覇王ときどき革命

中国・清末民初のお話など

珍妃殺害異説

 1900年8月、八カ国連合軍が北京に進撃、慈禧(西太后)、光緒帝らは、紫禁城を脱出し、黄土高原を通って陝西省西安に逃げた。西への逃避行は、光緒帝が愛した珍妃を井戸に投げ込んで殺すという陰惨極まりない事件から始まる。

 『清朝滅亡』では、第五章の最初の節で、珍妃殺害を取り上げた。現場状況を巡る記述は諸説紛々で、本文で取り上げた宦官・崔玉貴の回想以外の説は、版元・白水社のホームページ上の「出典」で簡単に紹介した。ここでは、これら異説について、もう少し詳しく記したい。

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 代表的なものは、慈禧が珍妃に対して、自分も井戸に飛び込むと話したとする説だ。元になったのは、1930年に故宮博物院が発行した『故宮週刊』第30期の珍妃特集で、現場近くの門の外にいたとする宦官・唐冠卿の証言が掲載されているという。

 唐冠卿は、突然、慈禧の大きな声を聞いた。

 「私たち女は井戸に飛び込もう」

 慈禧は、そんな言葉でまず珍妃に井戸に飛び込むよう命じた。しかし、珍妃は応じない。

 崔玉貴も「妃が飛び込んだ後、私も続きます」と言ったが、珍妃は怒り、「お前は来るな」とはねつけた。

 慈禧の命で、珍妃を井戸に投げ込んだのは、やはり崔玉貴である。

 唐冠卿は、珍妃の声がした後に「ポン」という音を聞いた、と話している。 

 投げ込まれる前、珍妃は「李安達(リー・アンダー)、李安達!」と叫んだ、と語った宦官がいる。安達は、宦官に対する尊称で、珍妃が助けを求めたのは、慈禧側近の宦官・李連英だった。

 その李連英が珍妃を殺したという説もあるという。

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 慈禧は最初、珍妃も連れて逃げるつもりだったと語った者もいる。

 慈禧の死後、宮廷で力を持った宦官・小徳張の孫(生殖能力を失った宦官は、養子をとる場合が多い)が書いた『我的(私の)祖父小徳張』などは、以下のような伝聞を伝えている。

 紫禁城脱出を前に、慈禧は珍妃に準備を急がせた。だが、珍妃は言った。

 「私の顔には痘ができており、重い病にかかっております。両脚も力がなく本当に歩けません。どうか、里に逃げさせてください」

 慈禧はそれでも歩けと言った。珍妃はやはり地面にうずくまって歩かない。慈禧は振り返って崔玉貴に珍妃を井戸に落とすよう大声で命じた。

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 他の説と大きく異なっているのは、小徳張が仕えた皇太后・隆裕が、「珍妃は自ら井戸に飛び込んだ」と語ったとされていることだ。

 隆裕は皇后として、珍妃はまず嬪(ひん)として、同時に宮中に入った。身分差ははっきりしている。しかし、光緒帝が寵愛したのは、慈禧が推した二十歳過ぎの血縁ある皇后ではなく、快活に笑う十三歳の少女だった。

 『我所知道的末代皇后隆裕(私が知る最後の皇后隆裕)』によれば、隆裕は、珍妃が自分で飛び込んだとしたうえで、こう言ったという。

 「後に多くの人が、私がよく(珍妃の問題を)密告していたために、老太后(慈禧)は井戸に投げ入れたのだと言いました。でも、これは私に無実の罪を着せるものです」

 珍妃の死が自発的な選択だったかどうかはともかく、隆裕が話したとされる言葉からは、後宮の人間関係、噂話まで鮮やかに浮かび上がってくる。

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 珍妃の遺骸を冷たい井戸の底に残したまま、慈禧は、山中へと逃れていく。

 慈禧がその心の中で、珍妃殺害をどう考えていたかは分からない。宮女や地方官らが残した回想や記録を読む限り、重い罪悪感を引きずっているようには見えない。

 北京を離れて数日後、地方官がゆで卵五個を慈禧に献上した。慈禧はそのうちの三個を食べ、二個を光緒帝に与えたとされる。愛する妃を奪われた皇帝に対する彼女なりの思いやりだったのかもしれない。

                            (2024年2月15日)

 

 ※参考資料:太監談往録、宮女談往録、中国経営報、光緒皇帝的珍妃、慈禧太后、光緒皇帝、囚徒天子・光緒皇帝、我的祖父小徳張、我所知道的末代皇后隆裕、庚子西狩叢談など

 ※写真は、1枚目が北京の故宮博物院に残る珍妃の井戸。2枚目は、清西陵にある瑾妃、珍妃姉妹の陵です。次は、慈禧が紫禁城脱出直前まで滞在していた楽寿堂。4、5枚目は、逃走の途中で慈禧が滞在した家屋とその内部(現河北省・鶏鳴駅城)です。