覇王ときどき革命

中国・清末民初のお話など

三つの棺

 清末の主役の一人、光緒帝は、北京から南西に百数十キロ離れた河北省保定市にある清西陵に眠っている。

 光緒帝の陵墓・崇陵は、内部まで一般公開されている。石畳の階段を下りると、巨石がアーチ状に組まれた通路から石室にかけた空間の荘厳さに息をのむ。その別名通り、まさに「地下宮殿」だ。

 広い墓室の中央には、照明を浴びて金色に輝く光緒帝の棺があった。湿気がある石壁の表面も光り、月夜の水底を思わせる幻想的な美しさがある。

 光緒帝、慈禧の最期を描いた『清朝滅亡』第七章では、光緒帝の棺が置かれた場面を書いた。場所は、ここではない。紫禁城の乾清宮だ。中に皇帝の遺体はなかった。この出来事は、清末の大きなミステリーとなってきた光緒帝の死の謎を解く重要な手がかりとされている。

 「正大光明」の額が掛かる乾清宮内に、この棺が置かれた光景を想像し、背筋が少し震えた。

     *     *

 「禁煙」などの注意書きがある墓室内で写真撮影は禁止されていないことを確認し、他の参観者も自由に写真を撮っているのを見て、スマホを取り出した。

 金色の棺の正面に置かれた献花台には、花のほか、お札、バナナ、水のペットボトルなど、いろいろな供物があふれんばかりに置かれていた。ひときわ目を引くのが、珍妃とされる肖像(別人説もある)と、光緒帝とされる肖像を並べて合成した写真だった。最初に訪れた時には、「珍妃」の写真だけだったと記憶している。

 光緒帝と珍妃の生と死は、紫禁城内の悲恋の物語として民族の記憶の中にある。二人を寄り添わせてあげたいという思いは、とてもよく分かる。

 しかし――

 光緒帝の棺から右に視線を移すと、そこにはもう一つ、暗い色の大きな棺が置かれている。

 皇后・隆裕のものだ。

 隆裕は、西陵内の別の場所に葬られた珍妃らと違い、皇帝と同じ墓室に眠っている。また、清朝の最終局面で皇太后として重大な決断をした隆裕の名は、永遠に歴史に刻まれ、忘れられることはないだろう。だが、その棺は、どこか孤独に見える。  

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 慈禧(西太后)の陵墓は、河北省唐山市の清東陵にある。棺はやはり地下宮殿に置かれ、透明なケースに覆われていた。

 慈禧は、この棺に三度入った。

 最初は、1908年に死去した後だ。

 次は20年後の1928年、軍隊に盗掘された時である。慈禧の遺体が棺から引きずり出された模様は、『清朝滅亡』で書いた。清代の陵墓の調査、研究に長年携わってきた徐広源氏の『清皇陵地宮親探記』などによると、顔を傷つけられた慈禧の遺体は、床に置かれた棺の蓋の上にうつぶせに置かれたまま、湿って風の通らない墓室内に40日以上も放置されたという。旧皇族が、遺体と棺を女たちに清めさせ、慈禧はようやく棺に戻れた。

 それから半世紀以上がたった1984年1月、慈禧はまたも棺の外に出た。学術調査が入ったのだ。

 ミイラ化した慈禧の身長は153センチだった。ズボンには「寿」、上着には「福」の刺繍があった。満洲族の女は纏足(てんそく)しないため、慈禧の靴下のサイズは19・5センチあった。

 国家文物局の専門家に防腐処理をされ、慈禧は、今度こそ永眠の場になるであろう棺に帰った。

     *     *

 慈禧の墓室を出て、高い楼から陵墓の全体像を見下ろした。地下ばかりでなく、地上の建築もまた宮殿の姿をしていると思った。空の下に広がる広大な東陵、そして西陵は、北京の故宮頤和園以上に、清という帝国の巨大さを実感できる場所だと思う。

                            (2024年2月29日)

 

 ※写真は、1枚目が光緒帝の墓室。左が光緒帝、右が隆裕の棺です。2枚目は、光緒帝の献花台上の供物。3枚目は光緒帝の陵墓の建築外観。4、5枚目が慈禧陵の石碑と棺、最後が慈禧陵楼上からの景観です。

 ※清西陵、東陵の公式ウェブサイトを見る限り、現在も写真撮影禁止の注意はないようです。ただ、以前も記しましたように、中国で写真を撮る場合は、その時々、その場その場でのルールに十分注意されるようお願いします。

 ※乾清宮内部の写真は、昨年12月に投稿した「清朝滅亡」の回で掲載しています。