覇王ときどき革命

中国・清末民初のお話など

北伐のエース

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 1927年夏、要衝・徐州で蒋介石の北伐軍を撃破した孫伝芳の大軍が南下、8月25日夜、長江を北から南に渡った。目標は、南京。蒋不在の中、孫軍を迎え撃ったのは、広西軍を率いる李宗仁である。
 前日、李宗仁は、軍艦艇に乗って長江を移動中、南京西方で孫伝芳軍の帆船群に襲撃されている。小舟が100隻以上見えた。大軍が集結しているのか。
 南京に戻った李宗仁は命じた。
 「総予備隊の8個連隊を直ちに出動させよ」
 来たるべき敵の上陸に備え、南京にあった予備兵力の各連隊が動き出す。だが、兵の足は、「東」を向いていた。李宗仁が襲われた「西」ではない。
 「間違いなく、あれは擬陣だ。我が主力を上流(西)に引きつけておき、隙を突いて下流(東)で渡河してくる」
 口述の回想録で、李宗仁は自らが襲われた「西」を捨て、「東」を選んだ判断について、あっさり語っている。
 その読み通り、孫伝芳は、6万の大軍を南京の東、竜潭一帯に上陸させた。「西」にいたのは、小さな陽動部隊だったことが確認された。
 李宗仁はなぜ、ためらいなく東に兵を出せたのか。同じ季節に竜潭付近を歩いた時、その根拠が少しだけ見えた気がする。
 そこには葦原があった。近くには、大型船が接岸できる埠頭もあった。なるほど、ここなら、大軍の作戦が可能だろう。歩兵は闇に紛れて小舟で秘かに渡河できる。浸透した歩兵が橋頭堡を築けば、重火器も陸揚げできるはずだ。
 李宗仁は、自らの戦闘の興奮に流されることはなかった。必然性と蓋然性によって導かれる合理的な結論に基づいて即断したのだと思う。
 予備軍が西に向かっていたら、「竜潭の戦い」の様相はまったく違ったものになっただろう。河岸の丘陵地帯の防衛線は破られ、孫伝芳軍は南京に突入し、武漢から南京をにらんでいた国民党左派の唐生智軍と合流していた可能性が強い。何応欽は南京を脱出して、上海方面で蒋介石とともに再起を図っただろう。李宗仁軍は、恐らく生き残れない。中国史パラレルワールドに突入する。
 だが、李宗仁軍は、孫伝芳の乾坤一擲の攻撃にかろうじて耐え、上海から来援した白崇禧軍とともに、孫軍を殲滅する。北軍は長江から遠く駆逐された。
 妙な例えだが、北伐のエースだった李宗仁の戦いには、バレーボールの王者のような迫力、凄みがあるように思う。奇策はない。力と速さと正確な読みで、相対する敵を堂々と撃破していく印象だ。弱い相手には何もさせず、竜巻のように蹂躙してゲームセットである。強敵に出会えば、相手の動きを読んでしぶとく守り、チャンスをつかんで強打を決める。
 竜潭では、敵のスパイクのコースを読み、正しくレシーバーを配した。その前年、湖北・賀勝橋で呉佩孚軍主力を粉砕した時には、突破した敵をかわして、その側面に移動攻撃を加えた。江西の南潯路(なんじんろ)では、鉄道線路沿いに展開した孫伝芳軍主力を、高い打点のクロスのように横からなぎ倒した。
 竜潭の戦いから11年後の1938年。日中戦争で連戦連勝を重ねていた日本軍の2個師団が、徐州に近い山東省南部・台児荘に向かった。だが、そこで予期せぬ強力な抵抗にあい、激戦の末、後退を余儀なくされる。
 日本軍が相対していたのは、李宗仁軍だった。李は、周辺に最精鋭部隊を含む大軍を集中させ、勝利を疑わずにアタックをかけてきた日本軍の眼前に、三枚ブロックのごとき高い壁を築いていたのだ。 (2013年7月21日)

※参考資料:李宗仁回憶録、李宗仁大伝、蒋介石大伝、武夫当国、新華網

※写真は、上が、棲霞山から見た長江。右手が竜潭側です。下が竜潭駅。孫伝芳軍はこの幹線を切断しました。