覇王ときどき革命

中国・清末民初のお話など

獅子の生命

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 張作霖を父に持つ奉天軍閥の御曹司・張学良は、20世紀初年の1901年に生まれ、21世紀初年の2001年に没した。歴史的意義という点でいえば、その生涯のハイライトは、後に中国大陸を赤く染める共産党を死地から救った1936年12月の西安事件だろう。
 当時、張学良は、陝西省北部の根拠地で抵抗を続ける紅軍(共産党軍)に対する包囲戦の一翼を担っていた。だが、彼にとっての敵は、共産党ではない。己の故地を奪い、そこに「満州国」なる傀儡国家を樹立した日本である。
 共産党とも接触しつつ「一致抗日」を訴える張学良は、「赤匪」掃討を優先する蒋介石に我慢ならず、西安に督戦に来た蒋を監禁、国共協力を迫った。
 後年、張学良は、口述史の名手・唐徳剛に対し、西安事件についてこう語っている。
 「私はかっとすれば、誰だって恐れやしない。かっとすれば、人だって撃つ。私は心から怒っていた。だから西安事件を起こした。なんで怒ったか。私の考えを一言でいえば、こうだ。このおやじ、俺がちょっと懲らしめてやる!」
 軍人としての張学良は、王者の子らしく振る舞う。前線に身を置き、壮烈な戦死を遂げた敵将のために追悼会を開き、籠城戦で死力を尽くした強敵を取り立てる。他方、蒋介石を「懲らしめてやる」といった激しさも、学良の真の姿だった。学良は時に、たてがみを逆立てた獅子のごとき憤怒を見せるのだ。
 一つの例がある。満州に国民政府の旗を掲げて(易幟)から2週間もたたない1929年1月10日、張学良は、奉天大帥府の接客ホール「老虎庁」に、先代以来の重鎮・楊宇霆と常蔭槐を呼び出し、その場で衛兵に射殺させた。
 事後、内乱陰謀、汚職などの容疑を並べてみたものの、結局は、学良本人が後に認めたように、「郭松齢のため」だった。「覇王と革命」で詳述した郭の反乱と敗死については繰り返さない。学良は、兄と慕った郭の仇敵で、しかも、父亡き後、自らをしのぐほどの権勢を誇示する危険な存在になっていた楊に、銃弾を撃ち込んだ。青白く燃えさかる学良の憤怒の炎が見える。
 西安事件の際も、張学良は、たてがみを立てていた。蒋介石は、諫言を受け入れた。蒋の監禁が解かれ、今度は蒋に牙をむいた学良が幽閉された。共産党は息を吹き返し、張作霖が築いた奉天軍以来の張家軍は消滅した。
 蒋介石は、張学良を殺さなかった。しかし、生きることも許さなかった。日中戦争国共内戦、台湾への逃亡という歴史の濁流にもまれながら、学良の軟禁だけは解かず、ゆっくりと時間をかけて凍らせていった。冷たく、残酷な復讐は、実に、学良の晩年まで続く。
 西安事件に関する張学良の述懐には、続きがある。「懲らしめてやる!」の後、学良はこう述べている。
 「私はいま、九十歳になった。私はこんな人間だ。最近、一つ自分で発見したことがある。私というのは、三十六歳までだったんだよ。その後は、ない。ほんとに、三十六歳だ。二十一歳から三十六歳。これが私の生命だった」
 奉天軍の最精鋭部隊を率い、大陸をまたにかけて、呉佩孚軍や北伐軍と切り結んだ軍閥の時代から激しく燃焼し続けた張学良の「生命」は、西安事件後、試験管のようなものに入れられ、暗所に冷温保存された。そこから先も、学良は生きた。自慢の集中砲撃で敵を圧倒することもなければ、激情に駆られて大局を動かすこともなく、人目につかない場所で、100歳まで静かに生きた。
 それゆえに、と言ってもいいだろう。歴史に記憶されている張学良の姿は、若獅子のままだ。ほぼ15年間という「短い生命」はなお、中国現代史の中で光芒を放っている。 (2013年5月26日)

※参考資料:張学良口述歴史、張学良全伝、張学良遺稿、張学良年譜、民国史談、我所知道的張作霖

※写真は、上が、蔣介石の故郷で、張学良が初めて幽閉された地でもある浙江省奉化に立つ学良像。下は、山海関近くの九門口長城から石門寨方向の展望です。第二次直隷奉天戦争の激戦地。郭松齢の戦線離脱という大事件もありました。