覇王ときどき革命

中国・清末民初のお話など

小さなカプセル


 中国共産党の第20回大会が閉幕した。中国における個人専制の復活という世界史的な事件に対する感想とは別に、北京に住む知人たちの顔を思い浮かべた。そして祈った。具体的には書かない。歴史にかかわりのある身として言えば、中国の近現代史は当面、仮死状態になるしかないと思った。

 心に浮かんだままの稚拙な表現である。言論や学問の自由が保障されている日本で、「歴史が仮死状態になる」と言っても、理解されないだろう。

 一党独裁、あるいは個人専制下にあって、歴史は、党や個人の権威、正統性を宣伝し、理論付けするための物語としての役割を担う。党、領袖の「指導」は、東西南北春夏秋冬ばかりか、現在過去未来にまで及ぶ。そこは、何が史実かなどほとんど関係ない世界である。今の中国では、習近平共産党総書記が、歴史について一つの見解を示せば、それが「史実」になり、不可侵の解釈となる。学問的に確かな百の史料を揃えても、習氏の一言の前には沈黙を余儀なくされるのだ。もし事実をもとに異論を唱えればどうなるか。その者は、声を上げた代償としてたちまち政治的な圧力にさらされ、場合によっては職も、家族も失うだろう。

 成虫になったセミたちに、もう一度幼虫に戻って地中に隠れてほしい。自然現象としてはありえない空想的な願いさえ脳裏をよぎる。何が史実かを正確に伝えようとする人々が消えると、歴史は表面的には死んだようになり、領袖にとって耳障りのいい嘘や宣伝ばかりがあふれるだろう。それでもいい。安全地帯にいる自分が、いま、中国の歴史家たちに言いたいのは一つだ。間違っても、勇敢に鳴くな、と。

     *     *

 「中華民族の偉大なる復興」を掲げる習近平氏が思い描く中国近現代史は、帝国主義や日本軍国主義といったおぞましい外敵、腐敗した清朝軍閥政権、国民党などの内なる敵によって絶滅寸前に追い込まれた「中華民族」が、それでも抵抗を続け、やがて共産党、とりわけ毛沢東の指導によって立ち上がったという勧善懲悪の物語である。

 今後、そのラインに沿わない説や論が公表されることはなくなっていくだろう。もちろん、習氏自身が歴史記述の細かいところまで監視しているわけではない。無数の組織が習氏の意向を忖度し、(例えば誰かの告発、密告によって)習氏が問題に気づく前に、リスクの芽を摘み取っていくのだ。近年まで百花繚乱の春を謳歌していた歴史の地は、たちまち砂漠と化すに違いない。

 砂漠化の速度は速い。近現代史の調べもの等で、日ごろから中国のウェブサイトを利用しているが、言論や学問への縛りが比較的緩やかだった1990年代以降の関連記事等がごっそり消されている。膨大な情報が瞬時に消えてしまった跡の電子空間の闇が見える。恐ろしいと思う。

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 何年か前、日本好きの中国の知人たちが、同じようなことを言っていた。

 「京都や奈良を訪れると、懐かしさを感じる」

 王朝交替の際に大規模な破壊と殺戮が繰り返されてきた中国で失われたものが、日本に残っている感覚があるという。大中華の思想からくる傲慢な言葉ではない。そこには、母国の破壊の歴史に対する哀しみ、そして、自分たちがかつて花開かせた文化のエキスを日本人が閉じ込めてくれておいたことへの感嘆の意と、さりげない謝意が込められていたように思う。

 このブログでも先に書いたように、『覇王と革命』、『張作霖』には、現代中国の学術界、出版界に一時期流れた自由な空気が入り込んでいる。いま執筆中の歴史本もそうだ。取るに足らない小さなものであるにせよ、それが、多少なりともカプセルの役割を果たしてくれればと願う。

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 上に、中国の近現代史が仮死状態になると書いた。復活に対する希望と確信があるからこそ、仮死だと思っている。            (2022年10月31日)

 

 ※写真は、京都・竜安寺の石庭です。

人を書く理由~記者が書く歴史2

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 2月末日をもって、37年間勤めてきた新聞社を定年退職し、「記者」の肩書きが外れた。全部丸めて一言で総括すれば、面白い仕事であった。社の内外を問わず、日本人か外国人かを問わず、プライベートか仕事上かを問わず、こんな自分に温かく接して下さったすべての方々に感謝している。これからは、中国近代史を中心に書き続けたいと思っている。
           *     *
 記者だったころ、つまり、つい昨日まで思っていたことがある。
 「歴史のように記事を書きたい」
 「記事のように歴史を書きたい」
 記事と歴史は、あしゅら男爵のように一体化していた。自分らしく生きていくためには、とりあえず両方必要だった。
 これから「記事」を書く機会は激減するだろう。だが、記者として歴史を書く姿勢は変わらない。
           *     *
 「『覇王と革命』も、『張作霖』も、ほとんどが人のエピソードですね」
 そんな感想をいただくことがある。
 どの歴史書にも、筆者の個性が出る。公文書をベースにした本、経済統計などデータ重視の本、政治的主張に沿った事象を詰め込んだ本、社会発展に重きを置く本、文化や軍事など特定テーマから全体像に切り込む本、唯物史観的本、そして人物主体の本などなどだ。そこに優劣などない。資料選択の第一歩から執筆終了までの過程は、受精卵が赤ん坊になって生まれるようなもので、結局は筆者のDNA的個性に支配されている。それだけのことだ。
 このブログでも先に触れたが、自分は、生身の人間の物語を、可能な限り事実に近い形で書きたいと思っている。

       *     *
 実は、人を書く理由がもう一つある。
 北京で15年以上、中国の政治を取材してきた。東京や台湾での取材期間も含めると、もっと長い間、中国政治を見てきた。記者としては二流、三流であったことを認めつつ言えば、中国の政治を動かす根本的要因は、圧倒的に「人」だった。情熱、信念、野望、怨念、怒り、嫉妬、羨望、恐怖、虚栄、献身、恩義、猜疑、保身……人を動かす心理、感情は無数にある。そうした思いに突き動かされる人、あるいは人同士の離合集散が、時に権力闘争を生みだしながら時代を動かしていく。それは必ずしも前進ばかりではない。個人独裁に抵抗する政敵を粛清したり、自由を求める民衆に銃弾を浴びせたりして歴史の歯車を後退させるのも、人の心だ。
 自分は、人間の影が薄い中国政治論にリアリティーを感じにくい(無論、全く違う角度からの素晴らしい論に目を開かされることも多い)。歴史の記述でも同じだ。繰り返すが、これは優劣ではなく、少し分かりやすく言えば好みの問題である。
 「百年前も同じだったのか」という疑問に対する検証は、自分にはできない。だが、二〇〇〇年代以降に世に出てきた数多くの資料では、百年前もやはり、人が歴史を動かしていた。だから、それを書いた。
           *     *
 いま、次の歴史本を書いている。
 そこでもやはり、人々が生き、死んでいく。
 彼らの物語を書いていると、自分の肩書きなど空欄でよいと思う。 

                            (2022年3月1日)

 ※写真は、台北離任直前に訪れた中正紀念堂から見た自由広場です

敗者の歴史

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 『覇王と革命』、『張作霖』を読んでいただいた方から、個性的な文章だと言われた。ネットで「講談調」とのご指摘を見つけた時には、ちょっと笑った。残念ながら、講談は聴いたことがない。
 もっとも、思い当たる節がないでもない。
 学生時代から、『平家物語』を繰り返し読んできた。古語の意味も分からないまま、数年に一度、全巻を一気読みし、その世界の空気に浸る。
 よく知られる冒頭の「祇園精舎」の美文はともかく、全体として見れば、恐ろしく簡潔、的確、写実的な表現で構築されている。何でもないように見える一文が、実に美しいと思う。
 「あさましかりつる年も暮れ、治承も五年になりにけり」
 奈良の大仏殿炎上という未曽有の大事件を、この一文で締める筆には、感嘆するしかない。余計な装飾を取り払った後に、時代を観察する者の呼吸音が聞こえるような気さえする。
 歴史を書きたいと思う自分にとって、平家物語は、どこまで行っても届かない彼岸の世界だ。ただ、一歩でも近づきたいという願望はある。それが、無意識のうちに文章の癖となって現れ出ているのかもしれない。
     *     *
 以前、このブログでも触れたが、平家物語の滅びの美しさは他に類がないと思う。
 特に好きな段の一つに「忠度の都落ち」がある。自作の和歌を人に託し、高らかに口ずさみながら落ちていく武人の心は、何ものかを創り出すことに情熱を傾けたことがある人には理解できるだろう。忠度の歌が、勅撰和歌集にひっそり残ったという結末もいい。その事実を記した筆者の、敗者に対する溢れんばかりの思いも読み取れる。
 平家物語が描いている滅びは、平家一門だけのものではない。平家を滅亡に追いやった義仲、義経も消えていく。鎌倉もまた、風の中にある。
 そのはかなく美しい時代の姿は、後世の者を永遠に揺さぶり続ける。
 平家物語が無常の文学とは思えない。描かれているのは、無常の内に確かに存在する「常」なのではないか。
     *     *
 勝者の物語も嫌いではない。特に、ハリウッド映画のような痛快な大逆転劇は好物だ。
 『ロッキー』には何度も泣かされた。『半沢直樹』にも、きっちりはまった。ちょっと性格は違うが、最近のお気に入りは、ユーチューブの「ストリートピアノ・どっきり」である。誰も傷つけず、不意に繰り出す超絶技によって人を驚かせるのがいい。
     *     *     
 歴史に関して言えば、どんな逆転劇であれ、「勝者の、勝者による、勝者のための物語」には、まったく魅力を感じない。「史実」の捏造、ご都合主義の事実認定、「善悪」の尺度を振り回す恣意的な評価、過剰な美化や中傷がちりばめられたプロパガンダには、嫌悪感さえ抱く。勝者である独裁政権が、特定の史観、史実認定を強制することも珍しくない。
 残念ながら、自分に関わりがある中国近現代史では、そうした勝者の物語が主流である。内戦に勝って政権を奪取し、異論を許さぬ立場から共産党が描く中国近現代史と、敗れ去っていった者、権力に消されてしまった者の目線で書く歴史はまったく異なる。
 中国史にあまりなじみのない方は、香港の現状を考えれば、ある程度、想像がつくかもしれない。
 これから編まれる香港現代史の記述は、視点を中国共産党側に置くか、それとも民主化を求める側に置くかによって、180度変わるに違いない。
 平家物語に惹かれた自分が、歴史の潮流から消え、「絶対悪」「無能」といったレッテルを貼られた者たちの物語を書こうと思ったのは、ある意味で、必然だったと思う。敗者の歴史からしか見えない真実もある。
                           (2021年3月14日)
 
 ※写真は、上が、海外でも持ち歩いている平家物語岩波文庫)。中は、関門海峡の壇ノ浦付近です。近くには、日清戦争下関条約が調印された春帆楼もあります。下は、まだ明るさがあった2年前の香港の街角です。

記者が書く歴史

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 歴史の本を書いてから、こんな声をかけられるようになった。
 「記者の仕事は忙しいでしょうに、よくそんな時間を取れますね」
 そこに興味を持たれる方が、意外に多い。
 ただ、自分には、「記者が忙しい」という前提が、ちょっとあてはまらないように思う。
 暇とは言わない。締め切りに追われてばたばたと動き、大事件が発生すれば、睡眠不足の日々が続く。だが、そんなことは、どんな仕事でも同じだろう。
 実家は小さな雑貨店だった。小学生の頃、同級生に「店はよかねえ。座っちょって金がもうかる」と言われた。彼は、ものの売り買いをする一瞬だけで、店というものを判断していた。無理もない。よその子供には、そこしか見えないのだから。その瞬間に到るまでの恐るべき手間も、不安も、彼は知らない。身体の倍もあるかのような布包みを背負って仕入れから帰ってくる我が母の姿も知らない。
 当時の両親と比べても、今の自分が忙しいなどとはとても言えない。
 「時間を取る」の方は、限られた予算の配分に似ている。幸か不幸か、下戸の自分は、仕事の会食を除いて、飲食に長い時間をかけることはほとんどない。付き合い麻雀もプラモ作りもとっくの昔にやめた。深夜は基本的に歴史の時間になる。通勤や休憩時間も歴史にあてる。休日は歴史漬けだ。歴史に本格的に取り組み始めて約二十年間、このスタイルは基本的に変わらず、今では、仕事と歴史の二正面の切り替えに何の問題もない。
     *     *
 時間といえば、北京で暮らしていた数年前に知り合った若い日本人歴史研究者の方々を思い出す。
 中国史の研究者として、中国に身を置き、中国語の文献にあたり、中国人学者と交流することは、当然なのかもしれない。だが、将来の保証は一切ない中での異国での研究だ。心身の負担は恐るべきものだろう。彼らは、見えない血を流しながら、若い日々の時間を削っているように見えた。無責任な言い方をすれば、それは、まぶしくもあった。
 彼らの時間と、「やりくり」した自分の時間は、同じようで違う。同時に、違うようで同じでもある。
     *     *
 日本では、歴史本を書くのは、学者か小説家がほとんどというイメージがあるかもしれない。自分自身、優れた研究成果を刻む石板のような学術書、豊かな想像力によって過去に新たな命を吹き込む歴史小説のどちらも好きだ。
 海外では、記者が歴史を書いているケースが実に多い。生存者インタビューや政府公開文書などに基づくジャーナリスティックな現代史だけではない。その範囲は、およそ関係者が生存しているとは思えない古代にまで及ぶ。
 なぜなのか、分かる気がする。
 日々起こった事実を記している記者は、時代の記録者という性格を持っている。その眼で過去を俯瞰すると、驚くほど生々しい。必然と偶然が絡まり合いながら、ひとときも休まずに流れる因果の時空間で、未来を知らぬ人々が動いている。
 研究成果といったものを意識することはない。登場人物の名前や性格に頭を悩ますこともない。ただ、そこに見える潮流、時代の物語を、記録するかのごとく書きたいと思う。
 上に「仕事と歴史の二正面」と書いたが、それはあくまでも時間配分のことだ。記者としての目と、自分の書く歴史は、間違いなく不可分の関係にある。
 「記者が書く歴史」について記しているが、それはたまたま、自分が記者であるためだ。実際のところ、誰が書こうが、歴史は面白い。いま仕事で滞在している台湾には、日本の近代史研究で素晴らしい仕事をしておられるビジネスマンがいる。医師や自然科学者らの眼がとらえる歴史も、きっと魅力的だろう。年齢、性別、職業など関係ない。歴史は皆に開かれている。
     *     *
 台湾は、1日、「中華民国110年」の新年を迎えた。1912年の中華民国成立を起点とした暦が、今も普通に使われている。
 清朝末期から中華民国初期について調べ、書いてきた自分にとって、この暦は、歴史と現在が融合している象徴のようにも感じられる。感慨深く、どこか懐かしい響きさえ持っている。                       (2021年1月3日)

 

※写真は、台北の公園に残る日本統治時代の鳥居です。

苦手な暗記

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 もう40年も前のこと、東京の某私大入試で世界史を選択した。
 試験本番、目の前にある問題の冊子を開いた。
 すぐに、「こりゃだめだ」と思った。
 設問の一つはこんな感じだった。
 「aからdは、オスマン・トルコ(オスマン帝国)の歴代皇帝とその政策について記している。誤っているものを一つ選び、記号で記せ」

 聞いたこともない名前がいくつもある。
 オスマン帝国ファンには申し訳ないが、答えは一つしかなかった。
 「知るかよ」だ。
       *     *
 『覇王と革命』について、こんなことを言われ、ちょっとあわてた。
 「よくあれだけ覚えてられますね」
 「いやいやいやいや」と「いや」を四つも重ねて、笑いながら正直に答えた。
 「書いたこと、ほとんど覚えちゃいません」
 実際、受験勉強的知識は、悲しくなるほど定着していない。高校生の時分から今に至るまで、こんな呪文を頭の中で繰り返してきた。
 「調べればすぐ分かるものを覚えてもしょうがないさ」
 負け惜しみである。「ナクヨうぐいす平安京」だの、「イイクニつくろう鎌倉幕府」だのを覚える暗記は、苦痛で仕方がなかった。そんな心構えで、知識が増えるはずがない。今も基本的にそれは変わらない。科挙に落第し続け、頭にきて教科書やノート、出来損ないの課題作品を全部焼き捨てた袁世凱には、結構親近感を持っている。

 そんな自分が、曲がりなりにも歴史を書いているのは、ひとえにパソコンのおかげだ。

 『覇王と革命』でも『張作霖』でも、膨大な資料を何年もかけて読み込む作業が不可欠だった。今手がけている次の歴史本もそうだ。いずれも、自作のメモだけで、A4用紙数千枚になる。容量の小さい頭に定着しなくても、心強い戦友は、誤字も含め、一字一句違えずに正確に覚えてくれている。
       *     *
 念のために言えば、知識量を軽視しているわけではない。
 圧倒的な「知」の背景には、多くの場合、膨大な知識が存在しているように思う。
 また、膨大な知識の背景には、間違いなく、「好き」がある。この純粋で、活動的で、執拗な心の動きは、日本文化を担ってきた匠の心にも通じる。
 より身近なところで言えば、語ることがすぐに尽きる自分は、アニメであれ、野球であれ、天文学であれ、借り物ではない言葉によって一つのことを語り続けられる人を尊敬する。彼らの話は、ほぼ例外なく、知性と愛情、そして、すさまじい量の知識に裏打ちされている。

 心から彼らをうらやましく思う。
       *     *
 ネットでこんな問いかけを見つけて笑ったことがある。
 「北洋の三傑とは誰のこと?」
 ほぼ100%近い人にとって、「知るかよ」に違いない。オスマン帝国の歴代皇帝の事業以上かもしれない。今風に言えば、「不要不急」未満だろうか。
 断言してもいい。
 北洋の三傑を知らずとも、実生活には関係ないと。いや、おそらく、大学入試にさえ関係がない。
 ただ、自分としては、「しかし、その三人が生きた時代は、たまらなく面白い」と付け加えてみたい気持ちもある。               (2020年9月13日)

 

 ※写真は、科挙の時代、俊英が集った北京・国子監の牌坊です。

 ※今月出た月刊中央公論に、李登輝・元台湾総統の追悼文を書かせていただきました。いま、不意に、『銀河英雄伝説』のあの言葉が思い浮かびました。

 「銀河の歴史がまた一ページ……」

書棚の英雄たち

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 『覇王と革命』や『張作霖』の巻末に記した参考文献について、「そこまで書く必要があるの?」と聞かれることがある。
 そうした場合、迷わず「ある」と答えている。
 少なくとも自分にとって、清末から民国初期の軍閥の時代には、疑問の余地のない史実なるものがほとんどない。参考文献なくして自分は一行も書くことはできない。そうである以上、資料名を明示するしかないのだ。
 時に帰国することがあると、狭い自室に釣り合わないほど大きなスライド本棚を埋める資料群を飽かず眺める。空間的な制約から、大量の書籍、資料を何度も処分してきたが、その悲しき選抜を逃れてきたつわものたちだ。
 本の背表紙に、二種類の英雄の名前が見える。
 一つは、袁世凱張作霖ら、歴史上の人物である。
 もう一つは、彼らの人生を調べ上げ、それを記録した歴史家や記者たちの名だ。その中には、個人的に、歴史に対する貴重な見解を授けてくださった方もいる。
 「ここまで書いて大丈夫ですか」
 国家が定めた「定説、史実」とは明らかに異なる記述について、ぶしつけに聞くと、生身の英雄たちは、静かに、優しく笑っていた。
 心情から言っても、彼らの業績である資料名を伏せる選択などありえない。
     *     *
 商売柄、染みついた習慣というものもある。
 自分が長くいる報道の世界では、文章の盗用は、一発レッドカードだ。記述に根拠を持たせることは、ある意味で、日頃の仕事の延長でもある。
 また、新聞社に入って一年目に、こんなことを先輩に言われた。
 「いいか。おまえは何も知らない。知ったかぶりをするな。とことん人に聞け。とことん調べろ」
 怖い先輩だった。だが、とても感謝している。年を重ねて、歴史にまで手を出すようになった今も、彼の言葉は心の中で生きている。
     *     *
 と、偉そうに書いているが、実は、『覇王と革命』で、引用元として入れるかどうか、大いに迷ったものがあった。
 「ウィキペディア」だ。
 文章に携わる者として、この一語を参考文献に記すことがもたらすリスクは分かっている。しかし、最終的に、入れると決めた。
 一か所、ウィキの詳細な記述が大いに参考になった部分があった。様々な資料にあたってみたものの、その範囲で、匹敵するものは見当たらなかった。
 結局、『覇王と革命』には、他の出版物にも記されていた部分のみを書いた。こうした場合、ウィキの名を参考文献に入れなければならないということはないだろう。ただ、どなたかが、自分にとって非常に有用な情報を、ウィキという場を通じて提供してくださったのは事実だ。リスクうんぬんという自己保身的な発想こそがさもしい。そう思い至った時、迷いが消えた。
 誰もが知っているように、ウィキは玉石混交である。うのみにできない情報があふれている一方で、名を名乗らぬ無数の英雄たちが素晴らしい仕事をしているのも確かだ。彼らに敬意を払わない理由はない。
     *     *
 参考文献を細かく記す理由は、もう一つある。
 自分の書いた拙い文章は、逆に、参考資料群、つまり、中国に登場した新しい近代史への扉にもなりうるのではないか、とも思っている。 (2020年6月13日)

 

 ※写真は、自室の書棚です 

 

業行という人

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 大学1年の頃、友人に勧められて『北の海』という青春小説を読んで以来、井上靖の作品に数多く接した。
 今も自分の心の中にひっそりと座っている作中人物が一人いる。
 『天平の甍』に登場する入唐留学僧、業行だ。大唐にある経典を書き写し、そのまま日本に伝えることに執着した人物として描かれている。
 最先端の仏教理論を学んで研究実績をあげるという、留学僧としての使命を棄てた行為は、無私とは少し違う。諦念という表現も外れているような気がする。
 業行の写経には、圧倒的な経典の前にあって、自分という存在など何だとでもいうような、どこかふてぶてしい確信を感じる。暗所にいる彼の意識は、経巻を紐解くたびに現れる三千世界の光に満たされているようにも思う。
     *     *
 『覇王と革命』や『張作霖』を書こうとしていた頃、中国に出現した新しい近代史に、ただただ圧倒されていた。「腐った清朝孫文らの革命によって倒されたが、袁世凱がその果実を横取りし、人民を顧みない軍閥混戦が続いた」というゴムスタンプによって刷り込まれていた歴史観が、心地よく崩壊していった。
 『覇王と革命』のあとがきにも少し記したが、言論や学問の自由がない中国では、多くの歴史家たちが、自分が真実と信じる歴史を、あるいは自分が書きたい歴史を書くために静かな戦いを続けている。少し言論空間が広がると、様々な手段でそれを発表する。
 中国で社会科学関係の書籍に触れ、政治との関係を考えたことがある方ならお分かりかと思う。権威ある重厚な「学術書」、「学術論文」の類いの多くは、共産党がいかに正しいかを証明するためのプロパガンダにすぎない(中国の研究者の名誉のために補足すれば、素晴らしい業績も、もちろん多い)。党にとって都合のいい事実と、党が事実と強弁する「定説」を組み合わせたものだ。
 一方で、歴史家たちは、市場に向けて、軽い読み物本のような体裁の、より自由な書物も含め、新たな民国史を数多く出した。歴史家に推されて再び日の目を見た復刻版も多い。彼らは、玉石混淆の舞台である市場に、自らの歴史観を堂々と世に問える空間を見いだした。新聞や雑誌でも、歴史家たちは大いに語った。
 目の前に現れた未知の歴史を、素人の自分がどうこう言えるはずがない。ましてや、深い造詣と自由な思考を併せ持つ名だたる専門家たちが、書籍の体裁など関係なく記す新鮮なエピソードや諸説について、自分で史実かどうかなどの検証もできない。

 しかし、その驚きを、その面白さを日本に紹介することはできるかもしれないと思った。紹介したいと思った。
 プライベートの時間のほとんどを資料読み込みに費やす日々に入った。『覇王と革命』を世に出すまでに足かけ九年。すべてが無駄なのではないかという不安が押し寄せる中で、時に、座って写経する業行の背中をぼんやりと思い浮かべた。
     *     *
 自由な近代史本や関連報道は、市場で大いに支持され、「民国ブーム」と呼ばれる現象が起こった。
 「本当の民国史は、我々が知っているものとは違うのではないか」
 「民国は、実は今よりはるかに自由で、非常に可能性に富んだ時代だったのではないか」
 これまでの近代史を構成してきた「史実」や「定説」といったうさんくさいものに対する、そうした問いかけも広まっていった。
 実際に何が史実なのかは、例によって分からない。確かなのは、ここ数年、当局は市場の民国史を危険視し、本屋の書棚から、あの一見頼りなげな書籍群が徐々に消えていったことだ。
 中国に現出した新しい近代史のごく一部を、ひたすら乱雑に詰め込んだ『覇王と革命』『張作霖』には、現代中国の学術界、出版界に一時期流れた自由な空気も入り込んでいると思う。
     *     *
 数年前の夏、鹿児島県・薩摩半島の南部に位置する秋目浦を訪ねた。
 透明な海が輝く箱庭のような入り江だ。はるか天平の昔、鑑真和上が想像を絶する苦難の果てに、この浜の土を踏んだ。
 そこには無論、小説の中の「業行」なる人物はいない。ただ、まぶしい光の中で、相変わらず写経に没頭している留学僧の背中を懐かしく思い出した。

                           (2019年10月5日)

 ※写真は、薩摩半島・秋目浦の風景です。