覇王ときどき革命

中国・清末民初のお話など

珍妃殺害異説

 1900年8月、八カ国連合軍が北京に進撃、慈禧(西太后)、光緒帝らは、紫禁城を脱出し、黄土高原を通って陝西省西安に逃げた。西への逃避行は、光緒帝が愛した珍妃を井戸に投げ込んで殺すという陰惨極まりない事件から始まる。

 『清朝滅亡』では、第五章の最初の節で、珍妃殺害を取り上げた。現場状況を巡る記述は諸説紛々で、本文で取り上げた宦官・崔玉貴の回想以外の説は、版元・白水社のホームページ上の「出典」で簡単に紹介した。ここでは、これら異説について、もう少し詳しく記したい。

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 代表的なものは、慈禧が珍妃に対して、自分も井戸に飛び込むと話したとする説だ。元になったのは、1930年に故宮博物院が発行した『故宮週刊』第30期の珍妃特集で、現場近くの門の外にいたとする宦官・唐冠卿の証言が掲載されているという。

 唐冠卿は、突然、慈禧の大きな声を聞いた。

 「私たち女は井戸に飛び込もう」

 慈禧は、そんな言葉でまず珍妃に井戸に飛び込むよう命じた。しかし、珍妃は応じない。

 崔玉貴も「妃が飛び込んだ後、私も続きます」と言ったが、珍妃は怒り、「お前は来るな」とはねつけた。

 慈禧の命で、珍妃を井戸に投げ込んだのは、やはり崔玉貴である。

 唐冠卿は、珍妃の声がした後に「ポン」という音を聞いた、と話している。 

 投げ込まれる前、珍妃は「李安達(リー・アンダー)、李安達!」と叫んだ、と語った宦官がいる。安達は、宦官に対する尊称で、珍妃が助けを求めたのは、慈禧側近の宦官・李連英だった。

 その李連英が珍妃を殺したという説もあるという。

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 慈禧は最初、珍妃も連れて逃げるつもりだったと語った者もいる。

 慈禧の死後、宮廷で力を持った宦官・小徳張の孫(生殖能力を失った宦官は、養子をとる場合が多い)が書いた『我的(私の)祖父小徳張』などは、以下のような伝聞を伝えている。

 紫禁城脱出を前に、慈禧は珍妃に準備を急がせた。だが、珍妃は言った。

 「私の顔には痘ができており、重い病にかかっております。両脚も力がなく本当に歩けません。どうか、里に逃げさせてください」

 慈禧はそれでも歩けと言った。珍妃はやはり地面にうずくまって歩かない。慈禧は振り返って崔玉貴に珍妃を井戸に落とすよう大声で命じた。

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 他の説と大きく異なっているのは、小徳張が仕えた皇太后・隆裕が、「珍妃は自ら井戸に飛び込んだ」と語ったとされていることだ。

 隆裕は皇后として、珍妃はまず嬪(ひん)として、同時に宮中に入った。身分差ははっきりしている。しかし、光緒帝が寵愛したのは、慈禧が推した二十歳過ぎの血縁ある皇后ではなく、快活に笑う十三歳の少女だった。

 『我所知道的末代皇后隆裕(私が知る最後の皇后隆裕)』によれば、隆裕は、珍妃が自分で飛び込んだとしたうえで、こう言ったという。

 「後に多くの人が、私がよく(珍妃の問題を)密告していたために、老太后(慈禧)は井戸に投げ入れたのだと言いました。でも、これは私に無実の罪を着せるものです」

 珍妃の死が自発的な選択だったかどうかはともかく、隆裕が話したとされる言葉からは、後宮の人間関係、噂話まで鮮やかに浮かび上がってくる。

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 珍妃の遺骸を冷たい井戸の底に残したまま、慈禧は、山中へと逃れていく。

 慈禧がその心の中で、珍妃殺害をどう考えていたかは分からない。宮女や地方官らが残した回想や記録を読む限り、重い罪悪感を引きずっているようには見えない。

 北京を離れて数日後、地方官がゆで卵五個を慈禧に献上した。慈禧はそのうちの三個を食べ、二個を光緒帝に与えたとされる。愛する妃を奪われた皇帝に対する彼女なりの思いやりだったのかもしれない。

                            (2024年2月15日)

 

 ※参考資料:太監談往録、宮女談往録、中国経営報、光緒皇帝的珍妃、慈禧太后、光緒皇帝、囚徒天子・光緒皇帝、我的祖父小徳張、我所知道的末代皇后隆裕、庚子西狩叢談など

 ※写真は、1枚目が北京の故宮博物院に残る珍妃の井戸。2枚目は、清西陵にある瑾妃、珍妃姉妹の陵です。次は、慈禧が紫禁城脱出直前まで滞在していた楽寿堂。4、5枚目は、逃走の途中で慈禧が滞在した家屋とその内部(現河北省・鶏鳴駅城)です。

隣にいる拳民

 1963年に初版が出た名著『義和団研究』の中に、義和団の乱を、簡潔に表現している言葉を見つけた。

 「千古未有的奇変」である。意味は明らかだろう。

 この「奇変」は、『清朝滅亡』の第四章で描いた。神々の降臨によって不死身になったとうそぶく拳民(義和団に加わった者)の群れが、外国人やキリスト教徒らを手当たり次第に虐殺した。慈禧(西太后)は、あろうことか、この集団と手を組んで対外戦争を始め、八カ国連合軍に帝都を踏みにじられた。

 世界を揺るがした乱が、歴史上まれな「奇変」であるのは間違いない。ただ、矛盾するようだが、この「変」は、類似の事件がいつ起きてもおかしくない普遍性を持つような気もしている。

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 1990年代から2010年代にかけて、都合15年以上を北京で過ごした。自分が歴史好きだったためか、雑談相手の中国人から「義和団」という言葉を何度も聞いた。

 1989年の天安門事件を経て、鄧小平が改革開放を再加速させる大号令を発した90年代初めごろ、「義和団」は、「愚かな排外主義者」の比喩表現として使われた。

 ところが、間もなく、共産主義イデオロギーの権威が世界的に失墜、求心力維持を図る中国共産党が「愛国主義」を強く押し出すようになり、風向きが変わった。義和団の乱は、「反帝国主義運動」「愛国運動」などと持ち上げられることが多くなり、公然と嘲笑できるような雰囲気ではなくなった。

 その後、「愛国主義」が価値観における絶対的な地位を占めていく中、中国各地で反日デモが相次いだ。日本大使館に投石し、日系スーパーを破壊する群衆は叫んだ。

 「愛国無罪」と。

 改革開放実現までの苦難を知る知人は、「彼らは義和団だ」と不愉快げに言った。

 インターネットには、排外的な「愛国者」たちの暴力的コメントがあふれかえり、彼らもまた、「現代の義和団」と見なされた。

 だが、共産党の脅威にならない限り、彼らが罰せられることはほとんどなかった。「愛国」の妖怪は今も、次の標的を探しながら徘徊している。

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 義和団の乱は、朝廷の権力闘争と連動していた。光緒帝の早期退位を図る勢力が、義和団を首都に招き入れ、その力によって、皇帝と、皇帝を支える外国勢力を駆逐しようとしたのだ。政治の庇護下にある拳民たちは思うままに人を殺し、街に火を放った。

 政治と群衆が結びついた大事件として、明らかな共通点があるのは、66年後に毛沢東が発動した文化大革命文革)だろう。権力に陰りが見えていた毛は、大衆を激しく扇動し、造反の嵐を起こすことによって、共産党中央で実務を担っていた指導層や、それを支持する者たちを打倒しようとした。

 おびただしい数の人々が「資本主義の道を歩む実権派」などといった、当時にあっては致命的なレッテルを貼られ、群衆から肉体と精神を蹂躙、破壊された。『清朝滅亡』で何度か触れた旗人出身の文豪・老舎も迫害され、北京で入水自殺した。中国は、「10年の内乱」に陥った。文革もまた、「千古未有的奇変」と言えるだろう。

 毛沢東死後、文革は徹底的に否定された。だが、個人独裁が復活した現在、文革期を思い起こさせるような「領袖」賛美や政治スローガンが中国全土に響いている。

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 義和団の乱の際、重臣・栄禄は、暴走した慈禧に従う姿勢を見せながら、裏では戦争の拡大を防ぎ、破滅に瀕した国をかろうじて守った。

 文革でも、同じように、ナンバー2以下が、破局を避けるために陰で奔走していた。

 こうした状況は、多かれ少なかれ、文革後の中国でも続いてきた。今もそうなのかもしれない。

 一つ言えることは、彼らの行為が、一時的かつ限定的な対症療法でしかなく、最高権力者の暴走を封じる根本策ではないということだ。

 大衆の愛国心、排外感情を煽る独裁者が、決定的な判断ミスを犯したとき、「千古未有的奇変」が繰り返されない保証はない。

 『清朝滅亡』の「はじめに」に書いた。

 「清末の動乱の渦は、今も消えていない。再び成長する可能性を秘めながら、静かに回転し続けている」

 これは、中国で長く暮らした一傍観者の実感である。

     *     *

 排外的思考と暴力への衝動は、現代社会でも減じていない。むしろ、SNSを通じて、より剥き出しになって増幅しつつある。その点は、中国に限ったものではなく、日本を含む世界各国も似たようなものだろう。

 拳民は今もいる。隣にいる。自分の中にもいる。

                             (2024年2月8日)

 

 ※写真は、1、2枚目が北京・東交民巷の旧フランス公使館と旧日本公使館です。3枚目は、義和団の乱の翌年に東交民巷に建てられたカトリック教会。4、5枚目は、かつて拳民が集まっていた天津の呂祖堂(現義和団記念館)外観と、その中に展示された義和団の服装。最後は、北京の老舎記念館です。 

プレートがかかる家

 北京にいたころ、時折、古くからの住宅街・胡同(フートン)を回り、住民の許しを得て、家屋の外観や中庭などの写真を撮らせてもらっていた。

 近代史で登場する人々のゆかりの場所だ。「文化財」として大事に扱われているのは少数で、庶民の住宅になっているものが多い。歴史的建築物であることを証明するのは、外壁に取り付けられた簡単なプレートだけである。

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 『清朝滅亡』第三章では、光緒帝が進めた戊戌の変法(体制改革)と、慈禧(西太后)による政変について書いた。

 変法のブレーンとなり、慈禧を倒すクーデターを画策した康有為の旧居は、住人もおらず、屋根瓦に草が生え、廃屋に近い様子だった。清末、時代を動かした多弁な康がそこに滞在していたことなど、「北京市文物保護単位 康有為故居」と書かれたプレートがなければ分からない。

 日清戦争後、康有為が科挙受験生を集めて大集会を開いたと伝えられる松筠庵(しょういんあん)前では、おやじさんたちがトランプに興じていた。市街地にある譚嗣同(たんしどう)の旧居は、街の景観が年々激変する北京で、よくここまで残っていたなというのが正直な印象だった。

 現在の中国では、共産党政権がどう評価するかによって、旧居の価値も変わる。例えば、毛沢東中華人民共和国を建てる前に暮らした陝西省・延安の洞窟式住居は、党・国家の聖地として厳重に守られ、日々、巡礼者のような観光客が列をなす。

 康有為や譚嗣同の旧居が、曲がりなりにも保存されてきたのは、彼らが後の中国革命に連なる改革者として評価されてきたからだろう。プレートの記載によれば、康の旧居が文化財として保護対象となったのは、40年前の1984年だ。中国が改革開放の体制改革を加速させていた時期である。

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 戊戌の政変をめぐっては、中国内外で長い間、半ば「常識」として定着してきたイメージがある。慈禧(西太后)は改革を圧殺した保守派、袁世凱はクーデター計画を直隷総督・栄禄に密告した裏切り者、光緒帝は悲劇のヒーローといったものだ。これは、国外に逃れた康有為、梁啓超らが展開した情報戦の影響が大きいだろう。

 政変直後、梁啓超をかくまった北京の日本公使館が東京に送った情勢分析(『日本外交文書第31巻』参照)の公電が、実に興味深い。上に述べたようなイメージが、この段階で早くも形成されつつあるのだ。

 「(クーデターの)秘密を洩らしたるは袁世凱なるべく……西太后ならびに当時直隷総督たりし栄禄に伝えたるもののごとし……」

 「西太后は……改革派へ打撃を加えんことを決定し……」

 「改革を実行せんと欲するにおいては西太后は実に一大障害たり」

 梁啓超は当事者として、日本公使館でも、日本亡命後も、政変の「内幕」を語りに語っただろう。それが公使館の分析に影響を与えたのではないか。梁は、日本の外相・大隈重信にあてた書簡でも、「満洲大臣の最も奸雄なる者はすなわち栄禄を首とす」として、栄禄らが光緒帝の廃位を企てていたと強調、自分たちのクーデター計画を正当化している。

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 中国近代史に関係する学術、言論、報道の分野に自由な空気が流れ込んでいた時期、梁啓超らが語った政変像は、歴史家たちによってほぼ否定された。『清朝滅亡』でも本線とはせず、日本公使館の電報を含め、取り上げていない素材が多い。

 時代とともに変わるのは、形ある文化財ばかりではない。本来は動かぬはずの歴史そのものも、時々の情勢に応じて書き換えられる。自由が真実を明るみに出すこともあれば、統制が真実を隠すこともある。

 中国はいま、再び個人独裁体制に戻りつつあり、専制君主制からの転換を図った清末史を自由に語ることはできなくなった。「清末史は、政治的に最も敏感な分野になった」とまで言われている。体制改革を唱え、絶対的な権力者・慈禧を倒そうとした康有為らに対する共産党の評価が変わる可能性がある。もしそうなれば、変化に応じて、関連の歴史記述も改変されるだろう。

 今のところはかろうじて残るプレート付きの家々の将来も、政治の状況に左右されるかもしれない。                      (2024年2月1日)

 

 ※康有為旧居などを訪れたのは5年以上前で、現況は確認できていません。

 ※写真は、1枚目が、康有為の旧居。次が、日清戦争後に康が科挙受験者を集めたとされる松筠庵。3枚目は譚嗣同の旧居です。4枚目は康有為の著作『新学偽経考』『孔子改制考』(北京の国家博物館蔵)、5枚目は、梁啓超の政論が一世を風靡した『時務報』(同)です。

急潮に立つ巨人

 平家物語を愛し、幕末小説を読みふけり、清末史にのめりこんだ自分にとって、山口県下関は「聖地」である。

 訪れるたびに、海峡の光景に圧倒される。火の山公園や海峡ゆめタワーからは絶景が見渡せる。海底のトンネルを歩いて対岸の北九州市・門司に渡り、そこから眺める海峡もいい。

 岸辺を歩けば、潮の流れに往時を思い、「壇之浦町」という住所表示に興奮し、目の前を幻燈のように往来している巨大な船舶群に息をのむ。

 司馬遼太郎は『街道をゆく』で、「私は日本の景色のなかで馬関(下関)の急潮をもっとも好む」と書いている。

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 1895年3月、日本との戦いで大敗を喫し続けた清国は、講和交渉の全権代表として、李鴻章を下関に派遣した。『清朝滅亡』では、第二章の最初の節で、この海峡の街での李に焦点を当てた。

 講和交渉は、割烹旅館の春帆楼(しゅんぱんろう)で行われた。日本側の代表は、首相・伊藤博文、外相・陸奥宗光らであった。

 当時の建築は戦災で焼失したというが、春帆楼は今も営業を続け、すぐ脇には、講和交渉の舞台となった大広間を再現した記念館がある。椅子をはじめとする当時の調度品、李の宿所・引接寺(いんじょうじ)を飾ったというシャクヤクの屏風など、展示内容は実に興味深い。

 李鴻章は、領土割譲、賠償金支払いを迫る日本の圧力に抗い、動かぬ北京を動かし、大国の大臣の面子もかなぐり捨てて懇願した。その上、暴漢に撃たれた。身長180センチを超える巨躯を持つ李は、下関で「急潮」になぶられ続けた。

 春帆楼から引接寺に続く道で、地元の方々に、李鴻章狙撃事件の現場について尋ねてみると、皆、「李鴻章道というものがあります」と親切に教えてくださった。ただ、それ以上の詳細は伝わっていないらしい。130年近く前の記憶は消えつつあるのだろう。

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 李鴻章は、下関を去っても執拗に痛めつけられた。

 北京では、朝廷が講和を最終決断したにもかかわらず、条約に署名した李鴻章が白眼視され、王府井(ワンフージン)にある宿所・賢良寺で蟄居同然の暮らしを余儀なくされた。李はその後も、結果的に清国が煮え湯を飲まされたロシアとの密約や、八カ国連合軍に敗れた後の辛丑(しんちゅう)条約(北京議定書)の調印に駆り出され、高原で荷を運ぶヤクのごとく、国家の屈辱を背負わされ続けた。

 義和団の乱の際は、両広(広東・広西)総督として、「滅洋勤王」を求める朝廷の命に逆らい、列強と結ぶ意思を率先して示した。大動乱を北京・直隷周辺に封じ込めておくためには、それしかなかった。

 清末期の李鴻章は、俗な言い方をすれば、明らかに損な役回りを担った。国の存亡がかかる非常時にあって、彼はたとえ「売国奴」と罵られようとも、国を救うために動いた。必要であれば敗戦の道を歩み、抗命さえいとわなかった。最後には、文字通り血へどを吐いて斃れた。

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 李鴻章は、ロシアと密約を交わした時の外遊で、ドイツも回っている。ビスマルクとの会見でわが身の不遇を嘆いた言葉は、ほとんど愚痴である。

 賢良寺では、自虐的に、自らを表具師にたとえてみせた。そのユニークな自評は、清国において彼が果たした役割を極めて的確にとらえている。

 「やれやれ」とこぼしながら、身を刻む歴史の急潮に幾度も入っていった近代史の巨人の姿が目に浮かぶ。

 「国士」というのは、こういう人物のことを言うのかもしれない。

                            (2024年1月25日)

 

 ※写真は、1枚目は北九州・門司側から見た壇ノ浦付近の関門海峡。2枚目が下関・春帆楼脇の日清講和記念館に再現された交渉のテーブルで、右が李鴻章の椅子です。3枚目は、李が宿所とした引接寺。4枚目は、下関の夕景です。最後は、北京の賢良寺跡。現在は学校になっています。

劉公島の敗将

 数年前、中国山東省威海(旧・威海衛)の湾の入り口に浮かぶ劉公島を訪ねた。

 1895年2月、アジア最強の艦隊とも言われた清国の北洋艦隊は、この地で全滅した。『清朝滅亡』では、この歴史的な事実をそのまま第一章のタイトルとした。

 海抜153メートル、小山のような島の頂上からは、北方に青く輝く黄海が見えた。多数の新鋭艦に高練度の水兵が乗り込む日本艦隊は、その広い海に白い航跡の線を描きながら、容赦なく砲弾を浴びせてきた。

 手負いの北洋艦隊は、島陰にへばりつくように、逆光に輝く南側の穏やかな湾内にいた。島を半円状に包み込む陸地は日本陸軍に占領され、そこからも砲弾が飛んでくる。魚雷を抱えて夜の海を走り回る細い影は、日本の水雷艇だ。北洋艦隊にすれば、絶望的な戦いだった。

     *      *

 劉公島はもともと、北洋艦隊が本拠とした海軍基地だった。麓に下りると、艦隊関係の建築が多数残っている。

 特に訪ねたいと思っていた場所があった。

 「北洋艦隊提督書房」である。艦隊提督・丁汝昌(ていじょしょう)が、往時、書斎、休憩室として使っていた部屋だ。石と煉瓦が積まれた外壁の奥に、簡素な木机と文房用具が置かれている。

 丁汝昌は、この部屋で自裁した。

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 日清戦争で、丁汝昌は幾度も敗れた。アジア第一ともうたわれた艦隊を全滅させた責任の相当部分は、立場上、彼が負わなくてはならない。

 だが、丁汝昌の戦いと死は美しかった、と思う。

 彼は、悪鬼のごとく強い日本艦隊を前に、常に先頭に立ち、限界まで戦った。そして艦隊の運命を変えられないと判断した時、彼は、皆への事前の約束通り、敗将として一人で死んだ。それによって、残る者が降伏への扉を開けられるようにし、多くの部下と民の命を救ったのだ。

 戦場の死を美化したくはない。とくに、「愛国心」の宣揚などとは距離を置きたいと思っている。丁汝昌は、そうした騒々しさとは無縁だ。武人が、武人らしく戦い、武人のまま生涯を終えた、日清戦争での丁には、作法通りに引かれた一本の太い線のような潔さがある。

 丁汝昌は、安全な後方にいて部下に死を強要し、民の死を顧みず、敗戦後は自己弁護の舌を忙しく動かす怯懦(きょうだ)な敗将たちの対極にいた。やはり前線にあった日本の連合艦隊司令長官・伊東祐亨は、同じ武人として、棺に入った丁に最高の礼を送った。

 劉公島の戦いは、艦隊全滅という結果ではなく、武人たちの行動によって、歴史に余韻を残すものとなった。

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 丁汝昌は、アヘンを呑んで死んだ。

 実証的な記述を特徴とする史書『晩清(清末)軍事集団』によると、日清戦争後何十年もたってから、劉公島にはアヘン館、遊女館が林立していたとする文章が世に出たが、日本軍が撮影した写真によって、それは荒唐無稽だったことが分かったという。

 麻酔薬ともなるアヘンは、劉公島の病院に大量にあった。また、人々が、身体を傷つけることなく旅立ちたいとの死生観を持っていた当時、アヘンは一般的な自裁手段であった。

 清末は、往々にして、「腐敗の巣窟、アヘンの魔窟」のようなイメージで語られる。劉公島、北洋艦隊もまた、その一つだった。だが、ラリった艦隊が、あの日本艦隊と死闘を繰り広げるなど、自分には想像もできない。

 歴史を書くにあたって、後世の何者かの意図や偏見から生み出された固定観念は、極力排したいと思っている。

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 劉公島から渡し船で威海の港に戻った。そこには、復元された北洋艦隊旗艦・定遠が展示されている。

 丁汝昌が戦った艦橋の位置に立った。艦上から劉公島を眺めた。強風が吹く中、黄地に青龍が舞う清国旗が艦首で翻っていた。

                            (2024年1月17日)

 

 ※写真は、1枚目が、劉公島頂上から見た黄海です。次は、丁汝昌銅像。3枚目は、北洋艦隊提督書房。最後は、威海で復元された定遠です。

 ※『清朝滅亡』は、今月20日に発売されます。多くの方に読んでいただければ、とてもうれしいです。

『清朝滅亡』

 最近、清末史の本を書き終えた。着手してから六年余りかかった。

 タイトルは、『清朝滅亡 戦争・動乱・革命の中国近代史一八九四-一九一二』。近く白水社より刊行される。

 日清戦争から宣統帝溥儀の退位までの激動期を記したもので、中華民国初期の軍閥混戦の時代を描いた拙著『覇王と革命』、『張作霖』の前史となる。王朝の終焉という中国史の大断層をはさんで隣り合う二つの時期は、それぞれが壮大なドラマであると同時に、時空を貫いてつながる一本の巨大な河でもある。二十年近く前、『覇王と革命』に取り組み始めたころから、いずれは清末を書きたいと思っていた。

     *      *

 清末は、震えるほどおもしろい。

 伝統と近代、中華と西洋、満と漢といった潮流がぶつかりあう大きな渦の中で、日清戦争、戊戌政変、義和団の乱辛亥革命など、世界史的な事件が相次いだ。大気に硝煙が満ち、大刀は首をはね続けた。巨艦が、街が、紅蓮の炎に包まれ、皇妃は井戸に投げ込まれた。新旧の思想が火花を散らし、弁髪を切る者と、守る者が戦った。

 この時代を描くにあたって、事実関係は、会話文を含め、細部まで資料に基づき、ありのままの人間の軌跡を、できるだけ客観的に、具体的に描くことを心がけた。それによって、歴史に生命を吹き込もうとしただけではない。「腐った清朝孫文らが革命で倒したが、袁世凱がその成果を横取りした」といったお決まりの革命物語ではほとんど見えなかった王朝崩壊のプロセスを、はっきり浮かび上がらせたいと思った。

 用いた資料の主力となったのは、前二作と同様、二〇世紀末から今世紀初めにかけて中国の学術、言論、報道界を席巻した新しい近代史の成果だ。

 清史稿や清徳宗実録、同時代人の日記、手記、回想録などの史料も活用した。現代中国語で書かれた史書が、自分にとってはターヘル・アナトミアのごとく難解な古文の解釈を可能にしてくれた。

     *      *

 『清朝滅亡』巻末に掲げた「参考・引用文献」を、ぜひご覧いただければと思う。

 中国近代史を研究されている方々には、そこに並ぶ著者名についての説明はいらないだろう。多くは、言論、学問の自由が厳しく制限される中国にあって、新たな近代史の論考を次々に世に問うた、尊敬すべき歴史家たちだ。世界的に知られた方もいる。彼らこそが、『清朝滅亡』を描き出した主役であり、この本の記述は、彼らの記録でもある。

 「参考・引用文献」、そして版元のウエブサイトに掲載される「出典」を記すとき、パソコンのキーをたたく指に、碑文を刻むような感覚があった。

                          (2023年12月14日)

 

 ※写真は、紫禁城(現故宮博物院)の乾清宮内部です。

 

返信転送

月の下、弓を引き、果実を拾う





 中国語を日本語に訳すとき、先人たちの名訳に感嘆することが多い。日本語として美しく、格調が高い。中空に輝く月のようだ。

 例えば、よく知られる孫文の「革命いまだ成らず」(原文:革命尚未成功)や、毛沢東の「銃口から政権は生まれる」(原文:槍桿子里面出政権=槍桿子は銃身、銃、里面は~の中、内部といった意味)は、定訳であると言っていい。

 だが、『覇王と革命』でも、『張作霖』でも、そうした見事な訳は拝借せず、 「革命いまだ成功せず」、「鉄砲から政権は生まれる」と記した。不格好な訳の方が、彼らが生きた時代と、彼ら自身から漂う土臭さに合うと思ったからだ。

 弱い勝負師のごとく、無謀な戦いを仕掛け、負け続けた孫文には、達成したか否かを柔らかく分ける和語よりは、「成功」「失敗」というストレートな漢語の方が似つかわしいように思う。また、革命闘争に走り出した軍閥時代の毛沢東には、含蓄のある「銃口」(原文の「里面」のニュアンスまで感じ取れる!)より、農民たちの肩に食い込む重い鉄砲のイメージの方が近いような気がする。

     *     *

 先日訪れた鎌倉の円覚寺塔頭(たっちゅう)で、よいものを見せていただいた。

 弓の稽古をする男女が、堂内で作法にのっとって弦を引き絞り、俵のような的に向けて矢を放っていた。厳しい寒気の中で、長い静を一瞬の動が切り裂き、再び静寂に戻る。禅に通じるのだろうか。門外漢には分からない。ただ、その光景を美しいと思った。

 中島敦に『名人伝』という短編がある。弓の名人は、最後には、弓という物体すら忘れてしまう。アイロニー的な解釈を抜きにして言えば、名人の境地というものは、そんなものなのかもしれない。その先には、己の存在さえ忘れてしまう宗教的世界が待っているのだろう。

 自分は名人の境地とは無縁だ。幼いころ、父親に「愚図」と叱られていた。そんな人間が、書籍という一本の矢を世に送り出すには、どうがんばっても最低五年ほどはかかる。その間、美とは程遠い稽古の弓を、何千回、何万回と引いている。

 土臭い訳文も、そんなところから生まれている。

     *     *

 「中国近代史で、本になるような題材をよく思いつきますね」

 こう言われることが、ままある。幾多の名人を含む先人たちに書き尽くされたかのように見える分野で、新しい発想をしているように見えるらしい。

 とんでもない。何度も種明かししているように、長く中国にいた自分は、「中国における近年の中国近代史研究」という肥沃な土壌から生まれた成果を大事に使わせていただいているだけのことだ。そこには、自分が本当に知りたかった事象、日本語で読む資料ではほとんど解けなかった疑問に対する解答や見解が、無数の果実のごとく大地に散らばっていた。

 歴史の世界で下手な弓を引き、血眼になって果実を拾う自分は、暗がりを月光で照らしてくれる名人、先人を心から敬愛している。だが、それにとらわれすぎることはない。光の届いていない場所であろうと、何かないかと、這いつくばって手を突っ込んでいる。

     *     *

 三十年以上前、先輩の書家に頼んで、「如月花下」という四文字を書いていただいたことがある。好きな西行の歌からとった。若いころに憧れていたイメージとはまるで違う。だが、月の下で、あくせくと動き続ける凡人の生き方も悪くないと思う。

                           (2023年1月29日)

 

 ※写真は、一番上が、孫文の遺体が一時安置された碧雲寺(北京郊外)にあったパネルから。二枚目は、南京の総統府に展示されていた総理遺嘱のパネル。いずれにも「革命尚未成功」の文字が見えます。三枚目は、鉄砲で政権を奪い取った毛沢東の肖像(北京・天安門)。最後は、鎌倉・円覚寺舎利殿。弓の稽古をしていたのは、別のお堂です。写真撮影は遠慮しました。