覇王ときどき革命

中国・清末民初のお話など

未完の革命

 袁世凱が弁髪を切ったのは、一説によれば、清朝最後の皇帝・宣統帝溥儀が退位詔書を発表した1912年2月12日の夜だったという。前の月に革命党員に爆弾を投げつけられ、危うく難を逃れて以来、袁は外出を避けて自邸で執務しており、この日も朝廷に出仕してはいない。彼は、溥儀や皇太后・隆裕に拝することなく、王朝に別れを告げたのだった。

 退位詔書は、袁世凱に対し、臨時共和政府を組織するよう命じていた。その部分は、内閣総理大臣だった袁自身が草案を修正させたと見られており、後世、袁が「革命の成果を盗んだ」と罵られる一因となった。

 だが、当時は、革命軍指導者を含む大多数が、そんなことは思わなかっただろう。

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 歴史家・馬平安氏は、著書『袁世凱的正面与側面(袁世凱の正面と側面)』の中で、そのあたりの背景を分かりやすく書いている。概要を記す。

 「長い間、人々は、『辛亥革命孫文をリーダーとする革命党人が発動し、指導したのだから、孫が臨時大総統になるのが当然』と見なしてきた。しかし、当時、国民が広く期待していたのは袁世凱であり、孫文ではなかった。……各方面はそろって、袁こそが、清帝に退位を促し、国家統一を保ち、列強の干渉も受けない唯一の人物であると見なしていた」

 「……反清陣営でも、袁世凱でなくてはだめだとの声が高まった。黄興は、袁が清室を倒したら革命党は袁を大総統に選ぶと約束した。……南方の独立各省では袁に妥協する空気が広がっていく。客観的に言えば、袁が孫文に替わって臨時大総統になることは、実際の状況を反映していた」

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 中華民国という新国家誕生にあたり、帝室、立憲派、革命軍など国内の各勢力が、袁世凱という神輿を担いだため、戦火はやみ、「革命」は不徹底のままで終わった。帝室を根絶やしにすることはなく、中央、地方の官僚や軍隊も残った。

 従来は否定的な記述をされがちだった革命の結果について、『清朝滅亡』の終章では、中国で登場した新しい近代史を踏まえ、肯定的に書いた。

 歴史家たちの見解を少し紹介しよう。

 楊天石氏は、『帝制的終結』の中で、「辛亥革命の結果は、平和的な政権移譲だった。社会は基本的に安定し、革命で通常避けられない大規模な流血や犠牲、破壊、殺戮はなかった。代償が非常に小さい、人道主義的革命だった」と記している。

 雪珥氏は「辛亥革命の最大の意義は、……我々が批判してきた革命の不徹底さだともいえる。……王朝が崩壊した後、勝利者が敗北者を殺し尽くすことはなかった。勝者の間ですぐに戦争が起こることもなかった。……辛亥革命が非常に偉大なのは、王朝が崩壊した廃墟の上に、民族和解と政治的寛容を実現したことだ」(『絶版恭親王』)とする。

 馬勇氏は、「後世の中国人は、この平和的な権力移行の歴史を心にとどめ、温かい心と敬意をもって一つの王朝、帝国の消滅を扱わなくてはならない」(『馬勇講史 革命』)と述べている。

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 中途半端な革命に満足できなかった一人が、南から北に攻め上る「北伐」で清王朝を倒そうとしていた孫文だった。

 中華民国の初代臨時大総統となった孫文は、清朝滅亡後の一時期、そのポストを譲った袁世凱と蜜月関係になった。しかし、宋教仁暗殺事件の後、袁打倒を掲げて武装蜂起し、敗れた。

 戦いに勝った袁世凱は、自ら皇帝になるという致命的な失着によって転落した。

 袁世凱が病死し、中国が軍閥混戦状態に陥った後も、孫文は、「革命」のための戦いを続ける。しかし、大軍閥の争いの中で何度も敗れ、最後には、ロシア革命で生まれた共産主義国家・ソ連の力を借りた。それは、中国共産党の発展の土台となり、のちの共産中国誕生につながる重大な選択だった。

 1925年、孫文は、「革命いまだ成功せず」の言葉を遺して、北京で死去した。

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 孫文にとっての「革命の成功」とは何だったのだろうか。

 国家であれ、人間であれ、真実を映し出すのは、美しい言葉を連ねた口上ではない。行動だ。その点で言えば、少なくとも自分には、専制的傾向が強く、民や兵の苦しみをよそに戦いを求め続け、ついには革命を輸出する外国勢力にすがった孫が、「三民主義」に基づく民主的共和国の実現といった理念的目標をゴールにしていたようには思えない。それは、「革命家」として生きた一人の人間としての、もっと生々しい欲求、渇望の充足ではなかったか。

 歴史の大きな流れで言えば、孫文の「未完の革命」を引き継ぐかたちになったのは、内戦で勝利し、中華人民共和国を樹立した毛沢東だった。彼の中国革命は、「成功」したかに見えた。

 ところが、自身の権威に揺らぎが見えたとき、毛沢東は革命闘争を継続するよう大衆を扇動した。毛もまた、自身の革命を未完と位置づけたのだ。それは、国民が地獄を見た文化大革命の前触れであった。

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 「人道主義」「民族和解」「政治的寛容」「平和的権力移行」――王朝打倒という表象の底にあった、辛亥革命のこうした真の成果は、過酷な歳月の中で皆に踏みにじられ、やがて雲散霧消した。その意味で、辛亥革命は「未完」に終わったと思う。

 歴史は、見る者の立ち位置によってその姿を変える。新たな辛亥革命評価を通すと、歴史の勝者たる革命政党の「正義」を絶対視してきた物語とはまったく違う中国近現代史が、眼前に立ち現れてくるように感じる。         (2024年3月14日)

 

 ※写真は、1枚目が、孫文中華民国臨時大総統就任式典が開かれた南京・総統府の正門です。2枚目は、中国国家博物館で展示された宣統帝の退位詔書など。3、4枚目は、清朝最後の朝見が行われた紫禁城(現・故宮博物院)・養心殿の外観と正面に掛かる額。5枚目は、皇帝になった袁世凱の祭祀用衣冠(国家博物館蔵)など。最後は、天安門です。

 ※毎週1本ずつ、9回にわたって『清朝滅亡』各章にかかわる文章を書いてきました。たくさんの方に読んでいただきました。本当にありがとうございました。また、白水社のX(旧ツイッター)担当の方には、毎回、更新のお知らせを発信していただきました。心より御礼申し上げます。

 ※次回からは、拙著を読んでくださった方々からしばしばご質問をいただく執筆のあれこれについて記そうと思っています。三回程度を予定しており、まずは「中国語資料の集め方」から始めるつもりです。引き続きよろしくお願いいたします。