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覇王ときどき革命

中国・軍閥の時代のお話など

最も美しい碑

 北京の繁華街・王府井の北にある小さな胡同(フートン)で、民家の脇に残る石碑を見せてもらった。人の高さほどもある碑面にびっしりと彫られた古い文章は、自分の語学力では、とても読めない。目で漢字を拾って、お目当ての文字を見つけた。
 確かに「法華」とある。清末、ここには、法華寺という寺があった。天津近くの小站(しょうたん)で、新建陸軍の練兵にあたっていた袁世凱が、北京での宿舎にしていた。
 光緒帝の変法維新が風前の灯火となっていた1898年9月18日夜、維新の志士・譚嗣同(たんしどう)はここに袁世凱を訪ね、兵を動かすよう求めた。袁は口を濁し、天津に戻って直隷総督に報告する。間もなく、維新は潰え、帝は西太后によって幽閉された。譚は処刑された。
 「法華」の碑面の上で、木漏れ日が揺れていた。

 『覇王と革命』、『張作霖』の現場取材では、石に刻まれた文字を数多く目にした。
 石の記録は、どこか懐かしい。石という原始的で硬質な物体は、往時の体温といったものまで封じ込める記録性を持っているように感じる。遼寧省瀋陽の旧大帥府に残る張作霖直筆の石額も、訪れるたびに飽かず眺めた。この額については、『張作霖』で書いた。

 これまでで最も心を揺さぶられた石碑は、徐世昌(じょせいしょう)の手になるものだ。
 袁世凱の盟友で、清朝の大官僚だった徐世昌は、中華民国大総統になった。清末、東三省総督として、張作霖の人生にも決定的な影響を与えた。
 1916年、洪憲王朝が潰え、ほどなく失意の中で悶死した袁世凱は、故郷・河南省安陽に造成されていた墓園に葬られた。
 清朝皇帝並みの格式を持つ墓だ。高さ5メートルを超える墓碑に、徐世昌の見事な楷書が残る。
 「大総統袁公世凱之墓」
 「皇帝」という言葉はない。この点は、『覇王と革命』で触れたので、繰り返さない。
 実は、この墓碑には、もう一つ、恐るべき特徴がある。
 裏に回ると、思わず息をのむ。
 袁世凱の生前の記録を刻むための巨大な平面に、碑文が何一つ刻まれていない。中国のネットを検索してみれば、「則天武后以来の無碑文の墓碑」という言葉も見える。
 歴史上まれに見る異様な石碑になった理由を解き明かした文献を読んだことはない。
 以下、想像である。
 袁世凱の生涯を他人が記すのを、徐世昌が許せたとは思えない。ただ、中華民国の正統性から言えば、共和制を壊した袁は罪人に等しかった。徐は、書けなかったのだろう。石に刻まれた文字は永遠に残るのだ。
 無碑文の碑は、愛惜や迷い、自負、後悔といった万感の情が宿る、最も美しい碑なのではないかとも思えてくる。

 譚嗣同が北京の法華寺袁世凱を訪ねた当時、40代前半の徐世昌は、袁とともに、小站で練兵にあたっていた。二人が作り出そうとしていたのは、旧来の清軍とは次元が違う新たな軍隊だ。それは、変法維新という上滑りの改革とは異なる、新しい時代の基礎建設というべきものであった。 (2017年2月19日)

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『張作霖』のこと

 北京に来て一年半ほどになる。
 自宅から10分ほど歩いた東便門付近に、1キロ余りにわたって明清時代の城壁が残っている。かつて、この一帯には、分厚い壁を風よけのようにして、庶民の小さな家が密集していた記憶がある。2008年北京五輪を前に再開発され、緑地公園に生まれ変わった。
 その工事が行われていた2002年9月、城壁の南の地面で、長さ3メートルほどの線路の断片が見つかった。
 往時の京奉鉄道--北京と奉天(現遼寧省瀋陽)を結ぶ鉄道--だった。張作霖が行き来した軌道だ。1928年6月3日未明、作霖はここを西から東に通過し、二度と戻ることはなかった。

 最近、白水社から『張作霖 爆殺への軌跡一八七五-一九二八』という本を出した。
 作業を終え、半ば放心状態のまま、張作霖の53年間の人生を振り返ると、改めてため息が出る。
 「はじめに」に、こう書いた。
 「草莽から身を起こした作霖は、桁違いの器量によって、乱世を駆け上がっていく。匪賊を斃し、モンゴル兵と死闘を演じ、常勝を誇る大軍閥と激突した。北上する巨大台風のごとき革命軍にも白旗を掲げることはなかった。満洲を勢力圏とする日本に対しては、その力を利用しながら、傀儡にはならず、最後は日本の軍人に殺された」
 略歴のように列挙したが、どれ一つとっても容易ではない。
 時は清末、舞台は満洲。父は博徒で、三男坊。光緒元年に、たったそれだけの条件を与えられて生を受けた一人の男児が、泣き、笑い、怒りながら、そんな人生を送ったのだ。張作霖自身に、並外れた力と度量があったのは間違いない。何でも呑み込みながら、泥の河のごとき大きな流れを作りだしていく。乏しい歴史知識の中で、似たようなタイプとして思い浮かぶのは、漢祖・劉邦だ。
 加えて、乱世が張作霖を育てた。乱世なくして作霖はなかった。作霖の評伝を描くことはそのまま、清末から中華民国軍閥混戦、そして満州事変へと続く近代中国の激動期を描くことでもあった。情緒的な言い方をすれば、作霖は、時代に愛され、時代に殺された人だったとも思う。
 張作霖の生涯のハイライトは、言うまでもなく、日本の軍人の手による列車爆破で殺害されたことだ。作霖を巡るすべての事象は、クロス鉄橋の一点に集約されていくと言っても過言ではない。『張作霖』のサブタイトル「爆殺への軌跡」は、そんな思いから付けたものだ。
 張作霖爆殺の極めて特異な点は、そこが作霖個人、軍閥の時代の終着点であっただけにとどまらず、日本にとっての地獄への出発点になったということだ。つまり、作霖爆殺という歴史的事件は、「いかに終わったか」と「いかに始まったか」を同時に語っている。
 『張作霖』でどれだけのことを伝えられたか、自分では分からない。ただ、そんなことを書きたかった。

 白水社ウェブサイトに掲載する出典注の膨大な校正をようやく終え、春節旧正月)期間中のよく晴れた日、文化財として保存されている京奉鉄道の線路跡までふらふらと歩いた。
 そこは信号所があった場所で、断面が「I」字型をした鉄のレール二本のうち、片側は枝分かれしている。
 小さな遺構の形状は、そう見ようと思えば、張作霖爆殺が近代日本の分岐点だったと語っているように見えなくもない。
(2017年2月4日)

 ※『張作霖』を執筆中、『覇王と革命』で直隷の要衝、川の名を、「濼州」「濼河」と誤記したことに気づきました。中国簡体字から日本の漢字に直す際に誤りました。「濼」は直隷の川でなく、山東にある川です。読者の方々におわびします。『張作霖』では、「灤州(らんしゅう)」「灤河」に改め、このブログ内の「濼州」も「灤州」に変えました。
 ※三年半も更新していない、この小さなブログを訪れてくださる方が今も絶えません。驚くと同時に、心から感謝しております。国情の関係から、フェイスブックなどのツールは使えず、知らぬ間に失礼をしでかしているかもしれません。ご理解いただければ幸いです。

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彼らの物語

 「覇王と革命」を読んでいただいた方から、登場人物の性格付けについて聞かれたことがある。
 ちょっと困ってしまった。
 群雄の物語を書いたつもりでいる。しかし、歴史小説を書くかのように、一人ひとりの性格を、こちらで何かの型にはめたことはない。史書や報道、史料に残されている彼らの動き、言葉の軌跡を細かくたどっていっただけのことだ。それでいつの間にか、性格らしきものがにじんできていた。
 以来、同じような質問には、こう答えることにしている。
 「みんな、それぞれ何かを持っていたんだと思います」
 そうなのだ。一人ひとりが、実に豊かな個性と能力を持ち、清末から民国初期の大激動の歴史に躍り出してきた強者なのだ。筆の小細工など必要なかった。
 例えば--
 常人ではありえないような孫文の言動は、一般的な印象など気にせずに記した。「常識人に王朝は倒せない」と書いたのは、革命家への最高の賛辞のつもりだ。
 袁世凱は、中国近代化の父だと思う。しかも、大王朝を静かに倒すという離れ業をやってのけた。その袁が皇帝になろうとし、落ちていく。なんと人間的か。
 「北洋の虎」・段祺瑞の真価はむしろ、失意の時に見えるような気がする。その行動が、哀しく、美しい。腹心・徐樹錚は、鮮烈に生き、死んだ。
 「常勝将軍」と呼ばれた呉佩孚は、最前線で兵とともに炎のごとく戦った。だが、一人の人間としては、孤独だった。
 東北王・張作霖の懐の深さはどうだ。草莽から出て、中華民国の大元帥に至ったその歩みを、印象のままに「堂々たる人生」と書いた。
 手段を選ばず勝つ側に回る馮玉祥には、幼少時代の原体験が投影されているのではないか。彼はまさに「時代の子」であった。
 「南」の雄たちも、すごい。広州を追われた敗者・孫文のもとに駆けつけた蒋介石、「中華合衆国」の夢を抱いた陳炯明、義盗から身を起こして戦乱の世を駆け抜けた陸栄廷、強敵を冷静に倒し続けた李宗仁らが、大きな星座群のごとく、南天に連なっている。
 こうして書いてみると、彼ら、そして彼らが生きた時代のスケールの大きさが改めて分かる。日本を含む世界もまた、ダイナミックに動いていた。
 中国の同じ時代には、もう一つの物語が存在する。というよりも、そちらが完全に主流であり、正史として扱われている。特定の史実と宣伝を織り交ぜ、共産党政権の正統性を描く革命史の物語である。正邪、善悪、敵味方をはっきり分類しており、上述の群雄たちは、孫文ら一部を除いて、邪・悪・敵側の定位置、かび臭い暗所に放り込まれている。
 しかし、現実の彼らは違う。三国志の時代のごとく、沸き立つ大地で、戦った。逃げた。死んだ。個性豊かな勝負師たちは、民、そして中国という国家の命運がかかったルーレット盤を激しく回し続けた。
 回転は果てしなく続くかに見えたが、運命の小さな球は、やがて迷うようにふらつき、1949年、コトリ、と止まった。そこにいたのは、かつて小軍閥のように江西に割拠していた毛沢東だった。歴史は連続している。
 中国では近年、軍閥混戦時代の情報が、どんどん社会に出てくるようになった。その時期、10数年間にわたって北京に滞在できたのは、幸運だったと思っている。初めて知る武人たちの時代は、衝撃的なほど新鮮だった。彼らの姿を小さな物語にするとき、自分で作れるものなど何もなかった。 (2013年7月28日)

※白水社ホームページには、写真も掲載します。


◆読んでくださった皆様へ

 「覇王ときどき革命」は、一身上の都合により、今回で、とりあえず中締めとさせていただきます。突然のことで、まことに申し訳ございません。
 これから、ちょっと深い海に潜ってきます。とはいえ、書き残したことはまだまだ多く、ときどき、獲ってきた貝をそっと置くように、こっそり更新させていただくことがあるかもしれません。
 読んでいただいた方には、心から感謝申し上げます。正直にいえば、「覇王と革命」も、「覇王ときどき革命」も、「ほとんど知られていない人物がぞろぞろ出てくる歴史ものを読んでくれる方が、本当にいるんだろうか」という不安の中で書いていました。
 ネット等で、温かい励ましや、身に余るおほめの言葉をいただきました。「面白い」のツイート一発にどれだけ勇気づけられたことか。厳しいご指摘とあわせ、大きな力をいただきました。ありがとうございました。
 最後に、海の底のヒトデのようなブログに、明るい生息場所を与えてくださった白水社のA氏、K氏に、心からの御礼を申し上げます。  杉山祐之

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北伐のエース

 1927年夏、要衝・徐州で蒋介石の北伐軍を撃破した孫伝芳の大軍が南下、8月25日夜、長江を北から南に渡った。目標は、南京。蒋不在の中、孫軍を迎え撃ったのは、広西軍を率いる李宗仁である。
 前日、李宗仁は、軍艦艇に乗って長江を移動中、南京西方で孫伝芳軍の帆船群に襲撃されている。小舟が100隻以上見えた。大軍が集結しているのか。
 南京に戻った李宗仁は命じた。
 「総予備隊の8個連隊を直ちに出動させよ」
 来たるべき敵の上陸に備え、南京にあった予備兵力の各連隊が動き出す。だが、兵の足は、「東」を向いていた。李宗仁が襲われた「西」ではない。
 「間違いなく、あれは擬陣だ。我が主力を上流(西)に引きつけておき、隙を突いて下流(東)で渡河してくる」
 口述の回想録で、李宗仁は自らが襲われた「西」を捨て、「東」を選んだ判断について、あっさり語っている。
 その読み通り、孫伝芳は、6万の大軍を南京の東、竜潭一帯に上陸させた。「西」にいたのは、小さな陽動部隊だったことが確認された。
 李宗仁はなぜ、ためらいなく東に兵を出せたのか。同じ季節に竜潭付近を歩いた時、その根拠が少しだけ見えた気がする。
 そこには葦原があった。近くには、大型船が接岸できる埠頭もあった。なるほど、ここなら、大軍の作戦が可能だろう。歩兵は闇に紛れて小舟で秘かに渡河できる。浸透した歩兵が橋頭堡を築けば、重火器も陸揚げできるはずだ。
 李宗仁は、自らの戦闘の興奮に流されることはなかった。必然性と蓋然性によって導かれる合理的な結論に基づいて即断したのだと思う。
 予備軍が西に向かっていたら、「竜潭の戦い」の様相はまったく違ったものになっただろう。河岸の丘陵地帯の防衛線は破られ、孫伝芳軍は南京に突入し、武漢から南京をにらんでいた国民党左派の唐生智軍と合流していた可能性が強い。何応欽は南京を脱出して、上海方面で蒋介石とともに再起を図っただろう。李宗仁軍は、恐らく生き残れない。中国史はパラレルワールドに突入する。
 だが、李宗仁軍は、孫伝芳の乾坤一擲の攻撃にかろうじて耐え、上海から来援した白崇禧軍とともに、孫軍を殲滅する。北軍は長江から遠く駆逐された。
 妙な例えだが、北伐のエースだった李宗仁の戦いには、バレーボールの王者のような迫力、凄みがあるように思う。奇策はない。力と速さと正確な読みで、相対する敵を堂々と撃破していく印象だ。弱い相手には何もさせず、竜巻のように蹂躙してゲームセットである。強敵に出会えば、相手の動きを読んでしぶとく守り、チャンスをつかんで強打を決める。
 竜潭では、敵のスパイクのコースを読み、正しくレシーバーを配した。その前年、湖北・賀勝橋で呉佩孚軍主力を粉砕した時には、突破した敵をかわして、その側面に移動攻撃を加えた。江西の南潯路(なんじんろ)では、鉄道線路沿いに展開した孫伝芳軍主力を、高い打点のクロスのように横からなぎ倒した。
 竜潭の戦いから11年後の1938年。日中戦争で連戦連勝を重ねていた日本軍の2個師団が、徐州に近い山東省南部・台児荘に向かった。だが、そこで予期せぬ強力な抵抗にあい、激戦の末、後退を余儀なくされる。
 日本軍が相対していたのは、李宗仁軍だった。李は、周辺に最精鋭部隊を含む大軍を集中させ、勝利を疑わずにアタックをかけてきた日本軍の眼前に、三枚ブロックのごとき高い壁を築いていたのだ。 (2013年7月21日)

※参考資料:李宗仁回憶録、李宗仁大伝、蒋介石大伝、武夫当国、新華網

※白水社ホームページには、写真も掲載します。

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宋教仁暗殺

 1913年の3月20日夜、国民党の指導者・宋教仁は、見送りの黄興、廖仲愷らとともに、上海駅にいた。宋は、強力な政敵になるであろう臨時大総統・袁世凱が待つ北京に向かおうとしている。
 「孫文、黄興など、気にするまでもない。遁初(宋教仁の字)の小僧だけがちょっと面倒だ」
 袁世凱は、周囲にそう語っていた。最強の北洋軍を握る大総統にまで不安を抱かせる男、それが宋教仁だった。
 宋教仁はこの時、三十一歳。革命期の寵児たちは、まばゆいほどに若い。
          *     *
 前の年、つまり中華民国元年の12月から年初にかけて、初の国会議員選挙が行われた。王朝を捨てた中国が「民国」たることを証明する選挙であり、年齢、税金納入額、学歴などで一定基準を満たした男性が歴史的な票を投じた。
 結果は、国民党の圧勝だった。衆議院定数596のうち269議席、参議院274のうち123議席を獲得したのである。
 選挙を指揮したのは、党の実務を担当していた筆頭理事の宋教仁だった。理事長の孫文は、象徴的な存在にすぎない。
 両院で第一党を得た宋教仁は、過渡期の憲法にあたる臨時約法とそれを支える国会によって、袁世凱に挑もうとしていた。
          *     *
 北京行き列車の発車時刻まで5分になった22時40分、改札に入ろうとした宋教仁の背後に一人の男が躍り出た。
 パン、と銃声が響いた。続いてまた二つの銃声。
 宋教仁が倒れこんだ。
 近くの鉄道病院で緊急手術が始まった。一発の弾が、右側の腰から体内に斜めに入って腎臓をかすめ、大腸に二つの穴を開けていた。弾は摘出したが、出血が止まらない。弾には毒が塗られていたという。
 宋教仁は、黄興に託して、袁世凱に電報を送った。
 「大総統が真心を開き、正しい道理を広め、民権の保障に力を尽くされんことを伏してこいねがいます」
 22日午前4時47分、宋教仁死亡。
 袁世凱は「こんなことがあろうか」とうめいた。
 実行犯は、武士英という元軍人だった。逮捕後、獄中で死亡した武は、末端の鉄砲玉に過ぎない。
          *     *
 事件の背後にいたのは誰か。
 中国でこれまで、「史実」とされてきたのは、「袁世凱」である。しかし、近年、民国史の記述が自由になるにつれ、長い間封印されてきた異論が続出している。最も多いのは、孫文と関係が深い革命派の大物・陳其美を主犯と見なす説だろう。そうなると、事件は国民党内部の暗争ということになる。
 真相は分からない。確かなことは、約法と国会という制御装置を砕かれた幼い民国は、ここから暴走し始めた、ということだ。
 宋教仁を失った国民党は、たちまち「第二革命」の旗を立てて武装蜂起し、北洋軍にたたきのめされた。
 ちょうど百年前の出来事である。 (2013年7月14日)

※参考資料:北洋政府簡史、洪憲帝制、北京民国政府的議会政治、袁世凱評伝、人民網、新華網、鳳凰網(三聯生活週刊より)

※白水社ホームページには、写真も掲載します。

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高原の鷲

 華北平原の西端から、大陸は突如天に向かって隆起を始め、巨大な台地群が波のようにうねりながら沙漠へとつながる。地表はパウダーのような黄土に覆われ、その底には石炭層が黒々と広がっている。山西は、そんな黄土高原に位置している。
 1924年秋、山西王・閻錫山(えんしゃくざん)は、省都・太原から、遠く渤海の戦況をにらんでいた。呉佩孚と張作霖という2頭の巨獣が、山海関で覇権をかけて激突していたのだ。第二次直隷・奉天戦争である。
 勝つ方につく、と決めている閻錫山は、単純明快な勝敗判定基準を部下に告げた。
 「敵の背後に回った方が、勝つ」
 呉佩孚側で馮玉祥が寝返り、勝敗の天秤は一気に傾いた。だが、閻錫山は動じない。将領たちに定例会議で告げた。
 「山西は一貫して『保境安民』を守ってきた。勝敗がどうであれ、敗兵の騒ぎを防ぐため、兵を出して(直隷との境)娘子関の防衛を強化する」
 境界を固く守り、内部の安定・充実を優先する「保境安民」は、辛亥革命(1911年)以来、この地を治める閻錫山の基本路線だった。
          *     *
 「これじゃあ、閻錫山のレールとおんなじだ」
 はるか後年、改革・開放の時代になって、中国の知人から、こんな表現を何度か聞いた。閻が山西に敷いた鉄道レールの幅は狭く、他地域との相互乗り入れができなかった。「閻のレール」は、地方保護主義や閉鎖性の代名詞となっているのだ。
 だが、現実の閻錫山は、一人、天空の地に「模範省」を造りあげていた。
 水利事業、植樹、養蚕で、乾いた高原での産業振興基盤を作り、棉花、造林、牧畜も大いに奨励した。鉱業、鉄鋼業、軍需産業にも力を注いだ。辮髪を切らせ、アヘン、纏足を厳禁した。村を核とした地方自治、学校教育の普及に努め、小学校で学ぶ児童の割合は全国最高レベルだった。孤児院も運営した。
 古い、分かりやすい言葉でいえば、閻錫山は、「名君」だった。兵の増強だけに熱中した凡百の軍閥とは次元が違う。
          *     *
 閻錫山は、軍閥混戦の世から目をそらしていたわけではない。黄土高原の巣で、羽毛が生えそろうのをひたすら待っていたのだ。その羽の充実を感じた時に勃発したのが、第二次直隷・奉天戦争だった。
 奉天軍が万里の長城を越え、ついに呉佩孚軍の背後に回り込んだ。勝敗は決した。
 閻錫山は、将領たちに向かって、翼を広げるごとく宣言した。
 「兵を出す時が来た」
 「保境安民」を捨てた鷲が、高原から舞い上がった。
 華北平原に出現した山西軍は、直隷・石家荘に進出し、北京と武漢を結ぶ京漢鉄道を切断、長江流域にあった呉佩孚麾下の部隊の北上を阻止した。ほとんど戦わずして勝利に大きく貢献した閻錫山は、勝者の列に連なった。
          *     *
 閻錫山は、飛ぶたびに強くなった。
 「覇王と革命」で触れたように、一瞬の隙を見て、張作霖から蒋介石へと飛び移る見事な外交手腕も見せた。
 第二次直隷・奉天戦争からわずか4年後の1928年、閻錫山は「国民革命軍第三集団軍総司令」という大きな存在となり、蒋介石、馮玉祥、李宗仁という大軍人たちと肩を並べて北京に軍を進めている。 (2013年7月7日)

※参考資料:我所知道的閻錫山、閻錫山伝、山西王閻錫山、中華網、東方網、人民網

※白水社ホームページでは、写真も掲載します。

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白い戦場

 泥の濁りがまじった雪原の道路わきから、同じように薄汚れた白い子犬が、じっとこちらを見ていた。二つの目は、黒真珠のごとく濡れて動かない。
 厳寒の季節、遼寧省新民市の郊外、巨流河という村を訪れた。付近を流れる遼河は、かつて、村と同じ雄大な名前で呼ばれていた。
 1925年のクリスマス前、この一帯の雪原で、奉天の最精鋭部隊を率いて張作霖に反旗を翻した郭松齢の軍と、張がかき集めた奉天本軍の計十万以上が凍った大河をはさんで激突した。
 「覇王と革命」では、軍閥混戦期の幾多の戦いを書いた。その中で、郭松齢の乱ほど、滅びゆく者の運命を正確に指し示しているものはない、と思う。
 なにしろ、そこに勝者がいない。
 戦闘自体は、張作霖軍が郭松齢軍を圧倒し、郭は妻とともに銃殺された。だが、中国最強だった奉天軍閥は、この骨肉の争いによって、一夜で白髪に変わった闘士のごとく衰えた。北方の覇王の時代も、大きく傾いた。
          *     *
 寒さで顔がこわばる。ダウンコートの襟をぴっちり絞め、フードを頭からすっぽりかぶった。「巨流河の決戦」は、この寒さの中で進行した。
 「後方」を持たない孤独な大軍は、連戦連勝で奉天に一歩一歩迫っていた。だが、日一日と兵士たちは飢え、その手足は凍傷で黒く変色しつつある。
 中国新聞網が掲載した「時代商報」の記事は、当時の民の怨嗟の声を紹介している。
 「郭鬼子(グイズ)は餓鬼の群れを引き連れ、私たちの一年分の食糧と柴を食い尽くし、燃やし尽くしてしまいました」
 同じ記事には、こんな記述もある。
 「十二月二日から三日にかけて大雪が降り、気温は零下二十度まで下がった。郭軍の兵士はまだ、夏物の服を着ており、多くが凍傷にやられた」
 「戦後の統計では、(郭軍の)凍傷患者は7000人以上に達していた」
 酷寒によろめく軍を率いる郭松齢は、参謀・鄒作華(すうさくか)の進言をいれ、決戦前に三日間、兵を休ませた。
 奉天防衛線構築を急ぐ張作霖は、何より貴重な時間を手に入れた。
 鄒作華は、張作霖に内通していた。だが、それは裏切りなのか。本来の主君に対する忠誠ではないのか。鄒作華によって助かった命はどれだけあるか。
 白い戦場では、無数の裏切りと忠誠、そして生命が、吹雪のように飛び交い、交差していた。
          *     *
 決戦の結末は、あっけなかった。
 張作霖の騎兵師団が、白旗堡という京奉鉄道沿いの鎮(町)にあった郭松齢軍の貨車、物資集積場を襲撃し、郭軍の生命線である食糧弾薬を焼いた。その黒煙の中で、大軍の心臓は停止した。
 白旗堡という鎮は、今はない。中国を飢餓地獄に突き落とした毛沢東の極左運動「大躍進」が始まった1958年、「紅旗公社」という名の人民公社になった。その後、「大紅旗公社」、「大紅旗鎮」と改められ、今に至る。
 「白旗」が「紅旗」に変わっても、雪は降る。通りから少し歩くと、また雪原に出た。
 雪はすべてを隠し、雪原はすべての音を吸い込む。貨物列車が通過すると、少しの間だけ、雪原はにぎわう。
 十万の兵士たちの吶喊も、銃砲声も、命も、すべて1925年暮れの雪に吸収されたまま、どこかに消えた。寒さだけが、昔と変わらない。 (2013年6月30日)

※参考資料:中国新聞網(時代商報より)、武夫当国、北洋政府簡史、東北王張作霖画伝、新民市大紅旗鎮人民政府網

※白水社のホームページには、写真も掲載します。

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