覇王ときどき革命

中国・軍閥の時代のお話など

『覇王と革命』と『張作霖』、電子版になりました

 もともと、紙の本が好きだ。視覚も、匂いも、手触りも。厚みによって読んだ量と未読の分を確認する楽しみもある。これは、終生変わらないだろう。
 しかし、北京に暮らしているいま、電子書籍がない生活も考えられない。新書ほどの大きさのリーダーには、全四巻、上中下といった読み物が詰まっているが、まったく重くないし、かさばりもしない。「本」とセットになっていた持ち運び、収納という難題から解放された。
 『覇王と革命』について、「中学生のドカベン」と評した知人がいる。出典注をウェブサイトで公開して軽量化を図った『張作霖』も、それに近い。「通勤電車で読みにくい」と言われたこともある。内容以前の物理的問題に対する厳しい指摘には、うなずくしかなかった。
 軍閥の時代は、中国近現代史日中関係史において決定的に重要な時期だと思う。しかし、実際には、歴史の空白地帯となってきた。
 『覇王と革命』『張作霖』の電子化を機に、一人でも多くの方が、この時代の驚くべき中国をのぞいてくださることを願っている。決して重くはないので。(2017年11月10日)
                         ◇
 出版から五年近くたった『覇王と革命』では、電子化を機に内容を見直した部分が多い。中には、「濼州」の誤字をはじめ、明らかな間違いもある。改めておわびしたい。資料を精査し、張作霖の若年時の「匪賊」に関する描写や、蔣介石の学歴など一部事実関係も修正した。誇大描写の可能性がある資料の記述を削除したり、必要な記述を追加したりした。歴史評価に関する表現を変えたところもある。
 「紙の本」を読んでくださった方、これから読んでくださる方にも、この場で修正内容をお知らせしておきたい(句読点の追加や、読みやすくするための表現の細かな修正等については除く)。
 以下、『覇王と革命』電子版に追加した「あとがき」と、主な修正部分を記す。
 出版間もない『張作霖』の方は、基本的に若干の修正にとどまっている。それも末尾に追加しておく。ここにある修正部分、ページ数などは、第二刷をもとにしている。

◆『覇王と革命』~あとがき追加分
 (電子書籍化に際して)
 『覇王と革命』の出版から、ほぼ五年が過ぎた。この間も、軍閥の時代に関する資料は、数多く世に出てきた。電子書籍化に際して、誤字脱字を直し、読みづらい部分の表現を若干修正したほか、事実関係、歴史評価に関する記述も一部変更した。資料を改めて吟味し、削除した部分もあれば、加筆した部分もある。
 読んでくださった方々から温かいご指摘をいただき、直したところも多い。心より感謝したい。残念ながら、軍閥史を構成する無数の事象について、何が史実なのかを判定する力は、相変わらず、自分にはない。多くの力を借りることが、軍閥史の実相に近づく道だと思っている。

【全体に関係する修正】
 ▽「安徽系」「直隷系」などの軍閥表記は、「安徽派」「直隷派」と改めた。
 ▽「帝制」は、一般的な皇帝政治を示す場合は「帝政」、共和制などとの制度的対比を示す場合には「君主制」「立憲君主制」などとした。
 ▽濼州、濼河は灤州、灤河に

【個別修正】
 p2上:緑林(匪賊などの武装集団)から→満洲の草莽から身を起こし、▽日本に爆殺された→日本人に爆殺された
 p12上:この大英帝国公使が→中国の史書によると、この大英帝国公使が
 p13下:「侵略者」日本への反感を土台にした中国民衆の愛国ナショナリズムはここに覚醒した。→日清戦争の敗北で覚醒した民衆のナショナリズムは、ここから、「侵略者」日本への反感を土台にして燃え上がっていく。
 p17下:西太后の思考に「軍建設」というものが入り、→西太后は、強力な近代軍の必要性を認識し、
 p18上:この一歩から現代中国の激動が始まる→激動の現代中国の行方を左右する一歩であった
 p18下:山東に赴き、外国軍→山東に赴き、義和団を弾圧して外国軍
 p21下:同盟会が中心→同盟会などが中心
 p23下:政治維新運動→政治改革運動▽……踏み出していた。しかし、西太后→踏み出していた。光緒帝は百日あまりで二百八十六の詔書を出し、一気に維新を進めようとした。しかし、自らの身の危険をかぎとった西太后
 p24上:科挙制度を廃止して→科挙制度を朝廷に迫って廃止させ▽維新派は「改革派」の袁を取り込もうとしていた。戊戌の年……維新派は、上京していた袁世凱に対し→戊戌の年、西太后の圧力を感じた維新派は「改革派」の袁世凱を取り込もうとし、上京した袁に
 p25下:今は広大なトウモロコシ畑→この一帯は今、広大な水田とトウモロコシ畑▽遊び仲間……食らわせていた→削除▽春から初夏にかけて→初夏
 p26上:満洲の春は遅く、短い。零下二十度以下になる冬から、三十度を超える夏までをつなぐ春は、駆け足で過ぎ去る。凍りついていた張有財の死体は陽気の中で溶け出し、→満洲の冬の気温は零下二十度以下になるが、短い春が過ぎれば、三十度を超える暑さがやってくる。張有財の死体は腐乱し、
 p26下:近くの鎮安県(現黒山県)→親類を頼って近くの県
 p27上:小さな匪賊団の頭だった→一時匪賊に加わっていた▽保安隊→保険隊▽(匪賊)→(匪賊などの非合法集団)▽逃げる途中で→逃亡した先で
 p27下:張作霖に報告した。奉天西部にいる張の→奉天北西部でモンゴル人の蜂起軍と戦っていた張作霖に報告した。張の
 p28上:撲殺された→殺された(2か所)
 p29下:それまで、密談→それまで、社会にあっては、密談
 p35下:重鎮→重要人物
 p43下:李烈鈞(ルビりれつぎん)→李烈鈞(ルビりれつきん)
 p45下:侵入→進攻
 p55下:馮が悪役を演じて段を追い詰め、善玉を演じる張が段を無抵抗にして、すべてを吐き出させるのである。帝政推進の旗を振った段芝貴……→馮が帝政推進の旗を振った段を追い詰め、張が段をかばって無抵抗にし、すべてを吐き出させるのである。段芝貴は……
 p56上:贈り物をした。→贈り物をした。腹心の孫烈臣を護衛として段に同行させた。
 p56下:突然、駅舎内の人の動きが慌ただしくなり、連隊長が立ち去った→連隊長が立ち去り、孫烈臣も下車した
 p57上:「悪役」の→削除
 p61上:近代化を一手に担い→近代化を担い
 p68上:山東に入った→山東に駐留していた
 p72上:清代の北洋大臣以来、直隷→北京周辺で大軍を持つ直隷
 p73上:中国政府との間に→中国政府に対し、
 p84上:農民服の老人→農民姿の男
 p92上:報告には、「十二歳……→報告には、溥儀について、「十二歳……
 p96上:任命した→した
 p99上:国民党・→国民党系・
 p99下:国民党の重鎮→孫とともに活動してきた革命派の主要人物
 p100上:国民党→国民党系勢力
 p102下:国民党派→革命派
 p103上:国民党代表→国民党系の代表
 p105上:護法軍政府、国民党軍との→護法軍政府との▽国民党軍は→国民党系の軍は
 p106下:現地軍では最強の→削除▽北洋軍は潰走→直隷派の北洋軍は潰走
 p107下:王汝賢、範国璋が長沙から追い落とされた十八日→湖南の混乱が続く十一月十八日
 p109上:安徽系主戦派の声を→主戦論を▽湖北の旧国民党系→湖北の国民党系
 p109下:馮国璋への直接→主戦派が馮国璋への直接
 p112下:岳州への進攻→岳州への南軍進攻
 p114上:一個旅団もの精鋭兵士→精鋭旅団の兵士
 p115上:二十四日夜のことだった。同日夜十一時十五分、楊宇霆の指示によって、機関車が……出発した。「東に向かっているぞ!」驚いたのは北京から来た役人たちである。北京方向は……闇の中でいつの間にか機関車が→二十四日のことだった。そのとき、奉天軍が駅を制圧した。同日夜十一時十五分、機関車が……東に向けて出発した。北京方向は……闇の中で機関車は
 p115下:これまでも湖南などに計六個旅団が入っていたが、→削除
 p116上:さらに六個旅団→六個旅団▽張作霖奉天系→張作霖
 p116下:張作霖を味方につけた→張作霖の軍を手にした
 p118下:跳躍し→跳躍する身体能力
 p121上:南の統一→南の結束▽国民党軍→国民党系軍
 p126下:行うと約束→行うと告げ
 p127下:段祺瑞の思惑→段祺瑞、徐樹錚の思惑
 p128上:完全日本式→日本式
 p134下:そのまま通り過ぎた→通り過ぎた
 p135上:このときの張作霖の→史書が伝えるこのときの張作霖
 p140上:保安隊→保険隊
 p143上:二十二歳で→その伝記によれば、二十二歳で
 p144下:非難する時代→非難するまで
 p152下:口出しするな」 張作霖は……→口出しするな」 この夜、徐樹錚が張作霖を暗殺しようとしたが、未遂に終わった。張作霖は……▽ひっそりと→削除
 p163下:装甲車を前面に置く→装甲車を使った用兵
 p165上:この時代→この時期▽柳行李→行李(二か所)
 p165下:分割の調整→分割
 p166上:対立は解消→孫、段の対立は解消
 p170上:中華人民共和国では、十月……(建国記念日)になると、→中華人民共和国でも、十月……(建国記念日)などに、
 p173下:史書の記述によると、翌日、王占元→史書には、王占元の「非道」ぶりを強調するすさまじい記述がある。王占元
 p174上:回収させたと伝えられている→回収させたとまで書かれている。▽兵乱に……声を失った。→削除
 p179上:命令は、「堅く→命令は、相変わらず「堅く
 p180上:軍艦→艦船▽港に横付けし→港で
 p181下:湖南支援戦争→湖北支援戦争
 p182下:安徽系・段祺瑞派→安徽派
 p185上:柳行李に担がれて北京の日本公使館を脱出したとされる→北京の日本公使館を脱出した
 p187上:曹鋭の前に現れた張作霖の顔は厳しい。→張作霖は、
 p187下:緑林以来→保険隊以来
 p188下:三角蜘蛛→三角蜘蛛の巣
 p190上:張作霖の盟友・→削除
 p190下:馬も人も天に→人馬もろとも▽奉天軍は昔ながら……用いた→奉天軍には、昔ながら……用いる部隊もあった▽この戦争で→削除
 p192上:「三角蜘蛛」の陣を敷いた呉は、巣→「三角蜘蛛の巣」の陣を敷いた呉は、糸
 p194下:声明を口授した→声明を作った
 p196上:戦闘が始まって……突撃を命じた。→削除
 p196下:潰乱した。高、→潰乱した。裏切りも続出した。高、
 p197上:追撃をあきらめた→追撃もあきらめた▽衝くこともできた→衝くこともできたかもしれない
 p201下:日本の陸軍士官学校の制服を着た→削除
 p203上:張景恵ら→古い幹部
 p204下:求めたのは、軍政長官の権力を国家に返納するという一種の大政奉還で→求めたのは、軍閥が持つ権力の国家への返納で
 p205上:どこへ行こうと→どこにいようと
 p211上:成立後直後→成立直後
 p219上:災害被災地の農民→災害に遭った農民
 p225上:歩兵銃→小銃
 p228下:公文→公文書(二か所)
 p231上:浙江軍が一個連隊を壕から突撃させたが→浙江軍一個連隊が壕から出撃した。しかし、
 p237上:奉天軍は、……持っていたといわれる→奉天軍はさらに、……持っていた。
 p238上:黒いレモンのように→削除
 p239上:直隷軍はこれから、……シナリオだろう→削除
 p240上:廬はこれを→盧はこれを
 p241下:すぐに包囲→あっさり包囲
 p242上:二十四師団を→二十四師団の精鋭部隊を▽大崩壊→より早い破局
 p263下:ただ、中国→中国
 p265上:倒したがゆえに、心の……守り続ける段は、→倒した段は、心の……続け、一方では、
 p268上:日本の陸軍士官学校……砲兵連隊に在籍した→日本で砲兵連隊に在籍したことがある
 p269上:孫の字をとって→孫の呼称「孫中山」にちなんで
 p271上:第一次大戦以来、→削除
 p283下:状況が一気に→情勢が一気に
 p285上:署名した→郭松齢に従う署名をした
 p285下:士官派→陸士派
 p290上:多数の凍傷患者が→凍傷が
 p291上:十二月七日……会談した→中国の史書の多くが、十二月七日……会談したと記している
 p295下:貨車→貨車など▽内部呼応者→内応者
 p297下:奉天の凍る市中で→奉天
 p301下:ここで王永江が休会を提案し、郭……確認する会議は終わった→会議は、郭……確認した
 p308下:ですが」と言う。中山艦は→ですが」と言う。黄埔からだった。中山艦は
 p314下:井戸など→川や井戸など▽国民軍軍→国民軍
 p318下:歩兵銃→小銃
 p320下:蔣と孫の間には、蔣と呉が第一……いう点で利害が一致している。→蔣と呉が第一……ということに限れば、蔣と孫の利害は一致している。
 p323下:名高い黄鶴楼がある。→削除
 p330上:こだわらない。大丈夫だ」→こだわらない大丈夫(ルビだいじょうふ)だ」)
 p332上:要請した→皮肉を返した
 p346下:病死→死亡
 p347下:国民党の三大勢力が排撃し始めた→国民党内での
 p351上:直魯連軍→直魯連合軍
 p365下:日本側では、この夜の面会は次のように記述している→日本側の史書は、この夜の面会について、次のように記している▽努めた」 芳沢が……→ 努めた」 外交文書には、芳沢が奉天への撤退を求めたとの記述もある。 芳沢が……
 p367上:この日の夜→中国の史書によれば、この日の夜
 p369上:日本から見れば、張は、日本の特殊権益を脅かす存在となっていた。 日本にとって張は、不要の存在になっていた→張はまた、満洲統治に専念せよとの日本の勧告を再三無視して中央に覇権を求め、結果として日本の満洲権益を危険にさらしていた。 満洲をわがものにしたい日本の軍人らにとって、張は排除すべき存在になっていた
 p371上:泰山号が火煙に→泰山号は破壊されて停車し、煙に▽原形をとどめず→炎上しはじめ
 p372上:五十四歳だった、の脇に(39)~注番号
 p376上:李宗仁が回想録の中で→李宗仁の口述回想録が
 p376下:進出してきた→退却してきた
 p378上:軍閥時代の特徴→軍閥の特徴
 p382(8):二発の→削除
 p385(15):『大参考民国時期戦争』→『民国時期戦争大参考』(以下同じ)
 p391(7):(冒頭に追加)第二革命の後、国民党は消滅、孫文は一九一四年、「中華革命党」を創設する。「中国国民党」に改名するのは一九年。煩雑さを避けるため、ここでは、孫を中心とする勢力を「国民党系」と記す。
 p394(38):『曹汝霖一生的回憶』→『曹汝霖一生之回憶』(以下同じ)
 p400(3):膨大になるとみられる→膨大になる
 p423(袁世凱):八二年に→一八八二年に▽まで間滞在→まで滞在
 p426(蔣介石):陸軍士官学校→振武学校▽広西系→李宗仁
 p428(段祺瑞):内閣総理。→内閣総理。安徽派の最高指導者
 p432(楊度):名前のルビを「ようど」から「ようたく」に
 p430、432、433:陳光遠、李鳴鐘、龍済光、劉郁芬は、本編での記述が少なく、削除
 p443下(1925年1月3日):西北辺防督弁→西北辺防督弁に
 p455(中国新聞雑誌等):藩陽晩報→瀋陽晩報


 ◆『張作霖
 p70:ねじり伏せた→ねじ伏せた
 p73:大物を安置する→大物を置かせていただく
 p163:武器の専門家→削除
 p274:戦の後、旧→戦の後は、投降した旧
 p288:こんな逸話→就任後の逸話
 出典注p5:双喜と改名→双喜を改名

 

「やあ、プルートウ」

 小学生のころ、手塚治虫の『鉄腕アトム』が大好きだった。国語の教科書にも、算数のノートにも、教室の黒板にも、家の前の砂浜にも、アトムの顔を描いていた。
 数あるお話の中でも、「地上最大のロボット」という回には特に興奮した。ストーリーは、今もはっきり覚えている。
 最強のロボットの持ち主になりたいという人間の野望を叶えるため、側頭部に2本の角を持つ大ロボット「プルートウ」が、世界各国の強力ロボットたちを次々に破壊していく。戦いの果てに待っていたものは、やはり戦いだった。圧倒的なパワーを持つ巨大ロボット「ボラ-」が眼前に現れる。プルートウは角を水平にして突進するが、ボラ-は手刀一撃でそれをへし折る……。
 若い世代なら、浦沢直樹氏のリメイク版「PLUTO」の方になじみがあるかもしれない。
 
 『張作霖』で、北伐の段を書いているとき、ふと、プルートウを思い出した。「やあ、プルートウ」と声をかけたくなるほど、唐突に彼は現れた。
 南から押し寄せてくる蒋介石の北伐軍。その圧倒的な戦力は、まさにボラ-だった。勝敗は見えていた。だが、張作霖は、劣勢の戦力を二手に分けて決戦を挑んだ。蒋が右腕を振り下ろすと、作霖の角は、もろくも折れた。
 大爆発によって死すという点も同じだ。もっと言えば、そうした最期に向けて戦い続けた生の軌跡そのものが似通っていた。プルートウはそれを操る人間の意思で、張作霖は自分の意思で戦っていたという違いはあるが。
 「地上最大のロボット」では、プルートウが倒すべきロボットたちの顔が一枚の紙に描かれ、戦いのたびに、その顔が一つずつ消されていく。誰も彼も、愛すべきロボットたちだった。モンブラン、ノース2号、ゲジヒト、エプシロン……
 張作霖の歩んだ道を振り返っても、作霖が相まみえたいくつもの個性が、歴史の天河に輝いている。近代の波に乗れないままに討伐された大匪賊・杜立三、モンゴルの草原を守るために挙兵したトクトホ、清朝滅亡の前月に暗殺された革命家・張榕、民国を動かした安徽派の天才軍師・徐樹錚、中国大陸を疾走した軍神・呉佩孚、作霖に反旗を翻した奉天最強の将軍・郭松齢……。

 人間の営みの記録である歴史には、敗者、あるいは滅亡の美といったものが確かに存在する。人々は古来、そうした物語を愛し、語り継いできた。『張作霖』でも『覇王別姫』に触れたが、四面楚歌の中で虞姫をかき抱く項羽は、中国史を彩る絵画的記憶となっている。五丈原に向かう諸葛亮もそうだろう。日本で言えば、平家物語の荘厳な滅びは、他に例がない。
 張作霖の物語も、その流れに連なるものだという気がする。少なくとも、自ら戦い抜いて力尽きた作霖は、安全地帯で謀略に熱中し、他人に死を強要し、敗れた後は他の誰かに責任を押しつけるような、醜い敗者として描かれる人物ではないだろう。

 張作霖プルートウの間には、もう一つ、大事な共通点がある。彼らは、戦い抜いたばかりではない。その心の奥深くには、「軍閥」、「ロボット」という無機質な単語には含まれていない、優しさがあった。 (2017年4月29日)

最も美しい碑

 北京の繁華街・王府井の北にある小さな胡同(フートン)で、民家の脇に残る石碑を見せてもらった。人の高さほどもある碑面にびっしりと彫られた古い文章は、自分の語学力では、とても読めない。目で漢字を拾って、お目当ての文字を見つけた。
 確かに「法華」とある。清末、ここには、法華寺という寺があった。天津近くの小站(しょうたん)で、新建陸軍の練兵にあたっていた袁世凱が、北京での宿舎にしていた。
 光緒帝の変法維新が風前の灯火となっていた1898年9月18日夜、維新の志士・譚嗣同(たんしどう)はここに袁世凱を訪ね、兵を動かすよう求めた。袁は口を濁し、天津に戻って直隷総督に報告する。間もなく、維新は潰え、帝は西太后によって幽閉された。譚は処刑された。
 「法華」の碑面の上で、木漏れ日が揺れていた。

 『覇王と革命』、『張作霖』の現場取材では、石に刻まれた文字を数多く目にした。
 石の記録は、どこか懐かしい。石という原始的で硬質な物体は、往時の体温といったものまで封じ込める記録性を持っているように感じる。遼寧省瀋陽の旧大帥府に残る張作霖直筆の石額も、訪れるたびに飽かず眺めた。この額については、『張作霖』で書いた。

 これまでで最も心を揺さぶられた石碑は、徐世昌(じょせいしょう)の手になるものだ。
 袁世凱の盟友で、清朝の大官僚だった徐世昌は、中華民国大総統になった。清末、東三省総督として、張作霖の人生にも決定的な影響を与えた。
 1916年、洪憲王朝が潰え、ほどなく失意の中で悶死した袁世凱は、故郷・河南省安陽に造成されていた墓園に葬られた。
 清朝皇帝並みの格式を持つ墓だ。高さ5メートルを超える墓碑に、徐世昌の見事な楷書が残る。
 「大総統袁公世凱之墓」
 「皇帝」という言葉はない。この点は、『覇王と革命』で触れたので、繰り返さない。
 実は、この墓碑には、もう一つ、恐るべき特徴がある。
 裏に回ると、思わず息をのむ。
 袁世凱の生前の記録を刻むための巨大な平面に、碑文が何一つ刻まれていない。中国のネットを検索してみれば、「則天武后以来の無碑文の墓碑」という言葉も見える。
 歴史上まれに見る異様な石碑になった理由を解き明かした文献を読んだことはない。
 以下、想像である。
 袁世凱の生涯を他人が記すのを、徐世昌が許せたとは思えない。ただ、中華民国の正統性から言えば、共和制を壊した袁は罪人に等しかった。徐は、書けなかったのだろう。石に刻まれた文字は永遠に残るのだ。
 無碑文の碑は、愛惜や迷い、自負、後悔といった万感の情が宿る、最も美しい碑なのではないかとも思えてくる。

 譚嗣同が北京の法華寺袁世凱を訪ねた当時、40代前半の徐世昌は、袁とともに、小站で練兵にあたっていた。二人が作り出そうとしていたのは、旧来の清軍とは次元が違う新たな軍隊だ。それは、変法維新という上滑りの改革とは異なる、新しい時代の基礎建設というべきものであった。 (2017年2月19日)

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『張作霖』のこと

 北京に来て一年半ほどになる。
 自宅から10分ほど歩いた東便門付近に、1キロ余りにわたって明清時代の城壁が残っている。かつて、この一帯には、分厚い壁を風よけのようにして、庶民の小さな家が密集していた記憶がある。2008年北京五輪を前に再開発され、緑地公園に生まれ変わった。
 その工事が行われていた2002年9月、城壁の南の地面で、長さ3メートルほどの線路の断片が見つかった。
 往時の京奉鉄道--北京と奉天(現遼寧省瀋陽)を結ぶ鉄道--だった。張作霖が行き来した軌道だ。1928年6月3日未明、作霖はここを西から東に通過し、二度と戻ることはなかった。

 最近、白水社から『張作霖 爆殺への軌跡一八七五-一九二八』という本を出した。
 作業を終え、半ば放心状態のまま、張作霖の53年間の人生を振り返ると、改めてため息が出る。
 「はじめに」に、こう書いた。
 「草莽から身を起こした作霖は、桁違いの器量によって、乱世を駆け上がっていく。匪賊を斃し、モンゴル兵と死闘を演じ、常勝を誇る大軍閥と激突した。北上する巨大台風のごとき革命軍にも白旗を掲げることはなかった。満洲を勢力圏とする日本に対しては、その力を利用しながら、傀儡にはならず、最後は日本の軍人に殺された」
 略歴のように列挙したが、どれ一つとっても容易ではない。
 時は清末、舞台は満洲。父は博徒で、三男坊。光緒元年に、たったそれだけの条件を与えられて生を受けた一人の男児が、泣き、笑い、怒りながら、そんな人生を送ったのだ。張作霖自身に、並外れた力と度量があったのは間違いない。何でも呑み込みながら、泥の河のごとき大きな流れを作りだしていく。乏しい歴史知識の中で、似たようなタイプとして思い浮かぶのは、漢祖・劉邦だ。
 加えて、乱世が張作霖を育てた。乱世なくして作霖はなかった。作霖の評伝を描くことはそのまま、清末から中華民国軍閥混戦、そして満州事変へと続く近代中国の激動期を描くことでもあった。情緒的な言い方をすれば、作霖は、時代に愛され、時代に殺された人だったとも思う。
 張作霖の生涯のハイライトは、言うまでもなく、日本の軍人の手による列車爆破で殺害されたことだ。作霖を巡るすべての事象は、クロス鉄橋の一点に集約されていくと言っても過言ではない。『張作霖』のサブタイトル「爆殺への軌跡」は、そんな思いから付けたものだ。
 張作霖爆殺の極めて特異な点は、そこが作霖個人、軍閥の時代の終着点であっただけにとどまらず、日本にとっての地獄への出発点になったということだ。つまり、作霖爆殺という歴史的事件は、「いかに終わったか」と「いかに始まったか」を同時に語っている。
 『張作霖』でどれだけのことを伝えられたか、自分では分からない。ただ、そんなことを書きたかった。

 白水社ウェブサイトに掲載する出典注の膨大な校正をようやく終え、春節旧正月)期間中のよく晴れた日、文化財として保存されている京奉鉄道の線路跡までふらふらと歩いた。
 そこは信号所があった場所で、断面が「I」字型をした鉄のレール二本のうち、片側は枝分かれしている。
 小さな遺構の形状は、そう見ようと思えば、張作霖爆殺が近代日本の分岐点だったと語っているように見えなくもない。
(2017年2月4日)

 ※『張作霖』を執筆中、『覇王と革命』で直隷の要衝、川の名を、「濼州」「濼河」と誤記したことに気づきました。中国簡体字から日本の漢字に直す際に誤りました。「濼」は直隷の川でなく、山東にある川です。読者の方々におわびします。『張作霖』では、「灤州(らんしゅう)」「灤河」に改め、このブログ内の「濼州」も「灤州」に変えました。
 ※三年半も更新していない、この小さなブログを訪れてくださる方が今も絶えません。驚くと同時に、心から感謝しております。国情の関係から、フェイスブックなどのツールは使えず、知らぬ間に失礼をしでかしているかもしれません。ご理解いただければ幸いです。

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彼らの物語

 「覇王と革命」を読んでいただいた方から、登場人物の性格付けについて聞かれたことがある。
 ちょっと困ってしまった。
 群雄の物語を書いたつもりでいる。しかし、歴史小説を書くかのように、一人ひとりの性格を、こちらで何かの型にはめたことはない。史書や報道、史料に残されている彼らの動き、言葉の軌跡を細かくたどっていっただけのことだ。それでいつの間にか、性格らしきものがにじんできていた。
 以来、同じような質問には、こう答えることにしている。
 「みんな、それぞれ何かを持っていたんだと思います」
 そうなのだ。一人ひとりが、実に豊かな個性と能力を持ち、清末から民国初期の大激動の歴史に躍り出してきた強者なのだ。筆の小細工など必要なかった。
 例えば--
 常人ではありえないような孫文の言動は、一般的な印象など気にせずに記した。「常識人に王朝は倒せない」と書いたのは、革命家への最高の賛辞のつもりだ。
 袁世凱は、中国近代化の父だと思う。しかも、大王朝を静かに倒すという離れ業をやってのけた。その袁が皇帝になろうとし、落ちていく。なんと人間的か。
 「北洋の虎」・段祺瑞の真価はむしろ、失意の時に見えるような気がする。その行動が、哀しく、美しい。腹心・徐樹錚は、鮮烈に生き、死んだ。
 「常勝将軍」と呼ばれた呉佩孚は、最前線で兵とともに炎のごとく戦った。だが、一人の人間としては、孤独だった。
 東北王・張作霖の懐の深さはどうだ。草莽から出て、中華民国の大元帥に至ったその歩みを、印象のままに「堂々たる人生」と書いた。
 手段を選ばず勝つ側に回る馮玉祥には、幼少時代の原体験が投影されているのではないか。彼はまさに「時代の子」であった。
 「南」の雄たちも、すごい。広州を追われた敗者・孫文のもとに駆けつけた蒋介石、「中華合衆国」の夢を抱いた陳炯明、義盗から身を起こして戦乱の世を駆け抜けた陸栄廷、強敵を冷静に倒し続けた李宗仁らが、大きな星座群のごとく、南天に連なっている。
 こうして書いてみると、彼ら、そして彼らが生きた時代のスケールの大きさが改めて分かる。日本を含む世界もまた、ダイナミックに動いていた。
 中国の同じ時代には、もう一つの物語が存在する。というよりも、そちらが完全に主流であり、正史として扱われている。特定の史実と宣伝を織り交ぜ、共産党政権の正統性を描く革命史の物語である。正邪、善悪、敵味方をはっきり分類しており、上述の群雄たちは、孫文ら一部を除いて、邪・悪・敵側の定位置、かび臭い暗所に放り込まれている。
 しかし、現実の彼らは違う。三国志の時代のごとく、沸き立つ大地で、戦った。逃げた。死んだ。個性豊かな勝負師たちは、民、そして中国という国家の命運がかかったルーレット盤を激しく回し続けた。
 回転は果てしなく続くかに見えたが、運命の小さな球は、やがて迷うようにふらつき、1949年、コトリ、と止まった。そこにいたのは、かつて小軍閥のように江西に割拠していた毛沢東だった。歴史は連続している。
 中国では近年、軍閥混戦時代の情報が、どんどん社会に出てくるようになった。その時期、10数年間にわたって北京に滞在できたのは、幸運だったと思っている。初めて知る武人たちの時代は、衝撃的なほど新鮮だった。彼らの姿を小さな物語にするとき、自分で作れるものなど何もなかった。 (2013年7月28日)

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◆読んでくださった皆様へ

 「覇王ときどき革命」は、一身上の都合により、今回で、とりあえず中締めとさせていただきます。突然のことで、まことに申し訳ございません。
 これから、ちょっと深い海に潜ってきます。とはいえ、書き残したことはまだまだ多く、ときどき、獲ってきた貝をそっと置くように、こっそり更新させていただくことがあるかもしれません。
 読んでいただいた方には、心から感謝申し上げます。正直にいえば、「覇王と革命」も、「覇王ときどき革命」も、「ほとんど知られていない人物がぞろぞろ出てくる歴史ものを読んでくれる方が、本当にいるんだろうか」という不安の中で書いていました。
 ネット等で、温かい励ましや、身に余るおほめの言葉をいただきました。「面白い」のツイート一発にどれだけ勇気づけられたことか。厳しいご指摘とあわせ、大きな力をいただきました。ありがとうございました。
 最後に、海の底のヒトデのようなブログに、明るい生息場所を与えてくださった白水社のA氏、K氏に、心からの御礼を申し上げます。  杉山祐之

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北伐のエース

 1927年夏、要衝・徐州で蒋介石の北伐軍を撃破した孫伝芳の大軍が南下、8月25日夜、長江を北から南に渡った。目標は、南京。蒋不在の中、孫軍を迎え撃ったのは、広西軍を率いる李宗仁である。
 前日、李宗仁は、軍艦艇に乗って長江を移動中、南京西方で孫伝芳軍の帆船群に襲撃されている。小舟が100隻以上見えた。大軍が集結しているのか。
 南京に戻った李宗仁は命じた。
 「総予備隊の8個連隊を直ちに出動させよ」
 来たるべき敵の上陸に備え、南京にあった予備兵力の各連隊が動き出す。だが、兵の足は、「東」を向いていた。李宗仁が襲われた「西」ではない。
 「間違いなく、あれは擬陣だ。我が主力を上流(西)に引きつけておき、隙を突いて下流(東)で渡河してくる」
 口述の回想録で、李宗仁は自らが襲われた「西」を捨て、「東」を選んだ判断について、あっさり語っている。
 その読み通り、孫伝芳は、6万の大軍を南京の東、竜潭一帯に上陸させた。「西」にいたのは、小さな陽動部隊だったことが確認された。
 李宗仁はなぜ、ためらいなく東に兵を出せたのか。同じ季節に竜潭付近を歩いた時、その根拠が少しだけ見えた気がする。
 そこには葦原があった。近くには、大型船が接岸できる埠頭もあった。なるほど、ここなら、大軍の作戦が可能だろう。歩兵は闇に紛れて小舟で秘かに渡河できる。浸透した歩兵が橋頭堡を築けば、重火器も陸揚げできるはずだ。
 李宗仁は、自らの戦闘の興奮に流されることはなかった。必然性と蓋然性によって導かれる合理的な結論に基づいて即断したのだと思う。
 予備軍が西に向かっていたら、「竜潭の戦い」の様相はまったく違ったものになっただろう。河岸の丘陵地帯の防衛線は破られ、孫伝芳軍は南京に突入し、武漢から南京をにらんでいた国民党左派の唐生智軍と合流していた可能性が強い。何応欽は南京を脱出して、上海方面で蒋介石とともに再起を図っただろう。李宗仁軍は、恐らく生き残れない。中国史はパラレルワールドに突入する。
 だが、李宗仁軍は、孫伝芳の乾坤一擲の攻撃にかろうじて耐え、上海から来援した白崇禧軍とともに、孫軍を殲滅する。北軍は長江から遠く駆逐された。
 妙な例えだが、北伐のエースだった李宗仁の戦いには、バレーボールの王者のような迫力、凄みがあるように思う。奇策はない。力と速さと正確な読みで、相対する敵を堂々と撃破していく印象だ。弱い相手には何もさせず、竜巻のように蹂躙してゲームセットである。強敵に出会えば、相手の動きを読んでしぶとく守り、チャンスをつかんで強打を決める。
 竜潭では、敵のスパイクのコースを読み、正しくレシーバーを配した。その前年、湖北・賀勝橋で呉佩孚軍主力を粉砕した時には、突破した敵をかわして、その側面に移動攻撃を加えた。江西の南潯路(なんじんろ)では、鉄道線路沿いに展開した孫伝芳軍主力を、高い打点のクロスのように横からなぎ倒した。
 竜潭の戦いから11年後の1938年。日中戦争で連戦連勝を重ねていた日本軍の2個師団が、徐州に近い山東省南部・台児荘に向かった。だが、そこで予期せぬ強力な抵抗にあい、激戦の末、後退を余儀なくされる。
 日本軍が相対していたのは、李宗仁軍だった。李は、周辺に最精鋭部隊を含む大軍を集中させ、勝利を疑わずにアタックをかけてきた日本軍の眼前に、三枚ブロックのごとき高い壁を築いていたのだ。 (2013年7月21日)

※参考資料:李宗仁回憶録、李宗仁大伝、蒋介石大伝、武夫当国、新華網

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宋教仁暗殺

 1913年の3月20日夜、国民党の指導者・宋教仁は、見送りの黄興、廖仲愷らとともに、上海駅にいた。宋は、強力な政敵になるであろう臨時大総統・袁世凱が待つ北京に向かおうとしている。
 「孫文、黄興など、気にするまでもない。遁初(宋教仁の字)の小僧だけがちょっと面倒だ」
 袁世凱は、周囲にそう語っていた。最強の北洋軍を握る大総統にまで不安を抱かせる男、それが宋教仁だった。
 宋教仁はこの時、三十一歳。革命期の寵児たちは、まばゆいほどに若い。
          *     *
 前の年、つまり中華民国元年の12月から年初にかけて、初の国会議員選挙が行われた。王朝を捨てた中国が「民国」たることを証明する選挙であり、年齢、税金納入額、学歴などで一定基準を満たした男性が歴史的な票を投じた。
 結果は、国民党の圧勝だった。衆議院定数596のうち269議席、参議院274のうち123議席を獲得したのである。
 選挙を指揮したのは、党の実務を担当していた筆頭理事の宋教仁だった。理事長の孫文は、象徴的な存在にすぎない。
 両院で第一党を得た宋教仁は、過渡期の憲法にあたる臨時約法とそれを支える国会によって、袁世凱に挑もうとしていた。
          *     *
 北京行き列車の発車時刻まで5分になった22時40分、改札に入ろうとした宋教仁の背後に一人の男が躍り出た。
 パン、と銃声が響いた。続いてまた二つの銃声。
 宋教仁が倒れこんだ。
 近くの鉄道病院で緊急手術が始まった。一発の弾が、右側の腰から体内に斜めに入って腎臓をかすめ、大腸に二つの穴を開けていた。弾は摘出したが、出血が止まらない。弾には毒が塗られていたという。
 宋教仁は、黄興に託して、袁世凱に電報を送った。
 「大総統が真心を開き、正しい道理を広め、民権の保障に力を尽くされんことを伏してこいねがいます」
 22日午前4時47分、宋教仁死亡。
 袁世凱は「こんなことがあろうか」とうめいた。
 実行犯は、武士英という元軍人だった。逮捕後、獄中で死亡した武は、末端の鉄砲玉に過ぎない。
          *     *
 事件の背後にいたのは誰か。
 中国でこれまで、「史実」とされてきたのは、「袁世凱」である。しかし、近年、民国史の記述が自由になるにつれ、長い間封印されてきた異論が続出している。最も多いのは、孫文と関係が深い革命派の大物・陳其美を主犯と見なす説だろう。そうなると、事件は国民党内部の暗争ということになる。
 真相は分からない。確かなことは、約法と国会という制御装置を砕かれた幼い民国は、ここから暴走し始めた、ということだ。
 宋教仁を失った国民党は、たちまち「第二革命」の旗を立てて武装蜂起し、北洋軍にたたきのめされた。
 ちょうど百年前の出来事である。 (2013年7月14日)

※参考資料:北洋政府簡史、洪憲帝制、北京民国政府的議会政治、袁世凱評伝、人民網、新華網、鳳凰網(三聯生活週刊より)

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