覇王ときどき革命

中国・清末民初のお話など

覇王の揺りかご

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 成長を競う中国の各地方都市は、巨額のカネが動くプロジェクトをやりたがる。歴史、少数民族、映画、自然など、ご当地の売り物を題材にしたテーマパークは、近年、いたるところにできた。本格派からキテレツランドまで百花繚乱、少々のことでは驚かない。だが、そのテーマパークの名を聞いた時には、さすがに耳を疑い、工事現場を確かめに行った。
 「小站練兵園」(しょうたんれんぺいえん)
 なんじゃそれは、である。
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 1895年、日清戦争で惨敗を喫した清朝は、朝鮮から帰国した袁世凱に、近代軍建設をやらせた。袁は、当時の中国にあっては革命的な最新鋭部隊・新建陸軍を創設、天津南郊の小さな鉄道の街・小站で厳しい練兵を行った。「覇王と革命」でも書いたように、激動の中国近現代史は、ここから始まる。
 覇王たちの多くも、ここから巣立った。軍閥の時代、北京で国家元首と称された人物は、7人いる。大総統となった袁世凱、黎元洪、馮国璋、徐世昌、曹錕、臨時執政の段祺瑞、大元帥・張作霖だ。そのうち黎元洪と張作霖を除く実に5人が小站出身だった。
 総理大臣(代理を含む)は、徐世昌、段祺瑞を含め9人を輩出した。北洋の龍・王士珍、徐樹錚と対立した靳雲鵬ら、ここにもそうそうたる顔が並ぶ。各省軍政長官、師団長などにいたっては、満堂の群星のごとしだ。
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 北京五輪が開かれた2008年、「小站練兵園」はオープンし、しばらくしてから見物に行った。
 広大な敷地を囲む城壁上に高くそびえるのは、講武堂だ。入り口には、袁世凱の手による「講武堂」の額が掛けてある。小さな教室の内部には、木の机が十六並んでいる。ふと見上げると、そこにも額があった。
 「厳加訓練 袁世凱敬録」(厳しく訓練せよ 袁世凱が謹んで書き留める)
 光緒帝が賜った言葉だという。
 袁世凱が小站に降り立った3年後の1898年、光緒帝は変法運動によって西太后に挑戦した。しかし、わずか100日で失敗し、幽閉されてしまう。この時、小站で精鋭軍を養っていた袁は西太后の側に付き、変法派の恨みをかった。それはやがて、袁の失脚、辛亥革命での清朝崩壊へとつながっていく……。
 小さな教室は、歴史の匂いを閉じ込めたオルゴールのように、さまざまな思いを呼び起こさせる。
 史料館の展示も興味深い。小站での訓練状況や部隊編制を記したパネルや写真のほか、野砲、山砲といった当時の新鋭兵器などが展示されている。ミニシアターでは、小站での訓練を紹介する短い映画もみた。
 期待はしないで来たが、いつの間にか、熱心な客になっていた。
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 小站は、「覇王の揺りかご」だった。「革命の果実を盗みとった」などと、唾を吐きかけられるがごとく評価されてきた袁世凱個人の跳躍台でもあった。
 それが、なぜ、こんなテーマパークになったのだろう。
 史料館入り口のパネルが、展示の趣旨を紹介していた。
 「小站練兵は、中国陸軍が近代化に邁進する第一歩であり、列強に侵略、軽蔑されても、力を奮って前進する中華民族の不屈さを、はっきり示している」
 現在の政権が進める愛国主義教育にぴたりと合致する文章だ。政権が大衆を誘導する先にあるものが、「革命賛美」ではなく、「愛国賛歌」になったとき、袁世凱をはじめとする覇王たちを縛り付けていた革命的価値観の鎖がやや緩み、「小站練兵園」は誕生したのだと思う。
 北京の歴史家が、こんなことを話していた。
 「今の政権が熱心に革命教育やるわけがない。彼らは、今の世の中に怒ってる人々が本物の革命を起こしやしないかと怖がってるんだから」
 小站は、清史、軍閥史だけでなく、現代中国の姿もちらりと映し出している。 (2013年5月19日)

※参考資料:小站練兵園展示パネル、北方網、天津網、中華民国歴史上20大派系軍閥袁世凱与近代名流

※写真は、上が小站練兵園の講武堂、下が「厳加訓練」の額