覇王ときどき革命

中国・清末民初のお話など

『張作霖』のこと

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 北京に来て一年半ほどになる。
 自宅から10分ほど歩いた東便門付近に、1キロ余りにわたって明清時代の城壁が残っている。かつて、この一帯には、分厚い壁を風よけのようにして、庶民の小さな家が密集していた記憶がある。2008年北京五輪を前に再開発され、緑地公園に生まれ変わった。
 その工事が行われていた2002年9月、城壁の南の地面で、長さ3メートルほどの線路の断片が見つかった。
 往時の京奉鉄道--北京と奉天(現遼寧省瀋陽)を結ぶ鉄道--だった。張作霖が行き来した軌道だ。1928年6月3日未明、作霖はここを西から東に通過し、二度と戻ることはなかった。

 最近、白水社から『張作霖 爆殺への軌跡一八七五-一九二八』という本を出した。
 作業を終え、半ば放心状態のまま、張作霖の53年間の人生を振り返ると、改めてため息が出る。
 「はじめに」に、こう書いた。
 「草莽から身を起こした作霖は、桁違いの器量によって、乱世を駆け上がっていく。匪賊を斃し、モンゴル兵と死闘を演じ、常勝を誇る大軍閥と激突した。北上する巨大台風のごとき革命軍にも白旗を掲げることはなかった。満洲を勢力圏とする日本に対しては、その力を利用しながら、傀儡にはならず、最後は日本の軍人に殺された」
 略歴のように列挙したが、どれ一つとっても容易ではない。
 時は清末、舞台は満洲。父は博徒で、三男坊。光緒元年に、たったそれだけの条件を与えられて生を受けた一人の男児が、泣き、笑い、怒りながら、そんな人生を送ったのだ。張作霖自身に、並外れた力と度量があったのは間違いない。何でも呑み込みながら、泥の河のごとき大きな流れを作りだしていく。乏しい歴史知識の中で、似たようなタイプとして思い浮かぶのは、漢祖・劉邦だ。
 加えて、乱世が張作霖を育てた。乱世なくして作霖はなかった。作霖の評伝を描くことはそのまま、清末から中華民国軍閥混戦、そして満州事変へと続く近代中国の激動期を描くことでもあった。情緒的な言い方をすれば、作霖は、時代に愛され、時代に殺された人だったとも思う。
 張作霖の生涯のハイライトは、言うまでもなく、日本の軍人の手による列車爆破で殺害されたことだ。作霖を巡るすべての事象は、クロス鉄橋の一点に集約されていくと言っても過言ではない。『張作霖』のサブタイトル「爆殺への軌跡」は、そんな思いから付けたものだ。
 張作霖爆殺の極めて特異な点は、そこが作霖個人、軍閥の時代の終着点であっただけにとどまらず、日本にとっての地獄への出発点になったということだ。つまり、作霖爆殺という歴史的事件は、「いかに終わったか」と「いかに始まったか」を同時に語っている。
 『張作霖』でどれだけのことを伝えられたか、自分では分からない。ただ、そんなことを書きたかった。

 白水社ウェブサイトに掲載する出典注の膨大な校正をようやく終え、春節旧正月)期間中のよく晴れた日、文化財として保存されている京奉鉄道の線路跡までふらふらと歩いた。
 そこは信号所があった場所で、断面が「I」字型をした鉄のレール二本のうち、片側は枝分かれしている。
 小さな遺構の形状は、そう見ようと思えば、張作霖爆殺が近代日本の分岐点だったと語っているように見えなくもない。
(2017年2月4日)

 ※『張作霖』を執筆中、『覇王と革命』で直隷の要衝、川の名を、「濼州」「濼河」と誤記したことに気づきました。中国簡体字から日本の漢字に直す際に誤りました。「濼」は直隷の川でなく、山東にある川です。読者の方々におわびします。『張作霖』では、「灤州(らんしゅう)」「灤河」に改め、このブログ内の「濼州」も「灤州」に変えました。
 ※三年半も更新していない、この小さなブログを訪れてくださる方が今も絶えません。驚くと同時に、心から感謝しております。国情の関係から、フェイスブックなどのツールは使えず、知らぬ間に失礼をしでかしているかもしれません。ご理解いただければ幸いです。

 ※写真上は、高速鉄道が通る前の張作霖爆殺事件現場です。地元の人たちの生活道路が線路を横切り、三洞橋(クロス鉄橋)をじっくり見ることができました。奥が奉天市街側です。

 ※写真下は、北京に残る京奉線の線路。最近は鉄柵で囲まれています。後ろにある赤屋根の建物は、復元された京奉線信号所。