覇王ときどき革命

中国・清末民初のお話など

陽だまりの日々

 八カ国連合軍との戦争が終わり、1902年1月、逃亡先の西安から北京に戻ってきた慈禧は、それから数年間、お気に入りの頤和園(いわえん)を中心に、比較的穏やかな日々を過ごす。満洲が主戦場となった日露戦争、革命団体が結集した同盟会の創設など、王朝の危機につながりかねない大事件は相次いでいたが、慈禧個人にとっては、陽だまりにいるような時間だったかもしれない。

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 このころの慈禧を象徴するエピソードの一つは、アメリカ人女性画家キャサリン・カールに、肖像画を描かせたことだろう。『清朝滅亡』第六章では、慈禧が写真に夢中になったことは記した。だが、肖像画には一言しか触れておらず、ここで少しだけ補っておきたい。

 1903年8月5日朝、キャサリンは、肖像画の依頼を取り持ったアメリカ公使夫人とともに、馬車で頤和園に向かった。

 接見時間は午前10時半だった。慈禧は、初対面の画家に手を差し伸べた。各国公使夫人たちとの交流から、握手が西洋の礼であることを知っていた。ところが、キャサリンが返した礼に仰天してしまう。伸ばした手がつかまれ、口づけされたのだ。

 キャサリン頤和園近くに住み、八か月ほどの間に4枚の油絵を描いた。

 完成した自身の肖像画を見た慈禧は、「顔の陰になっている部分をもっと明るくするように」と命じた。自分の顔が黒いなどあってはならない。キャサリンは、光で陰影を表現する西洋画の技法を説明したが、慈禧は納得しない。アメリカ公使夫人も修正を勧め、キャサリンは、油絵に白粉(おしろい)を塗るかのように、しぶしぶ顔を白くした。

 肖像画は、アメリカ・セントルイスで開かれた博覧会に出展された。大清国を統べる神秘的な女性権力者の姿が、公開されたのだ。絵を一目見ようとする観客が詰めかけたという。

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 慈禧は、時に画家や写真家の前に座りながら、ゆっくりと下り坂を歩いている。

 頤和園の歴史を簡明に解説する書『頤和園』は、「長寿は、おそらく、慈禧の最も強烈な願望だったであろう」と記している。

 乾隆帝の時代に「清漪園(せいいえん)」と呼ばれていたころ、政の場である建築の名は「勤政殿」だったが、慈禧によって「仁寿殿」と改名されたという。

 寝宮の名は、紫禁城での寝宮と同じ、「楽寿堂」だ。

 西安から戻った時点で、六十歳代後半だった慈禧は、午後の陽だまりの中で「寿」の字に囲まれつつ、日没の近さを予感していた。

 慈禧が頤和園に滞在している間、光緒帝は楽寿堂近くの玉瀾堂で軟禁されていた。何でも思い通りにできた慈禧と違い、彼には自由がなかった。だが、三十代前半の彼には、慈禧が何よりも欲している「時間」が、まだ十分にあった。いや、十分にあるはずだった。

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 頤和園の外では、社会が急速に変容しつつあった。

 『清朝滅亡』で紹介した北京動物園の前身・農事試験場の設立が認可された1906年(一般開放は翌年)、直隷総督・袁世凱が近代化を加速させている天津では、全国に先駆けて路面電車が開通した。

 『清宮档案』によると、初の路線となる環状線の営業運転が始まる日、大群衆が集まり、人の海のようになったという。子供たちは電車の後ろを走った。駅に着くと、車両によじ登った。

 陽光や街灯に輝く電車は、近代そのものだった。ハード面ばかりではない。軌道を走る「近代」は、大衆にも、近代にふさわしい思考と行動を求めた。

路面電車の運行会社は、相次いで乗客向けの公告を出したという。

 「車内でむやみに痰を吐いてはいけません」

 「乗客は汚い言葉を使ってはならず、わが社の車両を汚してはならず、他の乗客を侮辱してはなりません」

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 1907年6月10日、イタリア、ドイツ、フランスの新鋭自動車計5台が、北京・東交民巷の公使館街を一斉に出発した。

 目指すは、パリ。北京―パリラリーのスタートである。レースカーは、北京城の北面にある徳勝門を出て、万里の長城がうねる山地を経由し、モンゴルからシベリアに抜け、ユーラシア大陸を横断する。

 東交民巷の公使館街が包囲され、八カ国連合軍との戦争に敗れた慈禧が徳勝門から長城の山に逃れていったのは、わずか7年前のことだ。時の流れは、とてつもなく速い。

 約1万7000キロを走破したイタリア車が、ついにパリのゴールに達したのは、8月20日だったという。

 その3か月後の11月15日、70年余りを生きてきた慈禧に、日没の時が訪れた。そのとき、陽だまりはすでにどこかにかき消え、時代の風雲が清国を覆っていた。

                            (2024年2月22日)

 

 ※参考資料:頤和園、前清旧話、北京日報、晩清史(戴鞍鋼氏)、1901年・慈禧太后的革新令、清宮档案

 ※写真は、最初が、北京の首都博物館で2016~17年に開かれた「走進養心殿(養心殿に入る)」展に出展された慈禧の肖像パネル(キャサリン・カールが描いた油絵の現物はアメリカにあります)の一部です。2枚目は頤和園昆明湖。3~5枚目は順に、頤和園の楽寿堂、仁寿殿、玉瀾堂です。最後は、20世紀初頭に近代都市に成長した天津の近年の風景です。