覇王ときどき革命

中国・清末民初のお話など

ないのなら、書こうと思った

 約20年間をかけて、中国近代史を書いてきた。最初が、中華民国初期(民初)の軍閥史、次が張作霖の評伝、そして、三作目が清末史である。今回は、こうしたテーマをどうやって決めてきたかについて記したい。決めたというより、流れに任せてきたという方が実際に近い。

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 2003年、中国の体制内知識人の対日関係論を翻訳出版した後、日中関係にかかわる中国近代史を書いてみたいと思い、満洲事変、日中戦争の前段となる民初の歴史を調べ始めた。不惑を超え、いいかげんに動き出さないと、歴史を書くという長年の夢は夢のままで終わるという焦りも感じ始めていた。

 まずは日本語の本にあれこれあたってみた。そして驚いた。

 民初の歴史、とくに、軍閥混戦の時代に関する記述が、ほとんどないのである。「欠落」と言ってもいいほどだった。その期間の空洞を埋めているのは、なぜか、中国共産党史だった。

 ないのなら、書こうと思った。

 これがすべての出発点だ。

 日本語の資料はあきらめて、中国語の資料を探し始めると、もう一度驚いた。

 このときはまさに、中国の新しい近代史の開花期にあたっていた。「悪人」の一言で片づけられる印象しかなかった袁世凱や、その継承者たる諸軍閥について、革命を「正義」、「善」とする伝統的歴史観から離れ、具体的に、客観的に描こうとする資料が続々と登場しつつあった。

 「腐った清朝孫文らが革命で倒したが、袁世凱がその成果を横取りし、中国は、民を顧みない軍閥混戦に陥った」といった清末民初の固定観念が、心地よく崩れていった。

 三国志を思わせる戦乱は、混沌から生じる次の中国の姿を決める戦いでもあった。武人たちは己ばかりか、国の未来も背負って、戦い、騙し、手を組み、逃げた。中国大陸の地図は空前の速度で激しく流動化し、無数のパラレルワールドが現れては消え、その渦の中で、現代中国に直結する革命が動き始めた。

 軍閥史は、めちゃくちゃ面白い――その興奮を持ち続けながら書いたのが、『覇王と革命』だった。

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 群雄が駆け巡る軍閥史で、最も魅力を感じた人物が、奉天張作霖だった。

 「張作霖」の名は、日本の運命を変えた1928年(昭和3年)の「張作霖爆殺事件」によって、日本でもよく知られている。

 ところが、張作霖とは一体何者なのか、という根本的な疑問に答える歴史書は、日本にはほとんどなかった。現在に至るまで、「馬賊の親玉」的なイメージが独り歩きしている。

 これに対し、中国の新しい近代史は、張作霖を、軍閥の時代を代表する大軍人として正確に位置づけ、彼がどのような生涯を送ったのかも詳述していた。以下、『張作霖』の「はじめに」に書いた文章である。

 「草莽から身を起こした(張)作霖は、桁違いの器量によって、乱世を駆け上がっていく。匪賊を斃し、モンゴル兵と死闘を演じ、常勝を誇る大軍閥と激突した。北上する巨大台風のごとき革命軍にも白旗を掲げることはなかった。満洲を勢力圏とする日本に対しては、その力を利用しながら、傀儡にはならず、最後は日本の軍人に殺された」

 そんなことは、日本ではほとんど知られていない。

 「ないのなら、書こう」

 『覇王と革命』に続き、『張作霖』も同じ思いでスタートした。

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 少し話が逸れる。

 正直に言えば、かつては、歴史学者の肩書がないどころか、大学で歴史学を専攻したことすらない自分が歴史を書いてもいいのだろうか、というコンプレックス、怖れがあった。それは同時に、歴史を放置しておくことの言い訳でもあった。

 自らの心が生み出した「壁」を壊してくれたのが、冒頭に記した翻訳書だ。同じ新聞記者であった著者は、歴史に根差す反日感情が渦巻く中国にあって、「戦後日本」を客観的に見ることの重要性を訴えていた。彼は、日本に媚びたのではない。中国の立場に背いたわけでもない。そうすることが中国の改革につながると信じていたのだ。だが、横殴りの雨のような石つぶてを浴びた。それでも主張を曲げず、降りかかる石はますます勢いを増した。

 彼の勇気、彼の強さに比べれば、何もしていないうちから、幻影におびえて尻込みしていた己の姿があまりに情けなかった。歴史を書こう、と思った。

 書籍翻訳という苦しい作業をやり遂げたことで、分厚い中国語資料にぶつかっていけるという自信がついたのも大きかった。

 それから20年以上たった現在、はっきりと分かる。畏敬すべきは、「学術」という字面上の権威ではなく、肩書でも名声でも学位でもなく、畏敬するに値する人なのだ、と。つまりは、他の世界となんら変わらない。

 自分の強みも見えた。

 書きたい歴史を書く意志があり、そのためなら、孤独な作業を何年も続けられるということだ。今では、「常識」や立場、業績といったものにとらわれない「素人」にしか書けないこともある、と桜木花道的に考えている。

 なお、自身の中国取材経験、語学、北京駐在歴などは、個性の一つと言うべきものだろう。そもそも、職業や社会活動などを通じて得られる経験、知識、技術、倫理観といったものは、人によって違う。歴史を書く人々の集団に限っても、その興味の対象、視点、描く手法は、書き手の数だけあるに違いない。自分は、自分の手にある道具を使って、自分の中国史を書いている。

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 『清朝滅亡』は、『覇王と革命』に取り組んでいたころから、いずれ必ず書こうと思っていたテーマだった。新しい近代史の主舞台・清末民初の前半たる清末史にも大きな変化が生じており、しかもそれが恐ろしく面白いことは分かっていた。『張作霖』の執筆を終えると、迷わず清末に着手した。

 この時代に関する歴史書は、日本でも数え切れない。前二作では、ほとんど無人の野を行くような感覚があったが、今度は違う。激戦区に出店するラーメン屋の気分である。

 ただ、自分なりの旗を立てる余地はあると思った。日本の一般向け清末史の圧倒的多数派は、孫文が主役の革命史だったからだ。目にした限りでは、滅亡する清朝側に視座を置き、王朝崩壊の過程を全面的に描いた歴史書、とりわけ、新しい近代史を反映している本はほとんどなかった。

 「ないのなら、書こう」と、この時も思った。

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 最初に漠然と考えていた「日中関係にかかわる中国近代史」は、いつの間にか、こんなところに来た。結局、これまでに出した三冊のテーマを決めるにあたって、二つのことを共通の基準にしてきたということになるだろう。

 一つは、心から面白い、書きたいと思うものを書く、ということだ。

 もう一つは、日本に類書がない、少なくとも、ほとんどないものを書く、ということである。そうでなければ、書き手としての楽しさがなく、何より、読者が価値を見出せる本にはなりそうもない。

 何の変哲もない、平凡な結論である。

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 テーマの決定に深くかかわる存在が、出版社の編集者だ。ライターがいくら偉そうなことを言っていても、出版社のゴーサインがなければ、本にはならない。

 このブログでも白状してきたように、八年以上に及んだ第一作『覇王と革命』の執筆作業は、「ほとんど誰も知らない軍閥話を読んでくれる人が本当にいるのか。そもそも本になるのか」という不安との闘いでもあった。

 その分厚い持ち込み原稿を読み、しかも、書籍化に向けて動いてくださったのが、白水社の編集者・阿部唯史氏だった。

 後日、喫茶店でコーヒーを前に半信半疑でいる自分に、阿部氏は、分量の調整、主観的表現の手直しなど、淡々といくつか注文されたものの、「誰も知らない軍閥史」のリスクには一言も言及されなかった。氏にしても、中国の軍閥話など初めてで、売れるかどうか以前に、目の前の原稿が信用できるかどうかさえ判断しようがないはずだった。

 その点について尋ねると、微笑みが返ってきた。

 「いえ、原稿を読めば分かります」

 阿部氏には心から感謝している。『張作霖』、『清朝滅亡』でも、同じように、リスクについては何も言わず、企画段階から全力でサポートしてくださった。三冊はいずれも、阿部氏なくして世に出ることはなかったと思う。

 のちに、阿部氏の口から、本づくりについて、こんな言葉を聞いた。

 「大事なのは、筆者、編集者の『熱』です」

 なるほど、確かにそうかもしれない。阿部氏は穏やかだが、熱い人だ。そして、書きたいテーマを書く熱なら、自分にもある。           (2024年4月4日)

 

 ※今回の写真は、これまで掲載していない北京の歴史的現場のものです。1枚目は、天壇の祈年殿です。清朝歴代皇帝のほか、洪憲皇帝となった袁世凱も、天壇で祭天の儀式を行いました。2枚目は、慈禧(西太后)が咸豊帝と過ごし、その後、英仏連合軍に破壊された円明園。3枚目は、北海です。共産党・政府機関がある中海、南海(中南海)と違い、「三海」で唯一公園となっています。4、5枚目は、義和団の乱に関係する写真で、最初は、籠城戦の舞台の一つとなった西什庫の教会。撮影時は自由に敷地内に入れましたが、近年、宗教統制が厳しくなり、関係者以外の立ち入りは禁じられています。次は、大火に見舞われた前門の繁華街です。今もにぎわっています。

 ※毎週1回、計3回にわたって、歴史を書く手順などについて記してきました。たくさんの方に読んでいただきました。本当にありがとうございました。

 ※東方書店様には、写真撮影、ブログ掲載を快諾していただきました。また、白水社のX(旧ツイッター)担当の方は、『清朝滅亡』シリーズに続き、ブログ更新情報を発信してくださいました。心より御礼申し上げます。

 ※「覇王ときどき革命」は、今後も折に触れて、清末民初のお話や、とりとめもない感想などを掲載していきます。引き続きよろしくお願いいたします。

歴史のレシピ

※これまでに出した3冊は、いずれもほぼ同じ手順、方法で書いています。

 『清朝滅亡』の「はじめに」にこう書いた。

 「本書は、そのダイナミックな時代、とくに生身の人間の動きを、基礎的史料のほか、近年出版された史書や論文、報道などの新たな素材から再現しようとしたものだ」

 こうした記述方法をとる中国近代史が日本では珍しいせいか、時に執筆の手順、方法について聞かれることがある。今回は、そのご質問への答えとして、我流のレシピを記してみたい。

 あらかじめお断りしておくが、自分は、このデジタル時代に非効率極まりない方法を採っており、読む方の参考にはならないかもしれない。『覇王と革命』の執筆には八年以上かかった。同書と内容が重なる部分が多い『張作霖』でも五年余りかかった。経験を重ねて作業効率がずいぶんよくなった『清朝滅亡』も、大学から大学院に進んだ文系学生の在学期間より長い六年以上を費やしている。

 AIを駆使すれば、どんな「歴史」でもすぐに書けるに違いない。だが、無尽蔵のネット情報を鯨飲して完成品らしきものを吐き出し、ファクトチェックは利用者に丸投げするような今のAIを、自分の歴史執筆に使いたいとは思わない。プロパガンダの海の中での資料・情報選別という、中国近現代史を書くにあたっての最も初歩的かつ、最も重要な関門をクリアするまでにも、長い時間がかかりそうな気がする。いずれにせよ、自分は間に合うまい。

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※『清朝滅亡』執筆で作った「年表」です。

【1】

 前置きが長くなった。以下、手順を記す。

 資料の読み込みはまず、通史、年譜から始める。淡々と、正確に事実関係を列記しているタイプの本がいい。ここで、時代の全体的なイメージをおおまかにつかむことが非常に重要だ。特定テーマの細部に入り込んだ専門書や論文、物語性を強調した伝記などから入ると、全体が傾斜するか、脇道にそれてしまう気がする。

 常に意識しているのは、中国共産党による恣意的評価に注意し、それに引きずられないことだ。自分は北京での記者経験が長く、この点は比較的慣れていると思う。

 資料を読んで、「欠かせない事実関係」「参考になる」「面白い」などと思った部分はマーカーで線を引き、パソコンのメモ(ワード文書)に訳出していく。

 メモは基本的に、「1894年」、「1911年」というふうに、年ごとに一つの文書を作り、日単位で、出来事と関連の事実、背景、解釈などを記していく。年表型にしているのは、時系列と5W1Hをはっきりつかめるためで、ドキュメント形式の歴史を書きたいと思っている自分には都合がいい。

 以下、この形のメモを「年表」と呼ぶ。

 人物の略歴や一般知識など、年表形式にはなじまないデータ用の文書も別に作っておく。

 一週間に一度、全ファイルのバックアップを必ず取る。万一、全データが消えたら、もう立ち直れない。

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※1898年の「年表」の一部です(右)。青い付箋が貼ってある部分は、資料(左)の青付箋(記述、ページ番号)に対応しています。明らかな誤字、意味のとりにくい訳文もありますが、自分が分かればいいこの段階ではあまり気にしません。

 訳出にあたっては、文章が多少乱雑になってもいいので、速度を重視する。ただ、誤訳を避け、表現に厚みと広がりを持たせるために、知っていると思う単語でもまめに辞書を引く。特殊な用語は中国語サイト等での確認が欠かせない。

 とくに大事なのは、その訳出箇所がどの資料の何ページにあったかということを忘れずに記入することだ。これをいい加減にしておくと、後でチェックができない。出典も示せなくなる。つまりは、ボツ情報になるしかない。

 また、単に訳すだけではなく、そのときに感じた疑問、感想、着想なども同じ場所に簡単に書き留めておく。これは次の資料に向かうために必要な作業であり、原稿を書く際の引き出しにもなる。

 この20年間ほど、「中国語資料は1週間に50ページ読み、『年表』に記入する」ことを目安にしてきた。毎日やれば、一か月に250ページほどになる。資料は最初から最後まで通読するわけではないので、分厚い本でも半分、薄い本なら数冊程度の分量になる。

 こうした作業を一~二年ほど続けると、時代の骨組みがだんだん見えてくる。

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※日本語資料も「年表」に落とします。

 日本語の通史もこの間に読むようにしている。日本語資料も、マークにとどめず、やはり同じように「年表」に落とす。翻訳の手間がない分、量的目安は設定せず、適宜書き込んでいく。

 なお、自分が中国語資料の方を多用しているのは、中国で近年出現した新しい近代史の成果をもとにした中国史を書いているためだ。この関係の日本語資料はまだ多くないように思う。また、中国史を書く以上、中国人が書いた、質量ともに圧倒的な「自国史」に正面から取り組みたい。ここらの心理は、外国人が日本史、あるいはフランス史アメリカ史などを書く場合でも同じではないだろうか。

     *     *

【2】

 次の段階では、人物の評伝、テーマ史など、より具体的で細かい記述が多い資料に着手する。作業自体は、何ら変わらない。史書・史料等に加え、新聞・雑誌、インターネットなどから、信頼性が高いと思われるさまざまな材料を集め、同じ「年表」に落としていく。

 年代やテーマごとの着手順はない。むしろ、常に新鮮な感覚を保てるように、違う年代、テーマをばらばらにやっていく方が、自分には向いている。たとえば、戊戌政変-袁世凱日清戦争義和団-光緒帝-戊戌政変-辛亥革命-慈禧(西太后)-義和団……といった具合だ。初めにやった通史、年譜の土台があるので、混乱することはない。このやり方だと、執筆対象期間を通じた全体の量的バランスを常に一定に維持できるメリットもある。

 資料を読むごとに、骨組みに肉がついていくのが分かる。作業時間が長くなるにつれ、歴史の大きな流れの中で、自分が重視する「人の物語」も見えてくる。

 評伝に関しては、さまざまな人物のものを多数読み合わせることによって、それぞれを相対化する。

 資料を通して人物を観察する場合、まず共産党による恣意的評価を排した上で、「演説」や「書き物」といったもの以上に、実際の行動を追う。このブログで前にも触れたように、人でも国でも、真実を映し出すのは、きれいごとや宣伝ではなく、行動だと考えている。

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 諸説、異説があっても構わない。それをそのまま記していく。そうしているうちに、「年表」には、さまざまな説があふれ出し、やがて、主流となっている説、共産党の主観に基づく「定説」よりはるかに合理的で、歴史の流れを客観的に説明できる説が浮かび上がってくる。

 『清朝滅亡』の「はじめに」でも書いたように、無数の事象で有力な諸説が乱立する中、「何が史実か」を判定する力は、自分にはない。その弱さを自ら認めることが大事だと思っている。一方で、やや乱暴に言えば、そもそも、そんなことが完璧にできる人はこの世に存在しないだろうとも思う(だから諸説があるのだ)。「史実」を声高にアピールする本は、逆に信用できない。

 史実を踏み外す怖さは常にある。だが、それは、歴史を書きたい自分が、歴史を書かない理由にはならない。

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※草稿執筆中に見つかった「井戸」に関する記述です。

【3】

 「年表」作成中も資料は絶えず増え続け、それをまた「年表」に落とす。果てしない作業のように見えても、数年間同じことを繰り返していると、新たな事実関係や新鮮な歴史解釈などに触れることが急に少なくなってくる。ここらが潮時だ。

 この時点で、「年表」や人物関係などのメモは、A4用紙、12ポイントの活字で計数千枚になっている。それを印刷し、ファイルに分け、すべてを読み返す。使えそうな部分にマーカーでラインを引き、必要に応じて、補完要素や原稿化に向けた着想などをボールペンで書き込んでいく。

 何年もかけて「年表」を作り続けているうちに、全体のイメージ、もう少し具体的に言えば、「目次」は大体できている。どの説を採るかについても、ほぼ頭の中にある。

 自作のメモを読み終えた時が、原稿を書き始めるときだ。

 本という最終形態を考えながら、まずは、章ごとに草稿を書いていく。細かいことはあまり考えない。「年表」などをもとに、まずは書いてみて、とにかく全体の草稿を仕上げる。

 細部に至るまで、「創作」はしない。これは自らに対する縛りだ。生々しい会話文を含め、事実関係はすべて、資料に基づいて書く。時折、「小説か?」との感想をいただくこともあるが、「出典」をたどっていただければ、資料上で確認できるはずだ。小説を書くなら、「歴史小説」とうたって、もっと自由に、大胆に書きたい。

 書きながら、資料探しもやめない。たとえば、『清朝滅亡』第4章「義和団の乱」で、東交民巷に籠城した外交官たちが「水」をどうしていたのかが、ずっと気になっていた。北京の水事情から、おそらく井戸だろうとは推測できた。だが、当時は常識で、特記するようなことでもなかったのだろう、明確に記す中国語資料がなかなかなかった。「数本の井戸」という言葉をようやく見つけたのは、草稿執筆段階だった。

 草稿とはいえ、推敲を二度、三度と重ねていくので、すべてを書き終えるには、半年以上はかかる。

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※当初、資料にもとづき、許景澄が「西洋眼鏡」をかけていたと書いていましたが、その写真が確認できず、校正段階で削りました。

【4】

 ここでようやく、出版社に渡す原稿に着手する。

 今度は、読みにくさや論理矛盾の解消、独りよがりの表現の削除といった外科手術的修正に加え、細かい部分のチェックが極めて大事になる。新聞社に勤めていたころによく言われた、「神は細部に宿る」との言葉を思い出す。

 「年表」に記した資料のページ番号をもとに、まんべんなく原文にあたって事実関係を確認し、表現を修正し、誤訳を直す。確認の際には、手元の資料だけでなく、中国のネット上にある資料、報道、歴史家・知識人の文章なども広く参考にしながら、極端な記述や筋の悪い説を削り、全体の信頼性を高めていく。

 かなり面倒なのは、いかようにもなる漢字の音読みだ。たとえば、安徽省省都・「合肥」を、自分は「ごうひ」と読むが、歴史小説などでは、「がっぴ」と強そうに読まれることもある。外交文書や史書、論文、ネット等を参照し、定着した読みがあれば、それを使う。中国の簡体字が正しく日本の漢字に置き換えられているかもチェックする(『覇王と革命』では、「灤州=らんしゅう」で失敗した)。

 旧暦から新暦への変換は、史書等の記述のほか、複数の万年暦で確認しながら行った。

 原稿が固まってくるこの段階で、「出典」も同時に作成する。「年表」にあった資料のページ番号と、本文記述が正確に対応しているかも原本でチェックしなければならない。

 言葉を一つひとつチェックする果てしない作業をしていると、不謹慎ながら、「(独ソ両軍が一軒の家、一つの部屋まで奪い合ったとされる)スターリングラードの戦いみたいだ」との思いがよぎる。もっとも、それだけやってもなお間違いが潜んでいることは、経験上、分かっている。

 出版社側の校正意見にも対応する。二校、三校と、基本的には、同じ作業が続く。

 草稿に着手してから原稿を書き上げるまで、計一年半から二年くらいはかかる。校正を終えた時には、ぐったりして、しばらく抜け殻になる。

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※松山にある種田山頭火終焉の地です。

【追記】

 感覚的に言えば、草稿の執筆に入るのは、全体のプロセスの八合目に達したころだろう。結局のところ、資料を読み込み、「年表」を作っている時間が圧倒的に長いのだ。

 愛媛県松山市を旅した際、俳人種田山頭火の終焉の地を訪れた。彼の一句は、自分の胸の中で、いつも錫杖の音のように鳴り続けている。

 分け入つても分け入つても青い山

 日々、資料と向き合う自分もまた、果てしない山道を歩いているように思える。尊敬する先達たちからお話をうかがい、眼を見開かされることは多い。歴史の現場取材は、新しい発見と感動をもたらしてくれる。そこで出会う方々の笑顔もうれしい。ただ、単純に作業時間という尺度で言えば、そうしたことは、山道で滝や花に出会った瞬間のようなものでしかない。しばし足を止めた後、また一人、歩き始める。

 歴史を書く作業は、孤独だが、決して不幸せではない。  (2024年3月28日)

 

※今回は写真の掲載方法を変え、本文の説明が分かりやすくなる位置に配置しました。

※ブログの一言説明を「中国・軍閥時代のお話など」から「中国・清末民初のお話など」に変えました。

※次回は、本のテーマをどうやって決めてきたかについて記します。

見書必買

 2012年に『覇王と革命』を出して以降、拙著を読んでくださった方々から、しばしば同じ質問を受ける。「巻末の参考・引用文献に載っている中国の本はどうやって集めたのか」というものだ。

 これについては、単純明快な個人的指針がある。

 「見書必買」だ。

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 海軍用語とされる「見敵必戦」にあやかった自製の言葉だが、古い中国ウオッチャーにとっては、ほぼ鉄則になってきた心得と言えるだろう。使えると思った資料は、見つけたその場ですぐに買うのだ。良書と出会ったら、「次はない」が、購入判断の前提となる。

 中国では、資料との出会いは、実際に一期一会である場合が多い。人口十四億人の国で何年も前に、場合によっては何十年も前に数千部発行された良書が、目の前に現れること自体、「邂逅」という大げさな表現を使ってもいい喜びである。また、売り切れる、売れないから店頭から消える、書店が倒産するといった市場的理由のほか、ある日突然、政治的理由で類書が根こそぎ消えるといった悲劇も珍しくない。

 北京の大小の新刊書店、大学街近くの書店群、瑠璃廠の歴史書店や古書店、古書イベント、旅行先の書店などで「見書必買」を長く繰り返していれば、かなりの資料本は集まる。

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 「必買」といっても、当然、財布との相談になる。コレクターが欲しがるような高価な本には手を出せない。

 ただ、自分は、服にも車にもグルメにも興味がない。ゴルフもしない。酒は飲めない。たばこは20年前にやめた。付き合い麻雀も同じころにやめた。その代わり、本と、取材旅行を含む個人的な旅には出費を惜しまない。お金の側面から言えば、そんな人間である。

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 尊敬する知識人、歴史家たちが書いた書物、おすすめしてくれた資料は、重点的に買う。報道、ネット情報などで知った本を購入することも少なくない。

 知人を介して、北京の著名な教授から「軍閥時代の資料でいいものを教えてほしい」というお話があり、食事をしながらあれこれと楽しく情報交換させていただいたこともあった。同好の士の喜びは、国境を越える。

 北京の大学で東洋史を専攻されていた日本人留学生からおすすめされた『清光緒帝死因鑑証(清光緒帝の死因鑑定)』は、『清朝滅亡』を書く上で欠かせない資料となった。心から感謝している。

 通販サイトは、書物の情報が少ないと、賭けの要素が強くなる。

 台湾の書店は穴場だ。台湾の歴史家の好著だけでなく、中国の良書、欧米で書かれた中国史の中国語翻訳も多い。誠品書店など大型店舗が充実しているほか、台北重慶南路には中国書の専門店もある。

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 ありがたいことに、日本でも中国語資料を入手できる。

 東京の本の街・神保町に行けば、中国関連書籍の専門店・東方書店に必ず立ち寄る。とん、とん、とんと短い階段を上がると中国語書物のフロアがあり、右側の棚の奥、近現代史と伝記のコーナーをひとしきりながめる。ここで買ったものが、これまでに出した拙著の「参考・引用文献」に何冊も入っている。

 最新刊だけではない、厚みのある品揃えがうれしい。中国の歴史書人文書全般でそうだが)は、同じテーマを扱っていたとしても、いつ書かれたか、あるいは発行されたかによって、記述がまったく違う。自分が参考資料を選ぶ基準は、新しいか古いかではなく、使えるかどうかだ。著者、奥付、目次、脚注、参考文献などをチェックし、ページを繰り、いけると判断すれば、もちろん「見書必買」である。

 東方書店のすぐ近くには、同じく中国関連書籍が専門の内山書店もある。魯迅以来の伝統があり、こちらも楽しい。

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 買ったはいいが、結局、「参考・引用文献」のリストには入らなかった書籍も大量にある。その出費も、かなりなものだ。

 だが、それを失敗とは思わない。無駄とも思わない。たまたま自分が急所を見つけられなかっただけで、だれかにとっての宝が、きっとそこに眠っているに違いない。将来、中国語本はすべて、どこかに、あるいはどなたかに、まとめて寄贈するつもりでいる(マーカーライン、書き込み、ページ折りなどでひどく汚れた本を引き取ってくだされば、だが)。そのときに、だれかのためになってくれればいい。本は天下の回りものだと思っている。                        (2024年3月21日)

 

 ※写真は、1、2枚目が北京の書店。最初はあちこちにある新華書店の一つです。昔ながらの書店にも独特の味があります。次は、古都の趣を感じさせる正陽書局。3枚目は、北京の公園で開かれた古本祭りです。掘り出し物を探しに本好きたちが大勢集まってきます。最後は、神保町の神田すずらん通りにある東方書店です。日本語の中国関連書籍もそろっています。

 ※次回は、どうやって資料から素材を抜き出し、まとめ、原稿を書いているのか、その手順、方法について記します。

未完の革命

 袁世凱が弁髪を切ったのは、一説によれば、清朝最後の皇帝・宣統帝溥儀が退位詔書を発表した1912年2月12日の夜だったという。前の月に革命党員に爆弾を投げつけられ、危うく難を逃れて以来、袁は外出を避けて自邸で執務しており、この日も朝廷に出仕してはいない。彼は、溥儀や皇太后・隆裕に拝することなく、王朝に別れを告げたのだった。

 退位詔書は、袁世凱に対し、臨時共和政府を組織するよう命じていた。その部分は、内閣総理大臣だった袁自身が草案を修正させたと見られており、後世、袁が「革命の成果を盗んだ」と罵られる一因となった。

 だが、当時は、革命軍指導者を含む大多数が、そんなことは思わなかっただろう。

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 歴史家・馬平安氏は、著書『袁世凱的正面与側面(袁世凱の正面と側面)』の中で、そのあたりの背景を分かりやすく書いている。概要を記す。

 「長い間、人々は、『辛亥革命孫文をリーダーとする革命党人が発動し、指導したのだから、孫が臨時大総統になるのが当然』と見なしてきた。しかし、当時、国民が広く期待していたのは袁世凱であり、孫文ではなかった。……各方面はそろって、袁こそが、清帝に退位を促し、国家統一を保ち、列強の干渉も受けない唯一の人物であると見なしていた」

 「……反清陣営でも、袁世凱でなくてはだめだとの声が高まった。黄興は、袁が清室を倒したら革命党は袁を大総統に選ぶと約束した。……南方の独立各省では袁に妥協する空気が広がっていく。客観的に言えば、袁が孫文に替わって臨時大総統になることは、実際の状況を反映していた」

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 中華民国という新国家誕生にあたり、帝室、立憲派、革命軍など国内の各勢力が、袁世凱という神輿を担いだため、戦火はやみ、「革命」は不徹底のままで終わった。帝室を根絶やしにすることはなく、中央、地方の官僚や軍隊も残った。

 従来は否定的な記述をされがちだった革命の結果について、『清朝滅亡』の終章では、中国で登場した新しい近代史を踏まえ、肯定的に書いた。

 歴史家たちの見解を少し紹介しよう。

 楊天石氏は、『帝制的終結』の中で、「辛亥革命の結果は、平和的な政権移譲だった。社会は基本的に安定し、革命で通常避けられない大規模な流血や犠牲、破壊、殺戮はなかった。代償が非常に小さい、人道主義的革命だった」と記している。

 雪珥氏は「辛亥革命の最大の意義は、……我々が批判してきた革命の不徹底さだともいえる。……王朝が崩壊した後、勝利者が敗北者を殺し尽くすことはなかった。勝者の間ですぐに戦争が起こることもなかった。……辛亥革命が非常に偉大なのは、王朝が崩壊した廃墟の上に、民族和解と政治的寛容を実現したことだ」(『絶版恭親王』)とする。

 馬勇氏は、「後世の中国人は、この平和的な権力移行の歴史を心にとどめ、温かい心と敬意をもって一つの王朝、帝国の消滅を扱わなくてはならない」(『馬勇講史 革命』)と述べている。

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 中途半端な革命に満足できなかった一人が、南から北に攻め上る「北伐」で清王朝を倒そうとしていた孫文だった。

 中華民国の初代臨時大総統となった孫文は、清朝滅亡後の一時期、そのポストを譲った袁世凱と蜜月関係になった。しかし、宋教仁暗殺事件の後、袁打倒を掲げて武装蜂起し、敗れた。

 戦いに勝った袁世凱は、自ら皇帝になるという致命的な失着によって転落した。

 袁世凱が病死し、中国が軍閥混戦状態に陥った後も、孫文は、「革命」のための戦いを続ける。しかし、大軍閥の争いの中で何度も敗れ、最後には、ロシア革命で生まれた共産主義国家・ソ連の力を借りた。それは、中国共産党の発展の土台となり、のちの共産中国誕生につながる重大な選択だった。

 1925年、孫文は、「革命いまだ成功せず」の言葉を遺して、北京で死去した。

     *     *

 孫文にとっての「革命の成功」とは何だったのだろうか。

 国家であれ、人間であれ、真実を映し出すのは、美しい言葉を連ねた口上ではない。行動だ。その点で言えば、少なくとも自分には、専制的傾向が強く、民や兵の苦しみをよそに戦いを求め続け、ついには革命を輸出する外国勢力にすがった孫が、「三民主義」に基づく民主的共和国の実現といった理念的目標をゴールにしていたようには思えない。それは、「革命家」として生きた一人の人間としての、もっと生々しい欲求、渇望の充足ではなかったか。

 歴史の大きな流れで言えば、孫文の「未完の革命」を引き継ぐかたちになったのは、内戦で勝利し、中華人民共和国を樹立した毛沢東だった。彼の中国革命は、「成功」したかに見えた。

 ところが、自身の権威に揺らぎが見えたとき、毛沢東は革命闘争を継続するよう大衆を扇動した。毛もまた、自身の革命を未完と位置づけたのだ。それは、国民が地獄を見た文化大革命の前触れであった。

     *     *

 「人道主義」「民族和解」「政治的寛容」「平和的権力移行」――王朝打倒という表象の底にあった、辛亥革命のこうした真の成果は、過酷な歳月の中で皆に踏みにじられ、やがて雲散霧消した。その意味で、辛亥革命は「未完」に終わったと思う。

 歴史は、見る者の立ち位置によってその姿を変える。新たな辛亥革命評価を通すと、歴史の勝者たる革命政党の「正義」を絶対視してきた物語とはまったく違う中国近現代史が、眼前に立ち現れてくるように感じる。         (2024年3月14日)

 

 ※写真は、1枚目が、孫文中華民国臨時大総統就任式典が開かれた南京・総統府の正門です。2枚目は、中国国家博物館で展示された宣統帝の退位詔書など。3、4枚目は、清朝最後の朝見が行われた紫禁城(現・故宮博物院)・養心殿の外観と正面に掛かる額。5枚目は、皇帝になった袁世凱の祭祀用衣冠(国家博物館蔵)など。最後は、天安門です。

 ※毎週1本ずつ、9回にわたって『清朝滅亡』各章にかかわる文章を書いてきました。たくさんの方に読んでいただきました。本当にありがとうございました。また、白水社のX(旧ツイッター)担当の方には、毎回、更新のお知らせを発信していただきました。心より御礼申し上げます。

 ※次回からは、拙著を読んでくださった方々からしばしばご質問をいただく執筆のあれこれについて記そうと思っています。三回程度を予定しており、まずは「中国語資料の集め方」から始めるつもりです。引き続きよろしくお願いいたします。

進撃の逃走

 内戦続きの中国近代史を書いていて、かなりの頻度で使う単語は「逃げる」、またはそれに類する動詞である。権力者であれ、軍人であれ、形勢が悪くなると、まあよく逃げる。多くの場合、戦わずして逃げる。その速度はすなわち、勝者側の進撃の速度となる。

 『清朝滅亡』の第八章では、辛亥革命を書いた。1911年の武昌蜂起から翌年の宣統帝退位まで、わずか四か月しかかかっていない。これは、王朝を守るはずだった者たちの逃げ足がいかに速かったかを物語ってもいる。

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 湖北省武漢・武昌で革命の火の手が上がった10月10日夜、成り行きで蜂起部隊を指揮することになった呉兆麟は、夜明けまでが勝負と見て、湖北、湖南を統括する大官・湖広総督の庁舎である総督署などに攻撃をしかけた。

 呉兆麟の思惑通り、朝までに決着が着いた。革命軍は総督署を攻略、武昌のほぼ全域をあっさり占領下に置いた。総督は逃げていた。しかも、長江に浮かぶ軍艦に、だ。まるで屋島の平家である。

 同月22日、湖南省が、湖北に次いで「独立」(清朝統治からの離脱を意味する)を宣言した。湖広総督同様、湖南巡撫(地方長官)も船に乗り、上海に逃れた。『帝制的終結』などによると、逃走にあたって、「兄弟たちよ、我々は皆漢人だ」と叫び、「大漢」と書かれた旗を掲げさせたという。満洲族支配の象徴である弁髪を切ったとも伝えられる。

 逃亡以外に、寝返りで革命軍を平和的に招き入れるケースもある。

 史書『近代中国』は、武昌蜂起以降の九都市の蜂起、独立の状況を紹介しつつ、こう総括している。

 「非常にスムーズで、戦闘はなかった。あるいは、激しい戦闘はなかった。一日のうちに、長くても二日のうちに任務を完了した。四十分以内のところさえあった。総督と巡撫、将軍たちの大半は抵抗しなかった」

 ここまでくると、もはや「臆病な満洲族督撫(総督と巡撫)」といった個人的な問題ではない。革命軍に背中を見せる逃走、あるいは寝返りは、それ自体が、旧体制を突き崩し、新たな時代へと向かう大規模な進撃の一形態でもあったとも言えるだろう。王朝という巨大な塔のごとき構造物を支える国民の忠誠心は、嘘のように溶解しつつあった。

     *     *

 念のために言うと、逃げ足の速さを笑うつもりはない。内戦において、戦いの前に逃げるという選択は、最善策となりうる。

 民意の支持を失った権力者や軍人がいち早く逃げて戦乱を避けられる、あるいは最小限に抑えられるなら、一般の民衆にとってこれほどの幸運はない。「死ぬまで戦う」と叫んで民を巻き添えにしたあげく、最後に逃げる者より、はるかにましだろう。

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 例外的に革命軍の前に立ちはだかった二人の名を挙げよう。

 一人は、言うまでもなく、袁世凱だ。当時最強の北洋軍を握っていた袁は、その気になれば、革命軍を殲滅できたかもしれない。

 だが、袁世凱は漢口で革命軍に一撃を見舞い、ダウンを奪うと、すぐに手を緩めた。彼は、これによって革命軍と実質的に連携する態勢を築き、皇帝退位に向けて朝廷を追い込んでいく。

 もう一人は、奉天の地方軍人・張作霖である。

 辺地にあった彼は、武昌蜂起の一報を受けると、部隊を率い、奉天省城に向けて全力で馬を駆った。清朝の東三省総督を革命から守るためだ。中国各地で大勢が逃げ足を飛ばしているさなか、張は革命の炎が上がろうとしている危地を目指して走った。奉天まで走り抜けた彼は、辛亥革命を跳躍台として乱世を駆け上がっていく。このあたりは、彼の評伝で書いた。

 天下を取る者、天下に迫る者の行動は、やはり常人とは違う。

                             (2024年3月7日)

 

 ※写真は、1枚目が、武昌蜂起直後に革命党が軍政府を置いた旧鄂軍都督府大楼(湖北省武漢・武昌。現在は辛亥革命博物館になっています)。革命前は、省咨議局の建物でした。2枚目は武昌から見た長江。3枚目は、湖南省・岳陽を流れる長江です。4枚目は、辛亥革命時に袁世凱が蟄居していた河南省安陽(旧名・彰徳)にある袁林(袁の墓園)の牌楼、5枚目は、張作霖が生きた清末~中華民国時代の面影をとどめる遼寧省瀋陽駅(旧奉天駅)。最後は同省にある張作霖の墓です。

三つの棺

 清末の主役の一人、光緒帝は、北京から南西に百数十キロ離れた河北省保定市にある清西陵に眠っている。

 光緒帝の陵墓・崇陵は、内部まで一般公開されている。石畳の階段を下りると、巨石がアーチ状に組まれた通路から石室にかけた空間の荘厳さに息をのむ。その別名通り、まさに「地下宮殿」だ。

 広い墓室の中央には、照明を浴びて金色に輝く光緒帝の棺があった。湿気がある石壁の表面も光り、月夜の水底を思わせる幻想的な美しさがある。

 光緒帝、慈禧の最期を描いた『清朝滅亡』第七章では、光緒帝の棺が置かれた場面を書いた。場所は、ここではない。紫禁城の乾清宮だ。中に皇帝の遺体はなかった。この出来事は、清末の大きなミステリーとなってきた光緒帝の死の謎を解く重要な手がかりとされている。

 「正大光明」の額が掛かる乾清宮内に、この棺が置かれた光景を想像し、背筋が少し震えた。

     *     *

 「禁煙」などの注意書きがある墓室内で写真撮影は禁止されていないことを確認し、他の参観者も自由に写真を撮っているのを見て、スマホを取り出した。

 金色の棺の正面に置かれた献花台には、花のほか、お札、バナナ、水のペットボトルなど、いろいろな供物があふれんばかりに置かれていた。ひときわ目を引くのが、珍妃とされる肖像(別人説もある)と、光緒帝とされる肖像を並べて合成した写真だった。最初に訪れた時には、「珍妃」の写真だけだったと記憶している。

 光緒帝と珍妃の生と死は、紫禁城内の悲恋の物語として民族の記憶の中にある。二人を寄り添わせてあげたいという思いは、とてもよく分かる。

 しかし――

 光緒帝の棺から右に視線を移すと、そこにはもう一つ、暗い色の大きな棺が置かれている。

 皇后・隆裕のものだ。

 隆裕は、西陵内の別の場所に葬られた珍妃らと違い、皇帝と同じ墓室に眠っている。また、清朝の最終局面で皇太后として重大な決断をした隆裕の名は、永遠に歴史に刻まれ、忘れられることはないだろう。だが、その棺は、どこか孤独に見える。  

     *     *

 慈禧(西太后)の陵墓は、河北省唐山市の清東陵にある。棺はやはり地下宮殿に置かれ、透明なケースに覆われていた。

 慈禧は、この棺に三度入った。

 最初は、1908年に死去した後だ。

 次は20年後の1928年、軍隊に盗掘された時である。慈禧の遺体が棺から引きずり出された模様は、『清朝滅亡』で書いた。清代の陵墓の調査、研究に長年携わってきた徐広源氏の『清皇陵地宮親探記』などによると、顔を傷つけられた慈禧の遺体は、床に置かれた棺の蓋の上にうつぶせに置かれたまま、湿って風の通らない墓室内に40日以上も放置されたという。旧皇族が、遺体と棺を女たちに清めさせ、慈禧はようやく棺に戻れた。

 それから半世紀以上がたった1984年1月、慈禧はまたも棺の外に出た。学術調査が入ったのだ。

 ミイラ化した慈禧の身長は153センチだった。ズボンには「寿」、上着には「福」の刺繍があった。満洲族の女は纏足(てんそく)しないため、慈禧の靴下のサイズは19・5センチあった。

 国家文物局の専門家に防腐処理をされ、慈禧は、今度こそ永眠の場になるであろう棺に帰った。

     *     *

 慈禧の墓室を出て、高い楼から陵墓の全体像を見下ろした。地下ばかりでなく、地上の建築もまた宮殿の姿をしていると思った。空の下に広がる広大な東陵、そして西陵は、北京の故宮頤和園以上に、清という帝国の巨大さを実感できる場所だと思う。

                            (2024年2月29日)

 

 ※写真は、1枚目が光緒帝の墓室。左が光緒帝、右が隆裕の棺です。2枚目は、光緒帝の献花台上の供物。3枚目は光緒帝の陵墓の建築外観。4、5枚目が慈禧陵の石碑と棺、最後が慈禧陵楼上からの景観です。

 ※清西陵、東陵の公式ウェブサイトを見る限り、現在も写真撮影禁止の注意はないようです。ただ、以前も記しましたように、中国で写真を撮る場合は、その時々、その場その場でのルールに十分注意されるようお願いします。

 ※乾清宮内部の写真は、昨年12月に投稿した「清朝滅亡」の回で掲載しています。

陽だまりの日々

 八カ国連合軍との戦争が終わり、1902年1月、逃亡先の西安から北京に戻ってきた慈禧は、それから数年間、お気に入りの頤和園(いわえん)を中心に、比較的穏やかな日々を過ごす。満洲が主戦場となった日露戦争、革命団体が結集した同盟会の創設など、王朝の危機につながりかねない大事件は相次いでいたが、慈禧個人にとっては、陽だまりにいるような時間だったかもしれない。

     *     *

 このころの慈禧を象徴するエピソードの一つは、アメリカ人女性画家キャサリン・カールに、肖像画を描かせたことだろう。『清朝滅亡』第六章では、慈禧が写真に夢中になったことは記した。だが、肖像画には一言しか触れておらず、ここで少しだけ補っておきたい。

 1903年8月5日朝、キャサリンは、肖像画の依頼を取り持ったアメリカ公使夫人とともに、馬車で頤和園に向かった。

 接見時間は午前10時半だった。慈禧は、初対面の画家に手を差し伸べた。各国公使夫人たちとの交流から、握手が西洋の礼であることを知っていた。ところが、キャサリンが返した礼に仰天してしまう。伸ばした手がつかまれ、口づけされたのだ。

 キャサリン頤和園近くに住み、八か月ほどの間に4枚の油絵を描いた。

 完成した自身の肖像画を見た慈禧は、「顔の陰になっている部分をもっと明るくするように」と命じた。自分の顔が黒いなどあってはならない。キャサリンは、光で陰影を表現する西洋画の技法を説明したが、慈禧は納得しない。アメリカ公使夫人も修正を勧め、キャサリンは、油絵に白粉(おしろい)を塗るかのように、しぶしぶ顔を白くした。

 肖像画は、アメリカ・セントルイスで開かれた博覧会に出展された。大清国を統べる神秘的な女性権力者の姿が、公開されたのだ。絵を一目見ようとする観客が詰めかけたという。

     *     *

 慈禧は、時に画家や写真家の前に座りながら、ゆっくりと下り坂を歩いている。

 頤和園の歴史を簡明に解説する書『頤和園』は、「長寿は、おそらく、慈禧の最も強烈な願望だったであろう」と記している。

 乾隆帝の時代に「清漪園(せいいえん)」と呼ばれていたころ、政の場である建築の名は「勤政殿」だったが、慈禧によって「仁寿殿」と改名されたという。

 寝宮の名は、紫禁城での寝宮と同じ、「楽寿堂」だ。

 西安から戻った時点で、六十歳代後半だった慈禧は、午後の陽だまりの中で「寿」の字に囲まれつつ、日没の近さを予感していた。

 慈禧が頤和園に滞在している間、光緒帝は楽寿堂近くの玉瀾堂で軟禁されていた。何でも思い通りにできた慈禧と違い、彼には自由がなかった。だが、三十代前半の彼には、慈禧が何よりも欲している「時間」が、まだ十分にあった。いや、十分にあるはずだった。

     *     *

 頤和園の外では、社会が急速に変容しつつあった。

 『清朝滅亡』で紹介した北京動物園の前身・農事試験場の設立が認可された1906年(一般開放は翌年)、直隷総督・袁世凱が近代化を加速させている天津では、全国に先駆けて路面電車が開通した。

 『清宮档案』によると、初の路線となる環状線の営業運転が始まる日、大群衆が集まり、人の海のようになったという。子供たちは電車の後ろを走った。駅に着くと、車両によじ登った。

 陽光や街灯に輝く電車は、近代そのものだった。ハード面ばかりではない。軌道を走る「近代」は、大衆にも、近代にふさわしい思考と行動を求めた。

路面電車の運行会社は、相次いで乗客向けの公告を出したという。

 「車内でむやみに痰を吐いてはいけません」

 「乗客は汚い言葉を使ってはならず、わが社の車両を汚してはならず、他の乗客を侮辱してはなりません」

     *     *

 1907年6月10日、イタリア、ドイツ、フランスの新鋭自動車計5台が、北京・東交民巷の公使館街を一斉に出発した。

 目指すは、パリ。北京―パリラリーのスタートである。レースカーは、北京城の北面にある徳勝門を出て、万里の長城がうねる山地を経由し、モンゴルからシベリアに抜け、ユーラシア大陸を横断する。

 東交民巷の公使館街が包囲され、八カ国連合軍との戦争に敗れた慈禧が徳勝門から長城の山に逃れていったのは、わずか7年前のことだ。時の流れは、とてつもなく速い。

 約1万7000キロを走破したイタリア車が、ついにパリのゴールに達したのは、8月20日だったという。

 その3か月後の11月15日、70年余りを生きてきた慈禧に、日没の時が訪れた。そのとき、陽だまりはすでにどこかにかき消え、時代の風雲が清国を覆っていた。

                            (2024年2月22日)

 

 ※参考資料:頤和園、前清旧話、北京日報、晩清史(戴鞍鋼氏)、1901年・慈禧太后的革新令、清宮档案

 ※写真は、最初が、北京の首都博物館で2016~17年に開かれた「走進養心殿(養心殿に入る)」展に出展された慈禧の肖像パネル(キャサリン・カールが描いた油絵の現物はアメリカにあります)の一部です。2枚目は頤和園昆明湖。3~5枚目は順に、頤和園の楽寿堂、仁寿殿、玉瀾堂です。最後は、20世紀初頭に近代都市に成長した天津の近年の風景です。