきた。びっくりした。中国語に4種類ある声調(音節ごとの抑揚)を含め、発音も正確だった。

 「ホワンシャン」は、漢字で書くと「皇上」。皇帝の呼称だ。「ホワンホウ」は「皇后」である。

 彼女は、中国の歴史ドラマにはまり、いつの間にか明清時代の宮廷事情にえらく詳しくなっていたのだ。清の宮廷で満洲族臣下が皇帝らの面前で使う一人称、「奴才(ヌーツァイ)」という言葉まで知っていた。思わず笑ってしまった。

 韓流ドラマほどではないにせよ、中国ドラマにも相当熱烈なファンがおり、おすすめ情報を交換しているという。

 日本で関心を集めるのは、無論、ドラマだけではない。漫画からアニメ化され、実写映画にもなった『キングダム』の人気はすごい。『三国志演義』は、古代から現代まで何度蘇り、どれほどの日本人を夢中にさせてきたのだろう。当今、関連のゲームだけでも、いくつあるのか分からない。司馬遼太郎氏や浅田次郎氏といった素晴らしい作家たちは、中国の歴史の面白さ、魅力を余すところなく描き、膨大なファンの心をとらえ続けている。

 将来の「中国史研究」も、そうした沃野から芽吹いていくと思う。

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 少子高齢化、人口減、低成長の社会において、ライト層は、中国史研究というお猪口(ちょこ)のような小世界だけでなく、さまざまな分野で、機関や団体、個人などの命運を握る存在になりつつある。

 この夏、東京上野の国立博物館で開かれた展覧会「空海と真言の名宝」に二回出かけた。どうしても観たかった「信貴山縁起絵巻」をはじめ、展示内容は素晴らしかった。

 驚いたのは、国宝・五智如来坐像の写真撮影、SNS等へのアップが許可されていたことだ。日本で、一般観客が仏にレンズを向けていいという展覧会に来たのは初めてだった。これもライト層と縁を結ぶための一つの手段に見える。

 と、書いていて、ふと思った。

 空海は、日本史上、最もライト層を大事にした僧の一人ではなかったか。その結果、彼は、今日まで大衆の信仰の対象として生き続けている。人々を喜ばせる「写真撮影可」は、空海にこそふさわしいのかもしれない。

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 SNSやネットのコメント欄で、歴史の「プロ」とおぼしき人が、ライト層を厳しく説教しているのを目にしたことが何度かある。素人には反論しようもない細かな知識をまくしたてていた。彼(?)の主張はこうだ。

 「あなたが書いたことは、史実じゃない」

 傍から見ていて、言う方は気持ちよくても、言われた方は歴史嫌いになるだろうな、と思った。食物連鎖の上位にいるかのような傲慢なマウンティングがライト層を消失させれば、やがて「プロ」たちにも飢餓が迫ってこよう。

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 いつになるかは分からないが、中国の扉は必ず開く。かつての滞在経験から、中国人の圧倒的多数もそれを待ち望んでいる、と信じることができる。

 その時、日本側に中国史に興味を持つ人が大勢いれば、おのずと交流も復活するだろう。自分もまた、誰もが心配なく中国を訪れることができる日が来るのを楽しみにしている。                           (2026年9月8日)

 

 ※写真は、1枚目が北京動物園にいたジャイアントパンダです。日中関係の悪化で、日本にパンダはいなくなりました。2枚目が、三国志の「桃園の誓い」で知られる河北省涿州にあるモニュメントです。3枚目は東京国立博物館で開かれた「空海と真言の名宝」展に出された五智如来坐像(部分)。自分を含め、参観客は写真撮影を楽しむことができました。

語学は必要?

 中国のネット上で、学生、保護者、教育関係者がざわついている。

 広東省深圳にある理工系大学の教務責任者が最近、香港のメディアで、必修科目・英語の授業を段階的に廃止する試みを始める方針を示したのだ。AIに同時通訳を任せればいい、ということらしい。

 一部の学生が、「AI時代に語学学習は必要か」をテーマにした社会実験の被験体となる。良くも悪くも、中国、そして最先端技術で世界をリードする深圳らしい取り組みだ。

 昔の自分なら大歓迎だっただろうな、と思った。

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 若いころ、語学が大嫌いだった。

 「東京に出たい。漢文が好き」というだけの理由で、東京の語学系大学の中国語学科に入った。しかし、外国語は、目的も興味もないまま一から学べるほど甘くはない。あっという間にくじけ、やる気を失った。

 読解、文法、作文、会話のすべてに背を向けた。最悪なのは、中国人女性のL老師による会話の授業である。学生は課題の会話文を事前に暗記し、授業では、指名された者がそれを寸劇にして皆の前で披露するのだ。

 「当たるな、当たるな」

 授業では、厄除けの念をかけ続けた。だが、ロシアン・ルーレットは、いつかは当たる。立ち上がる。頭の中は真っ白だ。30人ほどいたクラスメートが一斉に放つ冷たい視線の矢を全身に浴び、立ち往生した。脂汗がにじむ顔に情けない薄笑いを浮かべていた。

 とはいえ、田舎の父母に負担をかけ続けるわけにはいかず、必要出席数を計算しながら、なんとか単位だけは取ろうとした。幸いにして、留年は1度、2年生を2回やるだけですんだ。成績表に「優」も「良」もない「全可者」だったが。

     *     *

 水に落ちた者がボートの縁に抱き着くようにして3年に上がると、スキーの回転競技よろしく語学関連の授業を避けまくり、国際関係はじめ日本語でやれる単位で埋めた。ゼミには入らず、卒論も書かず、振り替え可の単位に逃げた。

 かくして、中国語はまったくできない語学系大卒業生が出来上がった。新聞社の入社試験科目「外国語」は、中国語でも受験できたが、もちろん英語で受け、面接ではその英語の不出来を指摘された。

 大学を卒業して、「これでやっと中国語と縁が切れた」と思った。

     *     *

 新潟の支局でコメの現場に没頭、農業問題をずっと取材していきたいと思っていた1989年、中国で天安門事件が発生した。中国が国際ニュースの大きな焦点となる中で、学歴の呪いが発動した。翌年1月から「中国班」の一員として国際報道部門に配属されてしまったのだ。

 さあ、大変だ。藁にもすがる思いで手につかんだ中国語テキストが、『ニーハオ明明(ミンミン)』というNHKの初級者向け教材(カセットテープ付き)だった。

 ありがたいことに、会社は1年間(諸事情のため10カ月になった)、北京に語学留学に出してくれた。90年10月、パスポートなるものを初めて使って、北京の空港に降り立った。28歳だった。

     *     *

 中国の大学、そして街は、刺激的だった。キャンパスには、民主化運動を武力弾圧した共産党への怒りと絶望、なお消えない希望、外国へのあこがれといった強烈な感情が満ちていた。息をひそめる人々は、変化を激しく求めていた。校門を一歩出ると、自由市場だ。金をもうけたいというむき出しの欲求は、血の弾圧など関係ないと言わんばかりに、無数の雑草のように力強く伸び続けていた。バブルで肥え太り、香水臭い日本とはまるで違った。

 北京に来て一週間もたたないうちに思った。

 「なんて面白い国なんだ!」

 やや不謹慎な表現ながら、実際に「面白い」と思ったのだ。「一生付き合える」とも思った。

 励まされても叱られても、自分自身で意味を見出せないと立ち上がれない性格である。逆に、自分が面白いと思えば、マラソンのように走れる。

 映画『ロッキー』のテーマ曲に乗った気分で、中国語を本気で勉強し始めた。授業の出席という面では相変わらず劣等生だったが、独自に3人に家庭教師を頼み、ラジオと白黒テレビを買ってニュースにかじりついた。共産党機関紙・人民日報を購読した。「上海永久」というブランドの自転車も買い、週末には現地大学生と街を回った。長い休暇には、一人で旅に出た。北京と新疆ウイグル自治区のウルムチを結ぶ寝台特急は片道72時間かかった。ほとんど語学合宿の旅だった。

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 ヒトという生き物は、言葉を学べば上達するようにできている。

 テレビでよく流れていた東芝のCMソング「♪TOSHIBA TOSHIBA XINSHIDAIDE DONGZHI」が、「TOSHIBA TOSHIBA 新時代的東芝」であると分かったとき、感動した。

 新疆・天山山脈の長距離バス用宿泊所で、星が降る冬の一夜を過ごしたとき、小さな食堂で10歳くらいの少年が「日本人なの? 僕はウーゴンが大好きなんだ」と囲碁を打つしぐさをしながら熱く話しかけてきた。「ああ、武宮(故・正樹九段)! 宇宙流だね!」と笑顔で返すことができた。

 留学を終え、北京に赴任した後は、仕事が即、語学の勉強にもなった。

 北京で大学時代のクラスメートと再会し、レストランで料理を注文しただけで、「おお! 中国語しゃべっとる!」と驚かれた。あの会話の授業のL老師とお会いする機会もあった。笑顔で「できない学生って、逆に面白いのよ」と言っていただいた。救われた思いがした。

     *     *

 正直に言えば、必要に応じて勉強した自分の中国語は、いびつである。仕事で使っていた報道にかかわる分野(今は近現代史の用語も)はなんとかなっても、生活分野は、からきし弱い。テレビニュースはほぼ理解できても、ドラマはだめだ。

 街では、「あなたは日本人ですか」的に相手が外国人向けのよそ行きの中国語を使ってくれれば、分かる。だが、北京の「アルアル巻き舌」(べらんめえ調のようなもの)を含め、土地の言葉でまくしたてられると、もうだめだ。話す方はブロークン。それはそれでいいと達観している。幼児レベルの2語文、3語文でも、困ったことはほとんどない。何度か繰り返せば、相手は察してくれる。

 中国語での失敗は、それこそ大小無数にある。

 ただ、中国語を通じて、自分の人生に「中国」という新しい世界が開けたことを思えば、外国語学習者としての「みっともなさ」(ほとんどが自分自身で無駄に気にしているものだ)や失敗など問題にもならない。時に、あのまま中国語とおさらばしていたら、自分の人生はどうなったのだろうと思うこともある。それはそれで面白かったのかもしれないが、ちょっと想像できない。

     *     *

 AIの同時通訳機能付きスマホを持ち歩く日は近いだろう。しかし、おそらく、それがあればいい、ということにはならないのではないか。

 昔の己の体たらくを棚に上げて言えば、外国語を学ぶこと、特に自分自身の考えで学ぶことは、扉を開く行為であると思う。そこには、出会いがある。そして、それ以上に、扉を開けようとする挑戦者の意志がある。

 卓球女子の五輪メダリスト・石川佳純さんの中国語は、本当に美しい。サッカー日本代表の久保建英選手のスペイン語もそうだ。彼女らのような達人ではなくても、例えば、米メジャーリーグに挑戦した今永昇太投手の「GO CUBS GO」や、岡本和真選手の「I love Blue Jays!」も素晴らしい。彼らの外国語から伝わってくるのは、日本に安住せず、最もレベルの高い戦いの場に挑もうとする強靭な意志だ。それはもはや、「語学」の枠を超えている。そうした思いは現地の人々にも伝わっているはずだ。

 AIスマホの通訳では、誰の心も打たない。ビジネス関係であれば、近い将来、人間がスマホの自動通訳に頼るという場面が生じても、すぐに消えるだろう。AIに丸ごと読み込まれてもいい程度の商談なら、AI同士でやればいい。

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 「AI時代に語学学習は必要か」

 中国の大学が提起したこの問いに、おそらく万人共通の正解はない。一人ひとりが考え、答えを出すしかないと思う。              (2026年8月2日)

 

 ※写真は、1枚目が北京の大学キャンパスで勉強する学生です。2、3枚目は、雲南省昆明にある公園の休日の光景。4枚目は2009年夏の北京です。中国では、政治の取材に追われたばかりでなく、ただ歩いているだけでとても新鮮で楽しい、穏やかな時間もたくさん過ごしました。そんな小さな喜びも、語学が与えてくれたものでした。

歴史を縛る法律

 ずいぶん前に、北京の学者がため息まじりに話したのを思い出す。

 「我が国の法律はね、権力者が他人を支配し、権力を維持、強化するための道具なんですよ」

 彼の言葉を地でいく法律が、香港の返還記念日にあたる7月1日、中国で施行された。

 「民族団結進歩促進法」(以下、民族団結法と記す)である。

 少数民族の言語や独自教育を奪う。自由な言論を許さない。宗教を党に服従させる。こういった共産党の民族・宗教政策を法的に正当化するものだ。この類の法律でいつもそうであるように、条文の表現は、非常に抽象的だ。当局は思うがままに「違反者」を摘発し、処罰できるだろう。

 この法律はまた、中国の「民族の団結進歩を破壊」し、「民族を分裂」させる行為を行った国外の組織や個人の法的責任も追及するとしている(第63条)。

 日ごろ、「中国の内政に干渉するな」とやかましく言っている者たちが、他国の言論空間に土足で踏み込んだようなものだ。習近平政権は、国際的な批判や信用失墜など意にも介していないのだろう。

     *     *

 民族団結法に、歴史にかかわる条文があった。

 「第12条 国家組織は、中国共産党史、新中国史、改革開放史、社会主義発展史、中華民族発展史の宣伝教育を展開し、各民族大衆が、正しい国家観、歴史観、民族観、文化観、宗教観をしっかり打ち立てられるよう導く」

 これを読んで、心底うんざりした。共産党や政府が、法律に基づき、習政権の正統性、政策の正当性を証明する近現代史を宣伝、教育するよう関係部門を指導するということだ。史学界、言論界、報道界など、すべてが当局に服従するに違いない。

 このブログでも再三述べているように、20世紀末から今世紀初頭にかけての一時期、中国の学界、言論界に自由の空気が流れ込んだ。そのころの中国は、経済発展の必要性から、政治面での改革をある程度(ごく小さな歩幅であっても)進めようとしていた。2008年北京五輪を開催するために、背伸びもした。この政治的な風向きの変化によって中国の政治経済社会に無数の変化が生じ、その一つとして新しい近代史が登場した。自分はそれに感動して歴史を書き始めた。今は昔、という気がする。

 ちょっと予言しておこう。

 この政権が宣伝、教育する「正しい」歴史は、将来、独裁政権のプロパガンダの好事例となるだろう。本当の中国近現代史は、档案館などに眠っている文書と、歴史家たちが今は決して表には出さないデータファイルの中にある。

     *     *

 民族団結法第15条では、国家は全国で通用する言語(「通用語」)を全面的に普及させると定め、いかなる組織、個人も、公民がその「通用語」を学習、使用することを妨げてはならないとした。学校その他の教育機関での「通用語」の使用だけでなく、就学前児童も「共通語(漢語)」ができるようにするという。

 「通用語」は漢語を指す。政権は、ウイグル族、チベット族、モンゴル族など強いアイデンティティーを持つ民族から言葉を奪い、近現代史の勝者たる漢民族が支配する民族群の総称・「中華民族」の一員として飼いならそうとしている。

 少数民族も、流暢な漢語を使って共産党や習近平氏をたたえる歴史を語るようになっていくのだろう。民族固有の言葉で語る伝承や預言は、密かに口伝されていくのかもしれない。宮崎駿氏の『風の谷のナウシカ』に出てくる「その者青き衣をまといて金色の野に降り立つべし」のように。

     *     *

 それにしても、習近平政権はなぜここまで強権的、抑圧的手法で国民を支配しようとするのか。さまざまな理由がありそうだが、根本的な要因は、彼ら自身の内面にあるぬぐいがたい恐怖だと思う。

 独裁者、独裁政権が最も恐れるのは、自らが敗者に転落することである。他者を徹底的に弾圧してきた彼らは、運命が逆転した瞬間、自分たちの身に何が起こるかを知っている。その時が来ないよう、ひたすら不安の種をつぶしているのだ。

 もう一つ、予言しておく。そんな彼らの姿、行いは、やがて歴史に詳しく書かれるだろう。                           (2026年7月4日)

 

 ※写真は、1枚目が北京・天安門前の人民大会堂です。法律を制定する全国人民代表大会(全人代)の活動の主舞台です。2枚目は、北京の景山から見た中南海です(画面右上の水辺=光緒帝が幽閉された南海=のあたり)。中国共産党・政府の所在地で、多くの政権指導者が住んでいます。3枚目は、河北省の民家に掲げられていた毛沢東の肖像。中華人民共和国の専制体制を作り上げたのは毛でした。

「オールドメディア」と「ニューメディア」

 毎日、昼食後の散歩ついでに図書館に行き、家で購読していない全国紙に一通り目を通している。夜はNHK、民放各局のテレビニュース番組をBGM代わりに流し続けている。

 いま手掛けている歴史本とは、ほとんど関係ない。昭和30年代生まれの古い人間にすれば、何ということもない生活習慣である。60数年間、新聞、雑誌、テレビ、ラジオは、いつも傍らにあった。新聞記者の仕事を長くしたが、その間も、新聞の熱心な読者であり続けた。

 個人が簡単に情報発信でき、世論を動かせるようになった今、そうした媒体は、SNSなどで「オールドメディア」とレッテルを貼られ、存在意義さえ否定されることが多い。

 ネット上のコメント欄では、「オールドメディアは中立的な報道をしない」、「時代遅れ」という批判をよく見かける。

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 「中立的報道」に関する批判は昔からあった。

 メディアが報じるニュースは、「事実」と、その事実が持つ「意味」が両輪になる。メディアは、どの事実を報じるかを選択し、それを報じる意味を同時に伝える。そこには、間違いなく価値判断という主観が入る。だから、同じ出来事でもメディアごとに伝える内容は異なる。

 個人的には、それでいいと思う。というより、そうでなければならない、と思う。中国という一党独裁国家で長く過ごした経験から、「たった一つの声」しかない社会の恐ろしさは、ある程度知っているつもりだ。一つの事象をさまざまな価値観でとらえられる社会こそが健全だと信じている。

 だが、主観に立脚した報道は、不可避的に、異なる見方を持つ人の反発を招く。かつての反発の手段は、主に抗議電話だった。今、比較にならないほど多くの人が、片手に持つ発信ツールから、世界に届けとばかりに、ネット空間に反論を放つ。時に「マスゴミ」などという罵声も交えて。

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 「時代遅れ」の方はどうか。

 「ネットがあれば十分」と考える人の中には、新聞や雑誌の従来の販売形態を、「オワタ」とみる人も少なくないだろう。マスという霞のような対象をとらえようとして人気タレントを並べるテレビ番組は、一人ひとりの脳に浸透して視聴を習慣化させるスマホに太刀打ちできず、往々にして「オワコン」扱いされてしまう。

 「オールド」というレッテルの底意は、「自分にはもう必要ない」ひいては「社会でも必要とされない」という冷笑含みの宣告だ。

 巨大な力を有してきたメディアの「衰退」「凋落」は、ネット上では、一種の快感を伴って語られているように感じる。中国流に言えば、既存メディアは、「革命される(「被革命」=ベイ・グォーミン)」側にいるように見える。

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 しかし、個人的には、報道という分野でのメディアの将来をそれほど悲観してはいない。

 日々接している新聞、テレビニュースの情報の質は、間違いなく高い。地球に人類が誕生して以来、質の高い情報に対する需要がなくなったことはない。メディアの形態は時代とともに変化しても、質の高い情報の価値は、それこそ「永遠に不滅」であるはずだ。逆に言えば、信頼できるメディアが消えた世界の暗さは想像もできない。いかに技術が発達した社会であっても、だ。

 「オールド」と呼ばれるほど長く続いてきたものには、それだけの力と理由がある。

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 「オールド」は、相対的な言葉だ。「オールドメディア」があるなら、「ニューメディア」もなくてはならない。

 だが、ネットですばらしい記事を書いている人は、全体からすれば、まだ、ほんの一握りだろう。現状、ネットニュースの主力は、「オールドメディア」の記事だ。その切り貼りもあふれかえる。SNSや動画サイトの〝ニュース〟は、宣伝、扇動、パクリ、フェイクが入り乱れ、もはやカオスに近い印象だ。閲覧数で金が稼げるというネット金鉱でのゴールドラッシュといったところか。

 こうした状況からすると、「ニューメディア」なるものは、まだ確立されていないと言えるだろう。

 万人が自らの意思で情報を発信できるようになったことは、歴史的に見れば、一つの偉大な到達点である。これを大事に守り育てていかなくてはならない。そのためには、社会全体で真剣に「ニューメディア」のルール作りに取り組むことが必要だと思う。

 将来、「ニューメディア」空間が人の心をむしばむ無法の歓楽街と化せば、その反動で言論の自由が抑圧されてしまうこともありうる。権力側がその気になれば、ネットはいとも簡単に弾圧できるということを、中国で知った。

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 AI時代の報道に願うことが一つある。

 「オールド」にしろ、「ニュー」にしろ、メディアの書き手は、ずっと生身の人であってほしい。

 東京・北区の大龍寺に正岡子規の墓がある。彼は、新聞社の従軍記者として、日清戦争で満洲に行った経験もある。自作の簡潔な墓碑銘が胸を打つ。

 「……日本新聞社員タリ 明治三十□年□月□日没ス 享年三十□ 月給四十円」

 日本の文学史上消えることのない足跡を残した子規は、生涯を閉じるにあたって、己の存在を「新聞社員」と規定した。写生するように、書くべき事実を選び、簡潔に人生観を伝えた彼は、偉大な新聞人でもあったと思う。AIには、この子規の墓碑銘は絶対に書けない。                  (2026年6月6日)

 

 ※写真は1枚目が台東区根岸の子規庵内です。2枚目が、子規庵の庭に咲いていた花。3枚目は子規の墓碑銘です。子規庵での撮影ルールは守っています。

「職人」の仕事

 『正法眼蔵』をはじめとする仏教関係文書が多い、というのは、特別展のパンフレットの受け売りだ。流れるような毛筆で書かれた古い文書は、まったく読めない。多くは国宝というが、700年、800年という歳月を経て、なおここに存在しているという事実は、無条件で尊い。

 鎌倉時代、北条氏一族が収蔵した大量の書籍、文書を保管する金沢文庫(横浜市)は、中世のタイムカプセルである。

 「いい仕事をしてるなあ」

 そう思ったのは、明るく照らされたガラスケース内に置かれた、ある文書の紙を見た時だ。表面に繊維が荒々しく走る和紙は、鎌倉という時代の印象にふさわしく、目の粗い、強靭な織物のごとき風合いを見せていた。虫食い跡やカビもほとんどない。紙を漉(す)いた人、文庫を守り続けてきた人々が、己のやるべきことをやったということだろう。

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 以前、このブログで、あこがれるのは職人だと書いた。歴史家でも、学者でもない。作家でも、ジャーナリストでも、教養人でもない。

 手元の国語辞書で、「職人」を引いてみる。

 「自分の技能によって物を作ることを職業とする人」とある。これを個人的な都合で乱暴に意訳すると、「自分なりの中国史を書く者」ということだ。

 「技能」といっても、悲しいことに、傑出したものは何ひとつない。自分より中国史に詳しい人は、星の数ほどいる。自分より中国語を読める人は、何万人といるはずだ。中国取材で自分より優れた記者は、顔を知っている範囲だけでも数えきれない。彼らの素晴らしい記事を読んで何度天を仰いだことか。

 文才にいたっては、もうため息をつくしかない。

 もっとも、還暦をとうに過ぎた者が己の「才能」を愚痴りだしたら、その時点で、おしまいだ。自らの非才を呪わず、長い間使ってきた鈍刀で、愚直に歴史を書いていくしかない。

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 上の辞書が記すように、「職人」の定義が、技による物づくりを職業とする者であるならば、その道ははるかに遠い。

 「職業」という言葉の重さは、会社組織を離れてみて初めて分かった。

 「中国近代史を書いて、食べていけるのですか」

 この単純明快な問いには、「無理」と答えるしかない。本当にありがたいことに、拙著を評価してくださる方は多い。ただ、中国近代史執筆を「職業」と称する度胸はない。役所には印税等収入の申告はしているとはいえ、書類に職業の記入が必要なときには、「無職」と書いている。

 定年まで新聞社に在籍していたのには、仕事自体の面白さのほか、自分が歴史に没頭するための経済基盤が整わないという理由もあった。

 中国史の執筆を堂々と「職業」と呼べる日は、おそらく来るまい。生涯、「職人」にはなれないかもしれない。だが、堂々と歴史に打ち込める日々には満足している。

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 「私も本を書いてみたいんです」

 会社に勤めながら歴史本を出したためか、若い現役世代の方にアドバイスを求められることが時にある。

 尋ねる相手を間違っているだろう。うまいノウハウがあるなら、こちらが聞きたいくらいだ。中国近代史を書いた経験に汎用性があるとも思えない。

 ただ、我ながら気が利かないと恥じつつ、自分の経験については話す。特別な才なく、家族を養わなくてはならない凡人は、長い時間をかけ、続けることにしか活路を見いだせなかった、と。どんなに不安でも、どんなにのろくとも、続けることで、少なくとも前進はしてきたと思う。

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 金沢文庫に、小さな図書室がある。

 書架を見回すと、諸橋轍次の『大漢和辞典』があった。これはラッキーだ。早速手に取り、現在執筆中の本で日本語での音読みが分からずにいた漢字2文字を調べた。他の漢和辞書では見つからなかった字が、たちどころに現れた。

 「やっぱりすごいな」

 読み、意味、用例……すべて解決した。

 明治から昭和を生きた大漢学者にこんなことを言うのは失礼極まりないかもしれないが、『諸橋大漢和』は、長い年月、決して手を抜くことのない職人仕事の最高峰であるような気がした。                      (2026年5月7日)

 

 ※写真は、1枚目が現在の金沢文庫の正面。2、3枚目は、金沢文庫の文書を保管してきた称名寺の境内です。