覇王ときどき革命

中国・清末民初のお話など

人を書く理由~記者が書く歴史2

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 2月末日をもって、37年間勤めてきた新聞社を定年退職し、「記者」の肩書きが外れた。全部丸めて一言で総括すれば、面白い仕事であった。社の内外を問わず、日本人か外国人かを問わず、プライベートか仕事上かを問わず、こんな自分に温かく接して下さったすべての方々に感謝している。これからは、中国近代史を中心に書き続けたいと思っている。
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 記者だったころ、つまり、つい昨日まで思っていたことがある。
 「歴史のように記事を書きたい」
 「記事のように歴史を書きたい」
 記事と歴史は、あしゅら男爵のように一体化していた。自分らしく生きていくためには、とりあえず両方必要だった。
 これから「記事」を書く機会は激減するだろう。だが、記者として歴史を書く姿勢は変わらない。
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 「『覇王と革命』も、『張作霖』も、ほとんどが人のエピソードですね」
 そんな感想をいただくことがある。
 どの歴史書にも、筆者の個性が出る。公文書をベースにした本、経済統計などデータ重視の本、政治的主張に沿った事象を詰め込んだ本、社会発展に重きを置く本、文化や軍事など特定テーマから全体像に切り込む本、唯物史観的本、そして人物主体の本などなどだ。そこに優劣などない。資料選択の第一歩から執筆終了までの過程は、受精卵が赤ん坊になって生まれるようなもので、結局は筆者のDNA的個性に支配されている。それだけのことだ。
 このブログでも先に触れたが、自分は、生身の人間の物語を、可能な限り事実に近い形で書きたいと思っている。

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 実は、人を書く理由がもう一つある。
 北京で15年以上、中国の政治を取材してきた。東京や台湾での取材期間も含めると、もっと長い間、中国政治を見てきた。記者としては二流、三流であったことを認めつつ言えば、中国の政治を動かす根本的要因は、圧倒的に「人」だった。情熱、信念、野望、怨念、怒り、嫉妬、羨望、恐怖、虚栄、献身、恩義、猜疑、保身……人を動かす心理、感情は無数にある。そうした思いに突き動かされる人、あるいは人同士の離合集散が、時に権力闘争を生みだしながら時代を動かしていく。それは必ずしも前進ばかりではない。個人独裁に抵抗する政敵を粛清したり、自由を求める民衆に銃弾を浴びせたりして歴史の歯車を後退させるのも、人の心だ。
 自分は、人間の影が薄い中国政治論にリアリティーを感じにくい(無論、全く違う角度からの素晴らしい論に目を開かされることも多い)。歴史の記述でも同じだ。繰り返すが、これは優劣ではなく、少し分かりやすく言えば好みの問題である。
 「百年前も同じだったのか」という疑問に対する検証は、自分にはできない。だが、二〇〇〇年代以降に世に出てきた数多くの資料では、百年前もやはり、人が歴史を動かしていた。だから、それを書いた。
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 いま、次の歴史本を書いている。
 そこでもやはり、人々が生き、死んでいく。
 彼らの物語を書いていると、自分の肩書きなど空欄でよいと思う。 

                            (2022年3月1日)

 ※写真は、台北離任直前に訪れた中正紀念堂から見た自由広場です