覇王ときどき革命

中国・清末民初のお話など

プレートがかかる家

 北京にいたころ、時折、古くからの住宅街・胡同(フートン)を回り、住民の許しを得て、家屋の外観や中庭などの写真を撮らせてもらっていた。

 近代史で登場する人々のゆかりの場所だ。「文化財」として大事に扱われているのは少数で、庶民の住宅になっているものが多い。歴史的建築物であることを証明するのは、外壁に取り付けられた簡単なプレートだけである。

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 『清朝滅亡』第三章では、光緒帝が進めた戊戌の変法(体制改革)と、慈禧(西太后)による政変について書いた。

 変法のブレーンとなり、慈禧を倒すクーデターを画策した康有為の旧居は、住人もおらず、屋根瓦に草が生え、廃屋に近い様子だった。清末、時代を動かした多弁な康がそこに滞在していたことなど、「北京市文物保護単位 康有為故居」と書かれたプレートがなければ分からない。

 日清戦争後、康有為が科挙受験生を集めて大集会を開いたと伝えられる松筠庵(しょういんあん)前では、おやじさんたちがトランプに興じていた。市街地にある譚嗣同(たんしどう)の旧居は、街の景観が年々激変する北京で、よくここまで残っていたなというのが正直な印象だった。

 現在の中国では、共産党政権がどう評価するかによって、旧居の価値も変わる。例えば、毛沢東中華人民共和国を建てる前に暮らした陝西省・延安の洞窟式住居は、党・国家の聖地として厳重に守られ、日々、巡礼者のような観光客が列をなす。

 康有為や譚嗣同の旧居が、曲がりなりにも保存されてきたのは、彼らが後の中国革命に連なる改革者として評価されてきたからだろう。プレートの記載によれば、康の旧居が文化財として保護対象となったのは、40年前の1984年だ。中国が改革開放の体制改革を加速させていた時期である。

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 戊戌の政変をめぐっては、中国内外で長い間、半ば「常識」として定着してきたイメージがある。慈禧(西太后)は改革を圧殺した保守派、袁世凱はクーデター計画を直隷総督・栄禄に密告した裏切り者、光緒帝は悲劇のヒーローといったものだ。これは、国外に逃れた康有為、梁啓超らが展開した情報戦の影響が大きいだろう。

 政変直後、梁啓超をかくまった北京の日本公使館が東京に送った情勢分析(『日本外交文書第31巻』参照)の公電が、実に興味深い。上に述べたようなイメージが、この段階で早くも形成されつつあるのだ。

 「(クーデターの)秘密を洩らしたるは袁世凱なるべく……西太后ならびに当時直隷総督たりし栄禄に伝えたるもののごとし……」

 「西太后は……改革派へ打撃を加えんことを決定し……」

 「改革を実行せんと欲するにおいては西太后は実に一大障害たり」

 梁啓超は当事者として、日本公使館でも、日本亡命後も、政変の「内幕」を語りに語っただろう。それが公使館の分析に影響を与えたのではないか。梁は、日本の外相・大隈重信にあてた書簡でも、「満洲大臣の最も奸雄なる者はすなわち栄禄を首とす」として、栄禄らが光緒帝の廃位を企てていたと強調、自分たちのクーデター計画を正当化している。

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 中国近代史に関係する学術、言論、報道の分野に自由な空気が流れ込んでいた時期、梁啓超らが語った政変像は、歴史家たちによってほぼ否定された。『清朝滅亡』でも本線とはせず、日本公使館の電報を含め、取り上げていない素材が多い。

 時代とともに変わるのは、形ある文化財ばかりではない。本来は動かぬはずの歴史そのものも、時々の情勢に応じて書き換えられる。自由が真実を明るみに出すこともあれば、統制が真実を隠すこともある。

 中国はいま、再び個人独裁体制に戻りつつあり、専制君主制からの転換を図った清末史を自由に語ることはできなくなった。「清末史は、政治的に最も敏感な分野になった」とまで言われている。体制改革を唱え、絶対的な権力者・慈禧を倒そうとした康有為らに対する共産党の評価が変わる可能性がある。もしそうなれば、変化に応じて、関連の歴史記述も改変されるだろう。

 今のところはかろうじて残るプレート付きの家々の将来も、政治の状況に左右されるかもしれない。                      (2024年2月1日)

 

 ※康有為旧居などを訪れたのは5年以上前で、現況は確認できていません。

 ※写真は、1枚目が、康有為の旧居。次が、日清戦争後に康が科挙受験者を集めたとされる松筠庵。3枚目は譚嗣同の旧居です。4枚目は康有為の著作『新学偽経考』『孔子改制考』(北京の国家博物館蔵)、5枚目は、梁啓超の政論が一世を風靡した『時務報』(同)です。