『覇王と革命』、『張作霖』を読んでいただいた方から、個性的な文章だと言われた。ネットで「講談調」とのご指摘を見つけた時には、ちょっと笑った。残念ながら、講談は聴いたことがない。
もっとも、思い当たる節がないでもない。
学生時代から、『平家物語』を繰り返し読んできた。古語の意味も分からないまま、数年に一度、全巻を一気読みし、その世界の空気に浸る。
よく知られる冒頭の「祇園精舎」の美文はともかく、全体として見れば、恐ろしく簡潔、的確、写実的な表現で構築されている。何でもないように見える一文が、実に美しいと思う。
「あさましかりつる年も暮れ、治承も五年になりにけり」
奈良の大仏殿炎上という未曽有の大事件を、この一文で締める筆には、感嘆するしかない。余計な装飾を取り払った後に、時代を観察する者の呼吸音が聞こえるような気さえする。
歴史を書きたいと思う自分にとって、平家物語は、どこまで行っても届かない彼岸の世界だ。ただ、一歩でも近づきたいという願望はある。それが、無意識のうちに文章の癖となって現れ出ているのかもしれない。
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以前、このブログでも触れたが、平家物語の滅びの美しさは他に類がないと思う。
特に好きな段の一つに「忠度の都落ち」がある。自作の和歌を人に託し、高らかに口ずさみながら落ちていく武人の心は、何ものかを創り出すことに情熱を傾けたことがある人には理解できるだろう。忠度の歌が、勅撰和歌集にひっそり残ったという結末もいい。その事実を記した筆者の、敗者に対する溢れんばかりの思いも読み取れる。
そのはかなく美しい時代の姿は、後世の者を永遠に揺さぶり続ける。
平家物語が無常の文学とは思えない。描かれているのは、無常の内に確かに存在する「常」なのではないか。
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勝者の物語も嫌いではない。特に、ハリウッド映画のような痛快な大逆転劇は好物だ。
『ロッキー』には何度も泣かされた。『半沢直樹』にも、きっちりはまった。ちょっと性格は違うが、最近のお気に入りは、ユーチューブの「ストリートピアノ・どっきり」である。誰も傷つけず、不意に繰り出す超絶技によって人を驚かせるのがいい。
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歴史に関して言えば、どんな逆転劇であれ、「勝者の、勝者による、勝者のための物語」には、まったく魅力を感じない。「史実」の捏造、ご都合主義の事実認定、「善悪」の尺度を振り回す恣意的な評価、過剰な美化や中傷がちりばめられたプロパガンダには、嫌悪感さえ抱く。勝者である独裁政権が、特定の史観、史実認定を強制することも珍しくない。
残念ながら、自分に関わりがある中国近現代史では、そうした勝者の物語が主流である。内戦に勝って政権を奪取し、異論を許さぬ立場から共産党が描く中国近現代史と、敗れ去っていった者、権力に消されてしまった者の目線で書く歴史はまったく異なる。
中国史にあまりなじみのない方は、香港の現状を考えれば、ある程度、想像がつくかもしれない。
(2021年3月14日)