数年前、中国山東省威海(旧・威海衛)の湾の入り口に浮かぶ劉公島を訪ねた。
1895年2月、アジア最強の艦隊とも言われた清国の北洋艦隊は、この地で全滅した。『清朝滅亡』では、この歴史的な事実をそのまま第一章のタイトルとした。
海抜153メートル、小山のような島の頂上からは、北方に青く輝く黄海が見えた。多数の新鋭艦に高練度の水兵が乗り込む日本艦隊は、その広い海に白い航跡の線を描きながら、容赦なく砲弾を浴びせてきた。
手負いの北洋艦隊は、島陰にへばりつくように、逆光に輝く南側の穏やかな湾内にいた。島を半円状に包み込む陸地は日本陸軍に占領され、そこからも砲弾が飛んでくる。魚雷を抱えて夜の海を走り回る細い影は、日本の水雷艇だ。北洋艦隊にすれば、絶望的な戦いだった。
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劉公島はもともと、北洋艦隊が本拠とした海軍基地だった。麓に下りると、艦隊関係の建築が多数残っている。
特に訪ねたいと思っていた場所があった。
「北洋艦隊提督書房」である。艦隊提督・丁汝昌(ていじょしょう)が、往時、書斎、休憩室として使っていた部屋だ。石と煉瓦が積まれた外壁の奥に、簡素な木机と文房用具が置かれている。
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日清戦争で、丁汝昌は幾度も敗れた。アジア第一ともうたわれた艦隊を全滅させた責任の相当部分は、立場上、彼が負わなくてはならない。
だが、丁汝昌の戦いと死は美しかった、と思う。
彼は、悪鬼のごとく強い日本艦隊を前に、常に先頭に立ち、限界まで戦った。そして艦隊の運命を変えられないと判断した時、彼は、皆への事前の約束通り、敗将として一人で死んだ。それによって、残る者が降伏への扉を開けられるようにし、多くの部下と民の命を救ったのだ。
戦場の死を美化したくはない。とくに、「愛国心」の宣揚などとは距離を置きたいと思っている。丁汝昌は、そうした騒々しさとは無縁だ。武人が、武人らしく戦い、武人のまま生涯を終えた、日清戦争での丁には、作法通りに引かれた一本の太い線のような潔さがある。
丁汝昌は、安全な後方にいて部下に死を強要し、民の死を顧みず、敗戦後は自己弁護の舌を忙しく動かす怯懦(きょうだ)な敗将たちの対極にいた。やはり前線にあった日本の連合艦隊司令長官・伊東祐亨は、同じ武人として、棺に入った丁に最高の礼を送った。
劉公島の戦いは、艦隊全滅という結果ではなく、武人たちの行動によって、歴史に余韻を残すものとなった。
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丁汝昌は、アヘンを呑んで死んだ。
実証的な記述を特徴とする史書『晩清(清末)軍事集団』によると、日清戦争後何十年もたってから、劉公島にはアヘン館、遊女館が林立していたとする文章が世に出たが、日本軍が撮影した写真によって、それは荒唐無稽だったことが分かったという。
麻酔薬ともなるアヘンは、劉公島の病院に大量にあった。また、人々が、身体を傷つけることなく旅立ちたいとの死生観を持っていた当時、アヘンは一般的な自裁手段であった。
清末は、往々にして、「腐敗の巣窟、アヘンの魔窟」のようなイメージで語られる。劉公島、北洋艦隊もまた、その一つだった。だが、ラリった艦隊が、あの日本艦隊と死闘を繰り広げるなど、自分には想像もできない。
歴史を書くにあたって、後世の何者かの意図や偏見から生み出された固定観念は、極力排したいと思っている。
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劉公島から渡し船で威海の港に戻った。そこには、復元された北洋艦隊旗艦・定遠が展示されている。
丁汝昌が戦った艦橋の位置に立った。艦上から劉公島を眺めた。強風が吹く中、黄地に青龍が舞う清国旗が艦首で翻っていた。
(2024年1月17日)
※写真は、1枚目が、劉公島頂上から見た黄海です。次は、丁汝昌銅像。3枚目は、北洋艦隊提督書房。最後は、威海で復元された定遠です。
※『清朝滅亡』は、今月20日に発売されます。多くの方に読んでいただければ、とてもうれしいです。