覇王ときどき革命

中国・清末民初のお話など

歴史のレシピ

※これまでに出した3冊は、いずれもほぼ同じ手順、方法で書いています。

 『清朝滅亡』の「はじめに」にこう書いた。

 「本書は、そのダイナミックな時代、とくに生身の人間の動きを、基礎的史料のほか、近年出版された史書や論文、報道などの新たな素材から再現しようとしたものだ」

 こうした記述方法をとる中国近代史が日本では珍しいせいか、時に執筆の手順、方法について聞かれることがある。今回は、そのご質問への答えとして、我流のレシピを記してみたい。

 あらかじめお断りしておくが、自分は、このデジタル時代に非効率極まりない方法を採っており、読む方の参考にはならないかもしれない。『覇王と革命』の執筆には八年以上かかった。同書と内容が重なる部分が多い『張作霖』でも五年余りかかった。経験を重ねて作業効率がずいぶんよくなった『清朝滅亡』も、大学から大学院に進んだ文系学生の在学期間より長い六年以上を費やしている。

 AIを駆使すれば、どんな「歴史」でもすぐに書けるに違いない。だが、無尽蔵のネット情報を鯨飲して完成品らしきものを吐き出し、ファクトチェックは利用者に丸投げするような今のAIを、自分の歴史執筆に使いたいとは思わない。プロパガンダの海の中での資料・情報選別という、中国近現代史を書くにあたっての最も初歩的かつ、最も重要な関門をクリアするまでにも、長い時間がかかりそうな気がする。いずれにせよ、自分は間に合うまい。

     *     *

※『清朝滅亡』執筆で作った「年表」です。

【1】

 前置きが長くなった。以下、手順を記す。

 資料の読み込みはまず、通史、年譜から始める。淡々と、正確に事実関係を列記しているタイプの本がいい。ここで、時代の全体的なイメージをおおまかにつかむことが非常に重要だ。特定テーマの細部に入り込んだ専門書や論文、物語性を強調した伝記などから入ると、全体が傾斜するか、脇道にそれてしまう気がする。

 常に意識しているのは、中国共産党による恣意的評価に注意し、それに引きずられないことだ。自分は北京での記者経験が長く、この点は比較的慣れていると思う。

 資料を読んで、「欠かせない事実関係」「参考になる」「面白い」などと思った部分はマーカーで線を引き、パソコンのメモ(ワード文書)に訳出していく。

 メモは基本的に、「1894年」、「1911年」というふうに、年ごとに一つの文書を作り、日単位で、出来事と関連の事実、背景、解釈などを記していく。年表型にしているのは、時系列と5W1Hをはっきりつかめるためで、ドキュメント形式の歴史を書きたいと思っている自分には都合がいい。

 以下、この形のメモを「年表」と呼ぶ。

 人物の略歴や一般知識など、年表形式にはなじまないデータ用の文書も別に作っておく。

 一週間に一度、全ファイルのバックアップを必ず取る。万一、全データが消えたら、もう立ち直れない。

     *     *

※1898年の「年表」の一部です(右)。青い付箋が貼ってある部分は、資料(左)の青付箋(記述、ページ番号)に対応しています。明らかな誤字、意味のとりにくい訳文もありますが、自分が分かればいいこの段階ではあまり気にしません。

 訳出にあたっては、文章が多少乱雑になってもいいので、速度を重視する。ただ、誤訳を避け、表現に厚みと広がりを持たせるために、知っていると思う単語でもまめに辞書を引く。特殊な用語は中国語サイト等での確認が欠かせない。

 とくに大事なのは、その訳出箇所がどの資料の何ページにあったかということを忘れずに記入することだ。これをいい加減にしておくと、後でチェックができない。出典も示せなくなる。つまりは、ボツ情報になるしかない。

 また、単に訳すだけではなく、そのときに感じた疑問、感想、着想なども同じ場所に簡単に書き留めておく。これは次の資料に向かうために必要な作業であり、原稿を書く際の引き出しにもなる。

 この20年間ほど、「中国語資料は1週間に50ページ読み、『年表』に記入する」ことを目安にしてきた。毎日やれば、一か月に250ページほどになる。資料は最初から最後まで通読するわけではないので、分厚い本でも半分、薄い本なら数冊程度の分量になる。

 こうした作業を一~二年ほど続けると、時代の骨組みがだんだん見えてくる。

     *     *

※日本語資料も「年表」に落とします。

 日本語の通史もこの間に読むようにしている。日本語資料も、マークにとどめず、やはり同じように「年表」に落とす。翻訳の手間がない分、量的目安は設定せず、適宜書き込んでいく。

 なお、自分が中国語資料の方を多用しているのは、中国で近年出現した新しい近代史の成果をもとにした中国史を書いているためだ。この関係の日本語資料はまだ多くないように思う。また、中国史を書く以上、中国人が書いた、質量ともに圧倒的な「自国史」に正面から取り組みたい。ここらの心理は、外国人が日本史、あるいはフランス史アメリカ史などを書く場合でも同じではないだろうか。

     *     *

【2】

 次の段階では、人物の評伝、テーマ史など、より具体的で細かい記述が多い資料に着手する。作業自体は、何ら変わらない。史書・史料等に加え、新聞・雑誌、インターネットなどから、信頼性が高いと思われるさまざまな材料を集め、同じ「年表」に落としていく。

 年代やテーマごとの着手順はない。むしろ、常に新鮮な感覚を保てるように、違う年代、テーマをばらばらにやっていく方が、自分には向いている。たとえば、戊戌政変-袁世凱日清戦争義和団-光緒帝-戊戌政変-辛亥革命-慈禧(西太后)-義和団……といった具合だ。初めにやった通史、年譜の土台があるので、混乱することはない。このやり方だと、執筆対象期間を通じた全体の量的バランスを常に一定に維持できるメリットもある。

 資料を読むごとに、骨組みに肉がついていくのが分かる。作業時間が長くなるにつれ、歴史の大きな流れの中で、自分が重視する「人の物語」も見えてくる。

 評伝に関しては、さまざまな人物のものを多数読み合わせることによって、それぞれを相対化する。

 資料を通して人物を観察する場合、まず共産党による恣意的評価を排した上で、「演説」や「書き物」といったもの以上に、実際の行動を追う。このブログで前にも触れたように、人でも国でも、真実を映し出すのは、きれいごとや宣伝ではなく、行動だと考えている。

     *     *

 諸説、異説があっても構わない。それをそのまま記していく。そうしているうちに、「年表」には、さまざまな説があふれ出し、やがて、主流となっている説、共産党の主観に基づく「定説」よりはるかに合理的で、歴史の流れを客観的に説明できる説が浮かび上がってくる。

 『清朝滅亡』の「はじめに」でも書いたように、無数の事象で有力な諸説が乱立する中、「何が史実か」を判定する力は、自分にはない。その弱さを自ら認めることが大事だと思っている。一方で、やや乱暴に言えば、そもそも、そんなことが完璧にできる人はこの世に存在しないだろうとも思う(だから諸説があるのだ)。「史実」を声高にアピールする本は、逆に信用できない。

 史実を踏み外す怖さは常にある。だが、それは、歴史を書きたい自分が、歴史を書かない理由にはならない。

     *     *

※草稿執筆中に見つかった「井戸」に関する記述です。

【3】

 「年表」作成中も資料は絶えず増え続け、それをまた「年表」に落とす。果てしない作業のように見えても、数年間同じことを繰り返していると、新たな事実関係や新鮮な歴史解釈などに触れることが急に少なくなってくる。ここらが潮時だ。

 この時点で、「年表」や人物関係などのメモは、A4用紙、12ポイントの活字で計数千枚になっている。それを印刷し、ファイルに分け、すべてを読み返す。使えそうな部分にマーカーでラインを引き、必要に応じて、補完要素や原稿化に向けた着想などをボールペンで書き込んでいく。

 何年もかけて「年表」を作り続けているうちに、全体のイメージ、もう少し具体的に言えば、「目次」は大体できている。どの説を採るかについても、ほぼ頭の中にある。

 自作のメモを読み終えた時が、原稿を書き始めるときだ。

 本という最終形態を考えながら、まずは、章ごとに草稿を書いていく。細かいことはあまり考えない。「年表」などをもとに、まずは書いてみて、とにかく全体の草稿を仕上げる。

 細部に至るまで、「創作」はしない。これは自らに対する縛りだ。生々しい会話文を含め、事実関係はすべて、資料に基づいて書く。時折、「小説か?」との感想をいただくこともあるが、「出典」をたどっていただければ、資料上で確認できるはずだ。小説を書くなら、「歴史小説」とうたって、もっと自由に、大胆に書きたい。

 書きながら、資料探しもやめない。たとえば、『清朝滅亡』第4章「義和団の乱」で、東交民巷に籠城した外交官たちが「水」をどうしていたのかが、ずっと気になっていた。北京の水事情から、おそらく井戸だろうとは推測できた。だが、当時は常識で、特記するようなことでもなかったのだろう、明確に記す中国語資料がなかなかなかった。「数本の井戸」という言葉をようやく見つけたのは、草稿執筆段階だった。

 草稿とはいえ、推敲を二度、三度と重ねていくので、すべてを書き終えるには、半年以上はかかる。

     *     *

※当初、資料にもとづき、許景澄が「西洋眼鏡」をかけていたと書いていましたが、その写真が確認できず、校正段階で削りました。

【4】

 ここでようやく、出版社に渡す原稿に着手する。

 今度は、読みにくさや論理矛盾の解消、独りよがりの表現の削除といった外科手術的修正に加え、細かい部分のチェックが極めて大事になる。新聞社に勤めていたころによく言われた、「神は細部に宿る」との言葉を思い出す。

 「年表」に記した資料のページ番号をもとに、まんべんなく原文にあたって事実関係を確認し、表現を修正し、誤訳を直す。確認の際には、手元の資料だけでなく、中国のネット上にある資料、報道、歴史家・知識人の文章なども広く参考にしながら、極端な記述や筋の悪い説を削り、全体の信頼性を高めていく。

 かなり面倒なのは、いかようにもなる漢字の音読みだ。たとえば、安徽省省都・「合肥」を、自分は「ごうひ」と読むが、歴史小説などでは、「がっぴ」と強そうに読まれることもある。外交文書や史書、論文、ネット等を参照し、定着した読みがあれば、それを使う。中国の簡体字が正しく日本の漢字に置き換えられているかもチェックする(『覇王と革命』では、「灤州=らんしゅう」で失敗した)。

 旧暦から新暦への変換は、史書等の記述のほか、複数の万年暦で確認しながら行った。

 原稿が固まってくるこの段階で、「出典」も同時に作成する。「年表」にあった資料のページ番号と、本文記述が正確に対応しているかも原本でチェックしなければならない。

 言葉を一つひとつチェックする果てしない作業をしていると、不謹慎ながら、「(独ソ両軍が一軒の家、一つの部屋まで奪い合ったとされる)スターリングラードの戦いみたいだ」との思いがよぎる。もっとも、それだけやってもなお間違いが潜んでいることは、経験上、分かっている。

 出版社側の校正意見にも対応する。二校、三校と、基本的には、同じ作業が続く。

 草稿に着手してから原稿を書き上げるまで、計一年半から二年くらいはかかる。校正を終えた時には、ぐったりして、しばらく抜け殻になる。

     *     *

※松山にある種田山頭火終焉の地です。

【追記】

 感覚的に言えば、草稿の執筆に入るのは、全体のプロセスの八合目に達したころだろう。結局のところ、資料を読み込み、「年表」を作っている時間が圧倒的に長いのだ。

 愛媛県松山市を旅した際、俳人種田山頭火の終焉の地を訪れた。彼の一句は、自分の胸の中で、いつも錫杖の音のように鳴り続けている。

 分け入つても分け入つても青い山

 日々、資料と向き合う自分もまた、果てしない山道を歩いているように思える。尊敬する先達たちからお話をうかがい、眼を見開かされることは多い。歴史の現場取材は、新しい発見と感動をもたらしてくれる。そこで出会う方々の笑顔もうれしい。ただ、単純に作業時間という尺度で言えば、そうしたことは、山道で滝や花に出会った瞬間のようなものでしかない。しばし足を止めた後、また一人、歩き始める。

 歴史を書く作業は、孤独だが、決して不幸せではない。  (2024年3月28日)

 

※今回は写真の掲載方法を変え、本文の説明が分かりやすくなる位置に配置しました。

※ブログの一言説明を「中国・軍閥時代のお話など」から「中国・清末民初のお話など」に変えました。

※次回は、本のテーマをどうやって決めてきたかについて記します。