覇王ときどき革命

中国・清末民初のお話など

張作霖の「治家の道」

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 遼寧省瀋陽に残る張作霖・張学良父子の執務楼兼居館・張氏帥府(「覇王と革命」では大帥府と記している)に、「張作霖治家之道」と題するパネルがある。6人の夫人、14人の子女がいた張作霖が定めた夫人のための家訓十条で、非常に興味深い。紹介しよう。
 一、夫人が政治にかかわることを厳禁する。寝物語は聞かない。
 二、夫人が大勢集まって無駄話をするのを厳禁する。面倒を起こさないようにだ。
 三、各房の夫人たちの地位に尊卑はない。みな、夫人と呼び合うように。
 四、夫人は勝手に誕生祝いをしてはならない。
 五、使用人虐待は厳禁する。
 六、厳格な俸給制をとる。各夫人は毎月、決まった時期に受け取る、
 七、食事は、同じものを別々にとる。各夫人と子女は、自分の部屋で食事をとること。
 八、休息時間を厳守する。外出活動は、すべて夜10時を過ぎてはならない。
 九、子女の文化教育を重視し、名師を招いて子女を啓蒙せよ。
 十、子女の婚姻は自由にはさせない。張作霖一人が取り仕切る。
 もちろん、張作霖が愛情を等分に注いでいたわけではない。最愛の夫人もいれば、福女として連れ回す夫人もいた。だが、基本は、平等な地位を与えた上で一人ひとりを厳しい規則で縛る分断統治である。少数派が多数派を支配する国家と同様のスタイルだ。「革命」を許さぬ体制といってもいい。洪憲皇帝・袁世凱が、側室7人を、「妃(ひ)」と「嬪(ひん)」の二ランクに分け、後宮の人間関係がめちゃくちゃになったのとは対照的だ。
 厳しい家法に縛られていたとはいえ、張作霖の妻として生きることができた6人の夫人たちは、総じて幸福だったかもしれない。これに対して娘6人は、「自由な結婚まかりならず」という父親が進める政略結婚で各地に散り、その明暗は大きく分かれた。
 長女は、同郷の腹心・鮑貴卿の息子に嫁いだ。モンゴル王の子の妻となった次女は涙にくれ、父親が爆殺された後に離婚した。三女はかつての東三省総督・趙爾巽の息子に。四女の相手は張勲の子。精神疾患を抱えていた。五女は、総理・靳雲鵬の息子と婚約したものの、爆殺で結婚はとりやめになった。六女は元遼寧省長の孫と結婚している。
 後継者となった少帥・張学良をはじめ、中華人民共和国の海軍少将になり、文化大革命(1966~1976)で迫害死した四男・張学思など、8人の息子たちも、それぞれ波瀾の生涯を送っている。姉妹たちとは趣きが違うが、やはり、多くが父に人生を左右された。
 張学良が語った子供時分の思い出話を紹介しよう。
 「父の最も恐ろしかったところ、それは食事だった。彼はまず、自分が好きなおかずを人に取ってあげるのだ。『蚕のサナギ、食べたか?』 それが彼の一番の好物だった。これはどうしても食べられなかった。だめだった。もう一つ、ご飯を食べる時、こぼしてはいけない。飯粒を卓にこぼしたら、拾って食べなくてはいけない。地面に落としても、拾って食べなくてはならないのだ。これは恐ろしかった」
 厳格な父を前にした幼いプリンスのひきつった顔が見えるようだ。        (2013年1月5日)

 ※参考資料:張氏帥府史料、我所知道的張作霖張作霖全伝、張学良口述歴史、張作霖一代梟雄

 ※写真は、上が冬の大帥府。下はその中の老虎庁。張学良はここで楊宇霆、常蔭槐を射殺します。