覇王ときどき革命

中国・清末民初のお話など

隣にいる拳民

 1963年に初版が出た名著『義和団研究』の中に、義和団の乱を、簡潔に表現している言葉を見つけた。

 「千古未有的奇変」である。意味は明らかだろう。

 この「奇変」は、『清朝滅亡』の第四章で描いた。神々の降臨によって不死身になったとうそぶく拳民(義和団に加わった者)の群れが、外国人やキリスト教徒らを手当たり次第に虐殺した。慈禧(西太后)は、あろうことか、この集団と手を組んで対外戦争を始め、八カ国連合軍に帝都を踏みにじられた。

 世界を揺るがした乱が、歴史上まれな「奇変」であるのは間違いない。ただ、矛盾するようだが、この「変」は、類似の事件がいつ起きてもおかしくない普遍性を持つような気もしている。

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 1990年代から2010年代にかけて、都合15年以上を北京で過ごした。自分が歴史好きだったためか、雑談相手の中国人から「義和団」という言葉を何度も聞いた。

 1989年の天安門事件を経て、鄧小平が改革開放を再加速させる大号令を発した90年代初めごろ、「義和団」は、「愚かな排外主義者」の比喩表現として使われた。

 ところが、間もなく、共産主義イデオロギーの権威が世界的に失墜、求心力維持を図る中国共産党が「愛国主義」を強く押し出すようになり、風向きが変わった。義和団の乱は、「反帝国主義運動」「愛国運動」などと持ち上げられることが多くなり、公然と嘲笑できるような雰囲気ではなくなった。

 その後、「愛国主義」が価値観における絶対的な地位を占めていく中、中国各地で反日デモが相次いだ。日本大使館に投石し、日系スーパーを破壊する群衆は叫んだ。

 「愛国無罪」と。

 改革開放実現までの苦難を知る知人は、「彼らは義和団だ」と不愉快げに言った。

 インターネットには、排外的な「愛国者」たちの暴力的コメントがあふれかえり、彼らもまた、「現代の義和団」と見なされた。

 だが、共産党の脅威にならない限り、彼らが罰せられることはほとんどなかった。「愛国」の妖怪は今も、次の標的を探しながら徘徊している。

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 義和団の乱は、朝廷の権力闘争と連動していた。光緒帝の早期退位を図る勢力が、義和団を首都に招き入れ、その力によって、皇帝と、皇帝を支える外国勢力を駆逐しようとしたのだ。政治の庇護下にある拳民たちは思うままに人を殺し、街に火を放った。

 政治と群衆が結びついた大事件として、明らかな共通点があるのは、66年後に毛沢東が発動した文化大革命文革)だろう。権力に陰りが見えていた毛は、大衆を激しく扇動し、造反の嵐を起こすことによって、共産党中央で実務を担っていた指導層や、それを支持する者たちを打倒しようとした。

 おびただしい数の人々が「資本主義の道を歩む実権派」などといった、当時にあっては致命的なレッテルを貼られ、群衆から肉体と精神を蹂躙、破壊された。『清朝滅亡』で何度か触れた旗人出身の文豪・老舎も迫害され、北京で入水自殺した。中国は、「10年の内乱」に陥った。文革もまた、「千古未有的奇変」と言えるだろう。

 毛沢東死後、文革は徹底的に否定された。だが、個人独裁が復活した現在、文革期を思い起こさせるような「領袖」賛美や政治スローガンが中国全土に響いている。

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 義和団の乱の際、重臣・栄禄は、暴走した慈禧に従う姿勢を見せながら、裏では戦争の拡大を防ぎ、破滅に瀕した国をかろうじて守った。

 文革でも、同じように、ナンバー2以下が、破局を避けるために陰で奔走していた。

 こうした状況は、多かれ少なかれ、文革後の中国でも続いてきた。今もそうなのかもしれない。

 一つ言えることは、彼らの行為が、一時的かつ限定的な対症療法でしかなく、最高権力者の暴走を封じる根本策ではないということだ。

 大衆の愛国心、排外感情を煽る独裁者が、決定的な判断ミスを犯したとき、「千古未有的奇変」が繰り返されない保証はない。

 『清朝滅亡』の「はじめに」に書いた。

 「清末の動乱の渦は、今も消えていない。再び成長する可能性を秘めながら、静かに回転し続けている」

 これは、中国で長く暮らした一傍観者の実感である。

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 排外的思考と暴力への衝動は、現代社会でも減じていない。むしろ、SNSを通じて、より剥き出しになって増幅しつつある。その点は、中国に限ったものではなく、日本を含む世界各国も似たようなものだろう。

 拳民は今もいる。隣にいる。自分の中にもいる。

                             (2024年2月8日)

 

 ※写真は、1、2枚目が北京・東交民巷の旧フランス公使館と旧日本公使館です。3枚目は、義和団の乱の翌年に東交民巷に建てられたカトリック教会。4、5枚目は、かつて拳民が集まっていた天津の呂祖堂(現義和団記念館)外観と、その中に展示された義和団の服装。最後は、北京の老舎記念館です。