覇王ときどき革命

中国・清末民初のお話など

歴史を縛る法律

 ずいぶん前に、北京の学者がため息まじりに話したのを思い出す。

 「我が国の法律はね、権力者が他人を支配し、権力を維持、強化するための道具なんですよ」

 彼の言葉を地でいく法律が、香港の返還記念日にあたる7月1日、中国で施行された。

 「民族団結進歩促進法」(以下、民族団結法と記す)である。

 少数民族の言語や独自教育を奪う。自由な言論を許さない。宗教を党に服従させる。こういった共産党の民族・宗教政策を法的に正当化するものだ。この類の法律でいつもそうであるように、条文の表現は、非常に抽象的だ。当局は思うがままに「違反者」を摘発し、処罰できるだろう。

 この法律はまた、中国の「民族の団結進歩を破壊」し、「民族を分裂」させる行為を行った国外の組織や個人の法的責任も追及するとしている(第63条)。

 日ごろ、「中国の内政に干渉するな」とやかましく言っている者たちが、他国の言論空間に土足で踏み込んだようなものだ。習近平政権は、国際的な批判や信用失墜など意にも介していないのだろう。

     *     *

 民族団結法に、歴史にかかわる条文があった。

 「第12条 国家組織は、中国共産党史、新中国史、改革開放史、社会主義発展史、中華民族発展史の宣伝教育を展開し、各民族大衆が、正しい国家観、歴史観、民族観、文化観、宗教観をしっかり打ち立てられるよう導く」

 これを読んで、心底うんざりした。共産党や政府が、法律に基づき、習政権の正統性、政策の正当性を証明する近現代史を宣伝、教育するよう関係部門を指導するということだ。史学界、言論界、報道界など、すべてが当局に服従するに違いない。

 このブログでも再三述べているように、20世紀末から今世紀初頭にかけての一時期、中国の学界、言論界に自由の空気が流れ込んだ。そのころの中国は、経済発展の必要性から、政治面での改革をある程度(ごく小さな歩幅であっても)進めようとしていた。2008年北京五輪を開催するために、背伸びもした。この政治的な風向きの変化によって中国の政治経済社会に無数の変化が生じ、その一つとして新しい近代史が登場した。自分はそれに感動して歴史を書き始めた。今は昔、という気がする。

 ちょっと予言しておこう。

 この政権が宣伝、教育する「正しい」歴史は、将来、独裁政権のプロパガンダの好事例となるだろう。本当の中国近現代史は、档案館などに眠っている文書と、歴史家たちが今は決して表には出さないデータファイルの中にある。

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 民族団結法第15条では、国家は全国で通用する言語(「通用語」)を全面的に普及させると定め、いかなる組織、個人も、公民がその「通用語」を学習、使用することを妨げてはならないとした。学校その他の教育機関での「通用語」の使用だけでなく、就学前児童も「共通語(漢語)」ができるようにするという。

 「通用語」は漢語を指す。政権は、ウイグル族、チベット族、モンゴル族など強いアイデンティティーを持つ民族から言葉を奪い、近現代史の勝者たる漢民族が支配する民族群の総称・「中華民族」の一員として飼いならそうとしている。

 少数民族も、流暢な漢語を使って共産党や習近平氏をたたえる歴史を語るようになっていくのだろう。民族固有の言葉で語る伝承や預言は、密かに口伝されていくのかもしれない。宮崎駿氏の『風の谷のナウシカ』に出てくる「その者青き衣をまといて金色の野に降り立つべし」のように。

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 それにしても、習近平政権はなぜここまで強権的、抑圧的手法で国民を支配しようとするのか。さまざまな理由がありそうだが、根本的な要因は、彼ら自身の内面にあるぬぐいがたい恐怖だと思う。

 独裁者、独裁政権が最も恐れるのは、自らが敗者に転落することである。他者を徹底的に弾圧してきた彼らは、運命が逆転した瞬間、自分たちの身に何が起こるかを知っている。その時が来ないよう、ひたすら不安の種をつぶしているのだ。

 もう一つ、予言しておく。そんな彼らの姿、行いは、やがて歴史に詳しく書かれるだろう。                           (2026年7月4日)

 

 ※写真は、1枚目が北京・天安門前の人民大会堂です。法律を制定する全国人民代表大会(全人代)の活動の主舞台です。2枚目は、北京の景山から見た中南海です(画面右上の水辺=光緒帝が幽閉された南海=のあたり)。中国共産党・政府の所在地で、多くの政権指導者が住んでいます。3枚目は、河北省の民家に掲げられていた毛沢東の肖像。中華人民共和国の専制体制を作り上げたのは毛でした。

「オールドメディア」と「ニューメディア」

 毎日、昼食後の散歩ついでに図書館に行き、家で購読していない全国紙に一通り目を通している。夜はNHK、民放各局のテレビニュース番組をBGM代わりに流し続けている。

 いま手掛けている歴史本とは、ほとんど関係ない。昭和30年代生まれの古い人間にすれば、何ということもない生活習慣である。60数年間、新聞、雑誌、テレビ、ラジオは、いつも傍らにあった。新聞記者の仕事を長くしたが、その間も、新聞の熱心な読者であり続けた。

 個人が簡単に情報発信でき、世論を動かせるようになった今、そうした媒体は、SNSなどで「オールドメディア」とレッテルを貼られ、存在意義さえ否定されることが多い。

 ネット上のコメント欄では、「オールドメディアは中立的な報道をしない」、「時代遅れ」という批判をよく見かける。

     *     *     

 「中立的報道」に関する批判は昔からあった。

 メディアが報じるニュースは、「事実」と、その事実が持つ「意味」が両輪になる。メディアは、どの事実を報じるかを選択し、それを報じる意味を同時に伝える。そこには、間違いなく価値判断という主観が入る。だから、同じ出来事でもメディアごとに伝える内容は異なる。

 個人的には、それでいいと思う。というより、そうでなければならない、と思う。中国という一党独裁国家で長く過ごした経験から、「たった一つの声」しかない社会の恐ろしさは、ある程度知っているつもりだ。一つの事象をさまざまな価値観でとらえられる社会こそが健全だと信じている。

 だが、主観に立脚した報道は、不可避的に、異なる見方を持つ人の反発を招く。かつての反発の手段は、主に抗議電話だった。今、比較にならないほど多くの人が、片手に持つ発信ツールから、世界に届けとばかりに、ネット空間に反論を放つ。時に「マスゴミ」などという罵声も交えて。

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 「時代遅れ」の方はどうか。

 「ネットがあれば十分」と考える人の中には、新聞や雑誌の従来の販売形態を、「オワタ」とみる人も少なくないだろう。マスという霞のような対象をとらえようとして人気タレントを並べるテレビ番組は、一人ひとりの脳に浸透して視聴を習慣化させるスマホに太刀打ちできず、往々にして「オワコン」扱いされてしまう。

 「オールド」というレッテルの底意は、「自分にはもう必要ない」ひいては「社会でも必要とされない」という冷笑含みの宣告だ。

 巨大な力を有してきたメディアの「衰退」「凋落」は、ネット上では、一種の快感を伴って語られているように感じる。中国流に言えば、既存メディアは、「革命される(「被革命」=ベイ・グォーミン)」側にいるように見える。

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 しかし、個人的には、報道という分野でのメディアの将来をそれほど悲観してはいない。

 日々接している新聞、テレビニュースの情報の質は、間違いなく高い。地球に人類が誕生して以来、質の高い情報に対する需要がなくなったことはない。メディアの形態は時代とともに変化しても、質の高い情報の価値は、それこそ「永遠に不滅」であるはずだ。逆に言えば、信頼できるメディアが消えた世界の暗さは想像もできない。いかに技術が発達した社会であっても、だ。

 「オールド」と呼ばれるほど長く続いてきたものには、それだけの力と理由がある。

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 「オールド」は、相対的な言葉だ。「オールドメディア」があるなら、「ニューメディア」もなくてはならない。

 だが、ネットですばらしい記事を書いている人は、全体からすれば、まだ、ほんの一握りだろう。現状、ネットニュースの主力は、「オールドメディア」の記事だ。その切り貼りもあふれかえる。SNSや動画サイトの〝ニュース〟は、宣伝、扇動、パクリ、フェイクが入り乱れ、もはやカオスに近い印象だ。閲覧数で金が稼げるというネット金鉱でのゴールドラッシュといったところか。

 こうした状況からすると、「ニューメディア」なるものは、まだ確立されていないと言えるだろう。

 万人が自らの意思で情報を発信できるようになったことは、歴史的に見れば、一つの偉大な到達点である。これを大事に守り育てていかなくてはならない。そのためには、社会全体で真剣に「ニューメディア」のルール作りに取り組むことが必要だと思う。

 将来、「ニューメディア」空間が人の心をむしばむ無法の歓楽街と化せば、その反動で言論の自由が抑圧されてしまうこともありうる。権力側がその気になれば、ネットはいとも簡単に弾圧できるということを、中国で知った。

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 AI時代の報道に願うことが一つある。

 「オールド」にしろ、「ニュー」にしろ、メディアの書き手は、ずっと生身の人であってほしい。

 東京・北区の大龍寺に正岡子規の墓がある。彼は、新聞社の従軍記者として、日清戦争で満洲に行った経験もある。自作の簡潔な墓碑銘が胸を打つ。

 「……日本新聞社員タリ 明治三十□年□月□日没ス 享年三十□ 月給四十円」

 日本の文学史上消えることのない足跡を残した子規は、生涯を閉じるにあたって、己の存在を「新聞社員」と規定した。写生するように、書くべき事実を選び、簡潔に人生観を伝えた彼は、偉大な新聞人でもあったと思う。AIには、この子規の墓碑銘は絶対に書けない。                  (2026年6月6日)

 

 ※写真は1枚目が台東区根岸の子規庵内です。2枚目が、子規庵の庭に咲いていた花。3枚目は子規の墓碑銘です。子規庵での撮影ルールは守っています。

「職人」の仕事

 『正法眼蔵』をはじめとする仏教関係文書が多い、というのは、特別展のパンフレットの受け売りだ。流れるような毛筆で書かれた古い文書は、まったく読めない。多くは国宝というが、700年、800年という歳月を経て、なおここに存在しているという事実は、無条件で尊い。

 鎌倉時代、北条氏一族が収蔵した大量の書籍、文書を保管する金沢文庫(横浜市)は、中世のタイムカプセルである。

 「いい仕事をしてるなあ」

 そう思ったのは、明るく照らされたガラスケース内に置かれた、ある文書の紙を見た時だ。表面に繊維が荒々しく走る和紙は、鎌倉という時代の印象にふさわしく、目の粗い、強靭な織物のごとき風合いを見せていた。虫食い跡やカビもほとんどない。紙を漉(す)いた人、文庫を守り続けてきた人々が、己のやるべきことをやったということだろう。

     *     *

 以前、このブログで、あこがれるのは職人だと書いた。歴史家でも、学者でもない。作家でも、ジャーナリストでも、教養人でもない。

 手元の国語辞書で、「職人」を引いてみる。

 「自分の技能によって物を作ることを職業とする人」とある。これを個人的な都合で乱暴に意訳すると、「自分なりの中国史を書く者」ということだ。

 「技能」といっても、悲しいことに、傑出したものは何ひとつない。自分より中国史に詳しい人は、星の数ほどいる。自分より中国語を読める人は、何万人といるはずだ。中国取材で自分より優れた記者は、顔を知っている範囲だけでも数えきれない。彼らの素晴らしい記事を読んで何度天を仰いだことか。

 文才にいたっては、もうため息をつくしかない。

 もっとも、還暦をとうに過ぎた者が己の「才能」を愚痴りだしたら、その時点で、おしまいだ。自らの非才を呪わず、長い間使ってきた鈍刀で、愚直に歴史を書いていくしかない。

     *     *

 上の辞書が記すように、「職人」の定義が、技による物づくりを職業とする者であるならば、その道ははるかに遠い。

 「職業」という言葉の重さは、会社組織を離れてみて初めて分かった。

 「中国近代史を書いて、食べていけるのですか」

 この単純明快な問いには、「無理」と答えるしかない。本当にありがたいことに、拙著を評価してくださる方は多い。ただ、中国近代史執筆を「職業」と称する度胸はない。役所には印税等収入の申告はしているとはいえ、書類に職業の記入が必要なときには、「無職」と書いている。

 定年まで新聞社に在籍していたのには、仕事自体の面白さのほか、自分が歴史に没頭するための経済基盤が整わないという理由もあった。

 中国史の執筆を堂々と「職業」と呼べる日は、おそらく来るまい。生涯、「職人」にはなれないかもしれない。だが、堂々と歴史に打ち込める日々には満足している。

     *     *

 「私も本を書いてみたいんです」

 会社に勤めながら歴史本を出したためか、若い現役世代の方にアドバイスを求められることが時にある。

 尋ねる相手を間違っているだろう。うまいノウハウがあるなら、こちらが聞きたいくらいだ。中国近代史を書いた経験に汎用性があるとも思えない。

 ただ、我ながら気が利かないと恥じつつ、自分の経験については話す。特別な才なく、家族を養わなくてはならない凡人は、長い時間をかけ、続けることにしか活路を見いだせなかった、と。どんなに不安でも、どんなにのろくとも、続けることで、少なくとも前進はしてきたと思う。

     *     *

 金沢文庫に、小さな図書室がある。

 書架を見回すと、諸橋轍次の『大漢和辞典』があった。これはラッキーだ。早速手に取り、現在執筆中の本で日本語での音読みが分からずにいた漢字2文字を調べた。他の漢和辞書では見つからなかった字が、たちどころに現れた。

 「やっぱりすごいな」

 読み、意味、用例……すべて解決した。

 明治から昭和を生きた大漢学者にこんなことを言うのは失礼極まりないかもしれないが、『諸橋大漢和』は、長い年月、決して手を抜くことのない職人仕事の最高峰であるような気がした。                      (2026年5月7日)

 

 ※写真は、1枚目が現在の金沢文庫の正面。2、3枚目は、金沢文庫の文書を保管してきた称名寺の境内です。

本の国、桜の国

 東京の桜が満開のころ、1月にリニューアルオープンした駒込の東洋文庫ミュージアムに出かけた。

 三方の大壁面を埋めるモリソン書庫が、圧倒的に美しい。20世紀初頭、イギリス紙の特派員として北京に駐在していたオーストラリア人、ジョージ・アーネスト・モリソンが集めた書籍だ。コレクションは全部で約2万4000点あるという。それを日本人が購入、収蔵し、いま我々が目にしている。この書庫は、まさに国の宝だと思う。

 モリソンについては、『清朝滅亡』で少し触れた。義和団の乱(1900年)の後、西安に逃げた慈禧(じき=西太后)が、北京に戻ってきたときの様子を、彼は前門で直接見ている。

 リニューアル記念の企画展「ニッポン再発見――異邦人のまなざし――」も素晴らしかった。

 『隋書倭国伝』の「日出ずる処の天子、日没する処の天子に書を致す。恙(つつが)なきや……」が目に飛び込んできた。なんというスケールの一文だろう。中学生のころ、「ジパング」という異国の言葉を教えてくれたマルコ・ポーロの『東方見聞録』がある。シーボルトの『NIPPON』で開かれていたのは、長崎・出島の精緻な図版のページだった。『ペリー提督日本遠征記』の挿絵は、幕末、日本とアメリカが出会った歴史的な光景を写実的に伝えている。

     *     *

 就寝前のわずかの時間に、日本の古典に目を通すことが多い。最近、杉田玄白の『蘭学事始』(らんがくことはじめ)を読み始めた。

 江戸時代、「鎖国」下で、長崎のオランダ語通訳3人が初めて洋書閲読の許可をもらいにいくくだりが、実にリアルで面白い。

 「……なにとぞ我々ばかりも横文字を習い、かの国の書をも読むべきこと御免許をこうむりなばいかに。さもあらば、以来(今後)は万事につけ事情明白にわかり、御用弁(用事をすますこと)よろしかるべきなり。これまでの姿にてはかの国の人に偽り欺かるることありても、これを糾明するの便り(よりどころ、情報)もなきことなりと、三人言い合わせて、この次第を申し立て、なにとぞ御免許なし下されたき旨、公へ願い奉りしに、御聞き届けられ、至極もっともの願い筋なりとて、速やかに御免をこうむりしとなり」(筆者注:現代仮名遣いに改めた)

 現代社会でも、申請書や稟議書といったものは、通るように書かなくてはならない。「今のままでは、騙されても何もできませんよ」と、ことなかれ主義の役人をたきつけるあたり、なかなかやる。

 「知」を求めたこうした先人の行動が、杉田らの『解体新書』につながった。東洋文庫1階ホールで、『解体新書』の複製本も見た。

     *     *

 日本人は古来、舶来の書物を愛した。これは、日本という国の本質を考える上で無視できない事実だと思う。

 この島国は、外界から閉ざされているように見えて、実際には、四面の海という途方もない扉、窓を持つ。稲作や文字、鉄、仏教といった文明のゲームチェンジャーは、常に海のかなたから伝来してきた。

 海の向こうには何があるのか。

 地理的条件と歴史的経験が生んだ好奇心とあこがれは、日本人の精神を形成する不可欠の元素と言えるだろう。

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 面白いのは、日本人がどうにも不思議な炉を持っていることだ。単純に海外の事物を受容するばかりでなく、それを改良し、時には、「習合」とも呼べる化学反応まで起こさせてしまう。

 尊敬する書家の方から、ひらがなの書きかたを教わったことがある。当方に才なく、字はうまくならなかったが、実に興味深かった。

 「元の漢字を思い浮かべながら書けばいいよ。『い』は『以』、『ろ』は『呂』、『は』は『波』……『ゆ』は『由』……」

 漢字から万葉仮名、そして、ひらがなを生み出したプロセスを、逆にたどるような気分だった。

     *     *

 好奇心を満たし、海外の事物を正確に受容し、化学反応を正しく起こさせるために絶対に欠かせないものが、知の結晶といえる書物だったのだと思う。さまざまな評価はあろうが、金や銀を外国に売り、外国からは本を買っていたこの国が、自分はたまらなく好きだ。

 東洋文庫を訪れたついでに、近くにある江戸期の庭園・六義園(りくぎえん)を散歩した。有名な枝垂れ桜は散り始め、かな文字のような花びらで地面も淡く華やいでいた。

 モリソン書庫と桜が、「日本」という国の印象の中で重なって見えた。

                             (2026年4月9日)

 

 ※参考資料:東洋文庫ホームページ、『蘭学事始』(岩波文庫)

 ※写真は、1枚目が東洋文庫ミュージアムのモリソン書庫正面、2枚目は『解体新書』の複製本です。いずれも、館内の撮影ルールは守っています。3枚目は、六義園の枝垂れ桜がつけていた花です。

妖魔化される人々

 ある人や集団、国などを意図的に邪悪なイメージで描くことを、中国語で「妖魔化」という。

 歴史問題や台湾問題をめぐって、中国共産党政権は、日本を繰り返し妖魔化してきた。今もそうだ。彼らは不機嫌な顔で日本に「軍国主義」のレッテルを貼り、汚い言葉で罵り、国民に、世界に注意を喚起している。

 やれやれ、だ。共産党の対日政策は、基本的に、彼ら自身の内政状況次第である。変わる時には、劇的に変わる。日本側から何かを変える必要はない。

     *     *

 日中間の妖魔化現象で、個人的に心配しているのは、むしろ日本側の方だ。社会の負の感情を、積乱雲のごとく一気に発達させてしまうネット空間で、「中国人」全体を妖魔化するような声が目立つ。そこに、すごい数の「いいね」「共感した」がついている。

 背景には、日本における中国人の犯罪、不正、迷惑行為があるのだろう。国、地方自治体、警察は、法律・法令や条例などをもとに、あらゆる手立てを尽くして厳しく対処し、被害を防ぎ、住民らの不安を取り除き、不便を軽減していかなくてはならない。それは当然だ。

 同時に、日本人側が、「中国人」あるいは「外国人」全体に対する不安、反感をいたずらに煽ることがあってはならない、とも思う。

 ある国民または民族が、他の国民や民族全体に対して安易にレッテルを貼り、憎悪や敵意を燃やし続ければどうなるか。自己陶酔と熱狂の果てに待っているのは地獄だと、歴史は教えてくれる。

     *     *

 当たり前のことだが、中国人は日本人とは違う。それを少し意識するだけで、反感や不安は、多少は和らぐかもしれない。

 例えば、「マナー」。15年余り北京で暮らしてみて、生活上のマナーで重視する部分が、日中ではまったく違うと思うようになった。

 日本人にとってのマナーの土台は、「人様に迷惑をかけない」という、自己抑制と周囲との調和を重んじる精神だろう。その静かさ、清潔さ、規律正しさには、美しささえ感じる。

 これに対して、中国社会でより重んじられるのは、年長者や弱き者たちに対する思いやりであるように思う。

 中国の公共交通機関に乗った人なら分かるはずだ。大声でおしゃべりする人、スマホで通話する人は普通にいる。静寂とはほど遠い。だが、老人や子ども、けが人、身障者、妊婦らが近くにいると、皆、驚くほど自然に席を譲る。車内を徘徊する物乞い、駅の出口付近の通路にビニルシートを広げる物売りにすら、彼らは優しかった。

 北京の地下鉄に乗っていると、とんとん、とよく肩をたたかれた。振り向くと、若者がほほえんでいる。

 「座りなよ」

 白髪が目立つ自分は、40代のころから席を譲られる対象だった。

 日本の通勤電車はどうか。イヤホンの音漏れさえ「まわりのお客様のご迷惑」になる静かな車内では、優先席近くにおばあちゃんや子連れの母親が立っている。

 とても残念な光景だ。

 日本人と中国人が、互いに相手のマナーを学び合うことがあってもいいのではないかと思う。

     *     *

 これまた当たり前のことだが、日本人と中国人は、同じ人間として助け合える。

 北京では、中国人に何度も助けられた。

 不動産トラブルをめぐる集団抗議の現場を取材していたとき、突然、左手首をつかまれた。私服警官だ。違法行為はしていない。連行しようとする男に「あなたは何者だ」「何の法律を根拠に拘束する」などと質問をぶつけながら抵抗したが、力ずくで引っ張られる。

 異変に気付いた周囲の人々が集まってきて、何やら大声を出している日本人とその手をつかむ無言の男を取り囲んだ。彼らの怒りの視線は私服警官に向けられていた。人垣で動けなくなった状況で、「なぜ私を捕まえる」と、警官にたたみかけた。群衆が、彼の返答を待っている。しばらくして、警官は手を放し、「チッ」と舌打ちしてどこかに消えていった。

 こちらも急いで撤収だ。助けてくれた彼らにあわただしく「謝謝(シエシエ)」とお礼を言って立ち去ろうとすると、一人の中年男性が微笑んで言った。

 「なーに。俺らのことを書いてくれるのは、お前さんたち外国人だけだ」

     *     *

 ついでにもう一つ当たり前の話をすれば、日本人と同じように、中国人にも優しい人が多い。

 プライベートの取材で、張作霖が生まれた遼寧省の農村に行ったとき、生家跡が分からず途方にくれていた。ようやく通りがかった一人の農民に聞くと、彼は一緒になってあぜ道を歩き、トウモロコシ畑に入り、背丈以上に育った茎をかきわけて、畑の中の小さな石碑のある場所に連れていってくれた。お礼を言うと、やはり笑顔が返ってきた。

 「なーに。中国と日本が仲良くなるといいね」

 そのほか、数えきれないほどの中国人が、この小柄な日本人に、優しくしてくれた。

 中国国内では発表できない近代史認識について熱く語ってくれた知識人、にこにこしながら資料集めを手伝ってくれた友人、こちらの熱意を知って、「好!(ハオ=よっしゃ)」の一言で無理難題に応じ、歴史の現場を探し回ってくれたドライバー、一人で資料を読んでいるのを見ていつもコーヒーをこっそり増量してくれたカフェのおねえさん……彼ら、彼女らがいたから、いま、歴史を書くことができている。

 そんな自分は、「中国人は――」などといった大雑把な悪口は、とても書けない。

     *     *

 中国では、「日本人」というだけで、いろいろと不愉快な思いもした。妖魔扱いもされた。反日デモが荒れ狂う時などは、街中で日本語を使わないなど、身の安全に細心の注意を払った。

 だが、そうした時でも、「あれは共産党が言ってることだから」とにっこり微笑みかけてくれる人がいた。中国にいる日本人として、とてもうれしかった。                     (2026年3月12日)

 

 ※写真は、1枚目は、北京・保利芸術博物館に展示されていた、面をかたどった周代の青銅器です(館内の撮影規則は守っています)。2枚目が北京駅前の広場、3枚目は遼寧省の農村にある張作霖の生家跡(正面のトウモロコシ畑になっている場所)。4枚目は、北京・盧溝橋の欄干を飾る石獅子の一つです。

「黒船」を書く

 1月11日付読売新聞の書評欄で、佐藤賢一氏の新書『歴史小説のウソ』を取り上げた近現代史研究者・辻田真佐憲氏の文章を読んだ。以下、一部を抜粋する。

 「……著者は、(歴史小説家、歴史学者以外の=ブログ筆者注)第三の区分として歴史家を打ち出す。歴史家とは、過去と現在を比較しながら、人間にとっていかなる時代が望ましいのかといった文明論的な考察を、主観的に引き受ける存在だとされる。ただし、この区分は排他的ではない。学者や小説家が歴史家となることもあれば、一般のひとびとでも、史観を語ることで歴史家となることができる。

 本書の魅力は、この『歴史の解放』にある……」

 思わずうなずいた。

     *     *

 現役の記者だった14年前、『覇王と革命』を出した。驚いたのは、ネット上で、「これは学術書? それとも小説?」といった感想をいくつも目にしたことだ。国際線で機内食を配る客室乗務員の「ビーフ? オア チキン?」のように、二者択一のジャンル分けを求めている。

 欧米では、記者が「学術書」でも「小説」でもない歴史書を書くのは、珍しくない。中国でもそうだ。正直なところ、人や文章が、肩書で分類、価値判断されがちな日本社会の不自由さを感じた。

 このブログでもたびたび書いてきたように、中国共産党による歴史支配を北京で目の当たりにしてきた自分は、実感として、歴史は自由であるべきだと思っている。歴史は、権力者や学界の権威、人気作家らの所有物ではなく、皆に開かれていなければならないのだ。

 だから、「歴史の解放」に賛同する。

 もっとも、自分は、「文明論的考察を引き受けるような歴史家」ではない。あえて言えば、生身の人間たちが紡いだ歴史を、できるだけ事実に近い形で再現してみたいと思う一人のライターである。

     *     *

 尊敬する学者は多い。特に、プロパガンダ言論統制でがんじがらめになっている中国の言論界、史学界で、可能な限り歴史の「真実」を伝えようとしている人々には、強く心を揺さぶられた。

 中には残念な学者もいた。

 20年以上前、北京のあるジャーナリストが、戦後日本の歩みを客観的にとらえることの重要性を説く論文を発表した。「反日」が正義とされる社会に一石を投じた論文は、日中双方で大反響を呼んだ。賛同と批判が渦巻く中で、日本専門家の一部から、こんな声が出た。

 「中日関係史や中日関係の専門家ではない人物の一意見に過ぎない」

 この場合、研究機関や大学におけるポスト、学位は、何の関係もなかろう。彼らの傲慢な論評の裏には、部外者が自分の「専門分野」に侵入してきたことへの不快感や拒絶反応、もっと言えば、嫉妬や恐れといった感情さえあるようにも感じた。

 排他的姿勢ほど、学術から遠いものはない。

     *     *

 20世紀末から21世紀初めにかけて、言論統制の縛りがやや緩んだ中国に新たな近代史が出現した。独裁政権の正統性を支えることを目的とした従来の革命史観とは一線を画し、ほとんど知られていなかった事実や斬新な分析を満載した書籍、文章が続々と発表された。その時の驚きと資料群が自分の歴史執筆を全面的に支えていることは、拙著とこのブログで繰り返し述べてきた。

 少しオーバーな言い方を許していただければ、自分は「黒船」を見たのだと思う。それほど衝撃的だった。善玉悪玉がはっきりした革命史観など木っ端微塵に吹き飛ばされた。当時、日本国内でも革命史観に基づく記述が主流で、新しい中国近代史はほとんど伝わっていなかったと思う。これは泰平の世にあった「日本の『中国近代史』」をも揺さぶるのではないかと感じた。

 歴史学者でも、小説家でもない、ただの歴史好きができることは、幕末のかわら版の書き手のように、黒船の姿を写生し、伝えることだけだった。

 それもまた歴史に参入する一つの形だろう。歴史は、そんなライターでも決して拒みはしない。                        (2026年2月10日)

 

 ※写真は、1枚目が中国山東省威海・劉公島にある甲午戦争(日清戦争)博物館の遠景です。ペリー来航が日本の歴史を動かしたように、日清戦争も中国の歴史を動かしました。2枚目は神奈川県横須賀市浦賀港。3、4枚目は同市久里浜のペリー上陸記念碑とペリー記念館です。

伝説の山で

 やれやれ、今年もまた山登りか、と思った。

 意気揚々と山陽電車に乗り、目的地の神戸市・須磨浦公園駅に到着する直前にスマホを見て、ロープウエーの期間運休を知った。我ながら間抜けな話だ。

 毎年、外国人観光客がやや少なくなる初冬に、関西を旅行している。前の年は、鎌倉時代末期、後醍醐天皇がこもった京都南部・笠置山に登った。今度は、平安末期に源平が激突した一ノ谷の古戦場、とりわけ、源義経の逆落としの現場とも言われる鉢伏山(はちぶせやま)に行きたいと思った。ロープウエー運休は、面倒くさがりの情弱には小さな不意打ちだったが、そのおかげで、標高260メートルの小さな山の斜面のきつさを実感できた。

 石段の坂を登って山頂付近の展望台にたどりついたときには、シャツが汗ばんでいた。ダウンコートは手に持った。青空の下、須磨の海岸から神戸市街まで見渡せた。

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 義経は、歴史の大屏風に、ひときわ明るい流星として描かれている。その光芒を仰いだ人々は、数々の伝説を作り出した。

 どちらかというと滅びゆく者を見つめていたい自分は、勇猛果敢な「一ノ谷の逆落とし」や「壇ノ浦の八艘飛び」に心躍らせることは、あまりない。遠くから見物するさかしら顔の坊主のように、彼の人生のハイライトにさえ、最期の地、奥州・平泉の影を見ている。平泉での悲劇的最期があったからこそ、一ノ谷や壇ノ浦が光っているとさえ感じている。

 平家を滅ぼした義経が、軍事、とりわけ戦術、用兵面での天才だったのは間違いないだろう。ただ、真の強者ではないと思う。

 真の強者とは、最後まで生き残る人間だ。勝てる時には戦って、負けそうなときには戦わない、どうしようもない時には逃げる……そんな冷静な判断ができ、一時の屈従をいとわず、時にずるがしこく立ち回れる者だろう。その繰り返しの果てに最後の勝利がある。太い眉がつりあがった昔の少年漫画の主人公のような、猪突猛進型の快男児は、現実世界の果てしないトーナメントでは、二回戦か三回戦で消えるに違いない。

 義経の悲劇は、決勝まで勝ち進んでしまい、真の強者たる資質を持つ兄・頼朝と向かい合ったことにあった。

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 『平家物語』で一ノ谷合戦の白眉は、「敦盛(あつもり)最期」の段だと思う。

 「年十六七ばかり」とあるから、今で言えば15歳くらいか。平敦盛は、清盛の甥だ。義経の奇襲で平家が壊乱したのち、彼は馬に乗って海に入り、沖の舟まで逃れようとしていた。そのとき、熊谷次郎直実という源氏方の東国武者が浜から美しき少年武者を呼び止めた。以下、物語の簡潔な文を引く。

 「まさなうも敵にうしろを見せさせたまふものかな。かへさせ給へ(卑怯にも敵に背中をお見せなさいますか。お戻りください)」と、扇をあげてまねきければ、招かれて、とッてかへす。

 敦盛はなんと、引き返してしまったのだ。そして討たれた。命と引き換えに、はかなく、美しい伝説を残した。

 鉢伏山に近い須磨寺にある敦盛の首塚に参った。敦盛が最期まで持っていたという「青葉の笛」も見た。

 敦盛もまた、強者ではなかった。初冬とはいえ、境内にはまだ、鮮やかな紅葉が残っていた。

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 自分が義経や敦盛に思いを寄せるのは、ごく単純に言えば、彼らが美しく滅んでいったからだ。

 言わずもがなだろうが、滅べばいいというものではない。決定的に大事なのは、彼らが、自らの意思で、死が待つかもしれない方角に顔を向けたことだ。意思が生み出す一瞬の小さな動きーー急峻な斜面の底の平家陣を見つめる義経の眼光、熊谷次郎直実の扇を見た敦盛の口元、手綱を握る手の指先まで想像できる。

 もし二人の行動に、他者の強制臭が少しでも付着していれば、哀れさこそあれ、美の粒子が彼らの滅びを包みこむことはない。

 当時の武士の美意識も影響していたに違いない。ただ、それに殉じられる者がどれほどいたか。同時代人も胸を打たれたからこそ、伝説は残った。

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 正月三が日を含めて、一年じゅう中国近現代史の資料を読んでいる。かなりの史書が、内戦を勝ち抜いて最終的に権力を握った中国共産党を絶対善の位置に置いて礼賛し、共産党と対抗、敵対した勢力を絶対悪として口汚く断罪している。そこには、義経も敦盛もいない。

 なんと貧相な物語だろう。少なくとも自分は、そんな中国史は書きたくないと思う。

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 鉢伏山下の須磨公園駅から海岸沿いに少し歩くと、別の敦盛塚がある。山登りの前、そこに参って、目の前にあった蕎麦屋で、「敦盛そば」を食べた。

 山から下りて、熱くなった体を冷やすため、海の見えるカフェでアイスコーヒーを頼み、好物のモンブランケーキまで注文した。

 匹夫凡人の自分が、義経や敦盛について、あれこれ語っていることがちょっと可笑しい。                           (2026年1月3日)

 

 ※引用文献:『平家物語 三』(岩波文庫

 ※写真は、1枚目が鉢伏山の山頂付近から見た神戸市街です。2枚目は山腹で見かけた果樹。3枚目は須磨寺にある敦盛の首塚です。4枚目は「敦盛そば」。美味でした。

 ※中国史に詳しい研究者の方より、「戦線ヲ縮小セヨ」(2025年11月8日)で写真を掲載した戦車博物館はすでに休館になっていると教えていただきました。心より感謝いたします。