覇王ときどき革命

中国・清末民初のお話など

妄想のレッドクリフ

f:id:kaitaronouta:20180227213253j:plain

f:id:kaitaronouta:20180227213325j:plain

 細い雨の中である。短い坂道を傘をさして登り、その小さな丘から四周を見回すと、緑の木立と古い住宅が交じりあう街の光景があった。
 ほんとにここか?
 そう思えてくる。だが、記念公園の正門の錠を開けてもらって入ったのだから間違いない。目の前には、国民革命軍(北伐軍)第4軍将兵の慰霊碑が立っている。村の集会所くらいの規模だが、戦闘経過の記録を残す記念館もある。
 湖北省の汀泗橋(ていしきょう)。1926年、南から押し迫ってくる北伐軍と、武漢を守るためにここに布陣した呉佩孚軍が激闘を繰り広げた土地だ。
 多くの史書に書いてあった。三方が水に囲まれ、正面に高地がそびえる、と。地図を見ると、三国志で有名な赤壁に近い。事前に思い描いていた汀泗橋は、水上要塞のごとくであった。かつてベトナムで見たハンバーガーヒル(ベトナム戦争中、米兵の生命をすりつぶした難攻不落の丘)と同じように、巨大な容積を持つ高地が、血で膨れた蛭のごとく脳裏に横たわっていた。
 ところが、着いたら、これだ。雨に煙るいなか町だ。「要塞」を浮かべていたはずの水面もない。近くに小川はある。
 「ああ、治水やったからね、昔のような水はないよ」
 公園の門を開いた管理人さんが、にっこり笑って教えてくれた。
 中国の史書に潜むくせ者は、プロパガンダだけではない。「白髪三千丈」という妖怪もどきの超古豪もいる。「百聞は一見にしかず」は、この強敵に対処するための呪文である。もっとも、今回の場合、記述が三千丈というわけではなく、白髪が増えた自分の頭の中にある妄想が、三千丈に育っていた。愚かだった。
 まあ、救いもある。「覇王と革命」で、映画「レッドクリフ赤壁)」のごとき情景の汀泗橋を描かなかったのは、幸いだった。
 軍閥史を書くにあたって、できるだけ現場を見たい、と思っていた。より正確な記述をするためである。歴史の空気を実感できることも多い。
 天津と奉天の間に位置し、濼河(らんが)が流れる直隷・灤州(現河北省灤県)は、軍閥の時代、何度も大事件の舞台となった。1924年の第二次直隷・奉天戦争では、奉天軍がここを奪って勝敗が決した。一年後、奉天軍の最精鋭を率いる郭松齢が、張作霖に反旗を翻し、挙兵したのもここだ。
 灤河のほとりに立った。現役の大鉄橋のわきに、橋部分を失った昔の鉄橋がある。その写真を撮っていたら、3人の武装警察官が近寄ってきて、デジカメの画像を見せてほしいと言う。それを確認した警官の一人が、無線でどこかに連絡した。「撮っているのは、昔の橋の方です……はい……はい」といった会話が終わると、彼らはそのまま立ち去っていった。
 きっとどこからか監視されていたのだろう。現役の橋の構造などを入念に撮っていたら、政権が警戒する破壊活動に関する疑いを抱かれ、撮影目的を聞かれたかもしれない。
 なるほど。灤州は、昔も今も要衝なのだ。それが分かった。 (2013年3月17日)

 

※参考資料:呉佩孚伝、北洋政府簡史、蒋介石大伝など

※写真は、上が、北伐を記念する湖北・汀泗橋の記念公園。下がその近くの街です。まだ水路はあります。

山犬の正義

f:id:kaitaronouta:20180226215536j:plain

 1930年代以降、日本軍と戦い、蒋介石と対立し、共産党と協力した馮玉祥(ひょう・ぎょくしょう)は、中国では、「愛国将軍」と評価されている。だが、軍閥混戦期の言動が作り出す馮のイメージは、それとは違う。奉天・直魯連合軍の勇将・李景林の言葉が実像に近いように思う。
 「馮の心には化け物が棲み、山犬か狼のごとく残忍である」
 裏切り、寝返りは、馮玉祥の代名詞である。呉佩孚や郭松齢らは、それによって地獄を見た。馮はまた、邪魔者や恨みのある者をためらいなく殺した。
 それだけではない。馮玉祥は、自らを人格者と宣伝して恥じなかった。「覇王と革命」では、陝西を離れる際の演説で、「弊履を捨てるように陝西長官の地位を捨てる」と言いたくて、ぼろ靴を脱ぎ捨てた話、「君子の交わりは淡きこと水のごとし」との寓意を込めて、呉佩孚の誕生祝いに水を贈った話などを紹介した。ほかにも、こんな逸話がある。
 1925年、段祺瑞の義弟である呉光新が、張家口にいた馮玉祥を訪ねると、夜、街に一つある映画館に誘われた。上映された作品のタイトルは、「馮玉祥の家庭生活」。スクリーンには、質素な暮らしが延々と映しだされる。段政権を支える国民軍司令官の機嫌をとりたい呉光新は、我慢した。だが、茅の小屋で読書していた馮のもとに子供が「お父さん、ごはんですよ」と呼びに来たシーンで、ついに立ち上がって言った。「こんなつまらんものはない」
 分かる、分かるよ、呉光新。つらかったね、と声をかけたくなる。
 誰かに「嫌いなの、馮玉祥?」と問われれば、正直にうなずくしかない。
 ただ、彼らは、彼らが生きた世界の価値観と掟によって生きている。
 このころ、兵たちは食うために軍に入った。軍に入れば、無事を願った。そうした兵たちは、「強い」馮玉祥のもとに集まったのである。1926年、国民軍は、馮不在の南口の戦いで叩きのめされ、兵力4000にまで激減した。ところが、馮が復帰すると、国民軍は再び数十万の大軍に膨れあがる。
 この時代、兵にとっても、将にとっても、勝利こそが正義だった。少なくとも、勝てば正義の側に回れた。
 どんなに手を汚しても、勝利という正義にひたすら忠実だった馮玉祥は、まさに「時代の子」だったのではないか。直隷の貧民街に生まれ、恨みとともに育ち、若くして革命にも手を染めた巨漢の軍人は、裏切り続け、殺し続け、勝つ側に回り続け、大軍閥へと成長した。馮が動けば、大軍が動き、大局が動いた。小粒で中途半端な他の裏切り者たちとは、スケールが違う。
 千変万化の軍閥史は、「山犬」とまで蔑まれた馮玉祥の動きによるところが大きい。中国の未来は、そのたびに翻弄された。だが、その揺れを作り出す馮自身は、まったくぶれていない。(2013年3月10日)
 
※参考資料:我所知道的馮玉祥、我所知道的呉佩孚、武夫当権、大国的迷失、武夫当国、北洋政府簡史、人民網

※写真は、北京南苑の東屋。第二次直隷・奉天戦争の前、馮玉祥と孫岳はこの場で裏切りの密談を行ったとも伝えられています。

歴史に残る1票

f:id:kaitaronouta:20180324004254j:plain

  日本が関東大震災に襲われた1923年9月、北京では、直隷系軍閥の総帥・曹錕(そうこん)と、国会議員たちが、大総統ポストを巡って熱い駆け引きを続けていた。曹側は議員に金を配り、見返りに議員は曹を大総統に選ぶ。その条件のすり合わせである。
 天津の布売りから身を起こした曹錕の好物は、カネと女と肉である。それを隠すでもなく、「みんな、好きだろ?」と笑えるような天真の魅力が、この善人にはある。風呂敷包みでも持たせるかのように、すべての軍権を部下の呉佩孚に委ね、天を切り裂くかのごとき呉の戦闘力に乗って軍閥の時代を勝ち上がってきた。ただ、呉と離れた時の曹は、まるで凡庸だ。還暦を過ぎていた曹は、早く大総統になりたいと願い、正直に、カネに頼った。
 史書の曹錕評が面白い。
  「曹錕はケチで知られていた。家の財産は豊かだったが、こうしたカネは、別の人に払わせた」
 中国の史書では、「覇王と革命」で取り上げた多くの軍人は概ね「人民の敵」といった描き方をされている。だが、曹錕へのこの批判は、しみったれていて、人間臭い。実際、賄賂の金は直隷省長の王承斌らに作らせたとされる。
 曹錕は、もうしくじれないと思っていただろう。5年前の副総統選挙で議員1人に2000元を用意したが、「曹錕が芸者を10万元で身請けした」との情報が流れ、「妾一人で議員50人分」という失笑とともに、選挙も流れた。
 大総統選の協議では、最終的に、曹錕側が議員側に対して投票前に小切手を渡し、選挙後に議員たちが換金することで、約束の履行を互いに担保することにした。小切手の額面は、基本的に一人五千元だった。
 10月5日、衆院議員441人、参院議員152人の計593人が登院し、午後2時から4時まで大総統選の投票が行われた。
 投票総数590票のうち、曹錕は480票を獲得して文句なく当選した。第2位は33票を得た孫文、第3位は20票の雲南・唐継尭だった。この時の国会は、一時解散されていた旧国会を復活させたもので、国民党、南方系勢力のシンパが比較的多い。段祺瑞は7票、呉佩孚が5票、陳炯明、陸栄廷が各2票、張作霖も1票取っている。
 無効票の中に、議事記録にも、記憶にも残った出色の1票がある。総統名記入欄には、「五千元」とあった。諧謔一発、議場は笑いに包まれただろう。
 この大総統選挙は、「曹錕賄選(賄賂選挙)」と称されている。とんでもない選挙ではある。しかし、その印象は、意外に明るい。 (2013年3月3日)
 
 ※参考資料:北洋政府簡史、武夫当国、細説北洋曹錕、大国的迷失、人民網(環球網より)

 ※写真は、民国時代の北京地図(部分)です。地図の下部、宣武門近くに衆議院(众议院)、参議院(参议院)があります。衆議院は現在、国営新華社通信ホールになっています。地図の右側には中南海(中海、南海)があり、総統府(总统府)、国務院(国务院)の字が見えます。

革命のシャワー

 手元に中国の高校歴史教科書(人民教育出版社)がある。かの国の高校生たちは、自国の軍閥の時代をどのように習っているのだろう。
 「覇王と革命」で取り上げた期間は、A4版教科書の3課計8頁にまたがっており、まずは、「第13課 辛亥革命(1911年)」のおしまいあたりで、袁世凱が登場する。
 「辛亥革命勃発後、清朝は、北洋軍閥の親玉である袁世凱内閣総理大臣に任命し、軍政を仕切らせ、危機を乗り切ろうとした。……孫中山孫文)は妥協を迫られ、清帝が退位し、袁世凱が共和に賛成するなら、袁世凱を臨時大総統に推すと表明した。……辛亥革命の勝利の果実は、袁世凱の手中に落ちた」
 「親玉」は、記述通りの表現だ。「ボス」と訳してもいい。要は、教科書を支配する共産党が、悪党の頭という語感を持つ言葉(中国語原文では「頭子」)を袁世凱に与えたということだ。この課は最後で、辛亥革命そのものについて、封建君主専制を終わらせ、帝国主義の侵略勢力に打撃を与えたなどと絶賛している。
  次の第14課のタイトルは、「立ち上がる新民主主義革命」。また革命だ。
  リードの部分で、段祺瑞政権が連合国の一員として第一次大戦に参戦したことに触れた後、本文に入る。小見だしは、「五四風雷」である。
 え? いきなり五四運動(1919年)? どこでもドアでわらわらと現れたような愛国学生たちが街頭に繰り出して、日本の対華二十一か条要求の撤廃やら、曹汝霖ら3人の売国奴の処罰やらを叫んでいる。
 今度は、「売国奴」という極めて主観的かつ侮蔑的なことばが、地の文で堂々と使用されている。共産党政権が「3人は売国奴」と判決を下せば、それはもはや「歴史的事実」なのだ。
 五四運動に続くのは、「中国共産党誕生」。陳独秀、李大釗(りたいしょう)、毛沢東らの顔写真や、1921年に上海で開かれた第一回党全国代表大会の出席者名簿が添えられ、「共産党が出てきてから、中国革命の様相は一新する」と、革命が新段階に入ったことを強調している。
 第14章最後の小見出しは、「国共合作と北伐戦争」。
 「1926年、国民政府は、帝国主義が支持する北洋軍閥の呉佩孚、孫伝芳、張作霖という三勢力を消滅させる北伐を決定した。北伐軍は破竹の勢いで、呉佩孚、孫伝芳の主力をたちまち殲滅した」
 ああ、ここにいたんだ、と思う間もなく、北の覇王たちの記述は、これで尽きた。
 南の雄・蒋介石に対しては、悪意に満ちた表現が並ぶ。
 「国内外の反動勢力の支持の下、蒋介石は1927年4月12日、上海で反革命政変を発動し、共産党員と革命群衆を思うがままに捕らえ、殺した」
 国共合作が崩壊したところで、第15課「国共10年の対峙」に入る。
 最初の小見だし「南昌蜂起」は、人民解放軍の出発点とされている共産党軍の武装蜂起だ。次の「土地革命」では、毛沢東が江西の井岡山に革命根拠地を築いている。
 軍閥の時代に関する記述は、ここで終わる。
 「覇王と革命」どころではない。シャワーのごとく、「正義の革命」「革命の正義」が連呼される。それはもはや歴史とは言えない。プロパガンダ、あるいは洗脳と呼ぶべき性質のものだろう。
 「必修」
 高校生たちが手にする教科書の表紙には、目立つ黒い文字で、そう書かれている。(2013年2月24日)

※参考資料:歴史1(2007年1月第3版、2011年5月第13次印刷)

表紙の中の軍神

f:id:kaitaronouta:20180303000630j:plain

f:id:kaitaronouta:20180303000649j:plain

f:id:kaitaronouta:20180303000712j:plain

 アメリカのニュース週刊誌「タイム(TIME)」といえば、まずその鮮やかな表紙が思い浮かぶ。赤い額にはめ込まれたような肖像は、アメリカ、世界で注目を集める渦中の人物のものだ。
 1923年に創刊されたタイムの表紙に中国人が初めて登場したのは、翌1924年の9月8日号だ。
 丸刈りの軍人で、頬はややこけている。耳まで、戦闘向きではないかと思わせるほど鋭い造形をしている。何より印象的なのは、大きな眼だ。
 写真の下には、二行の説明がある。
 「GENERAL WU」(呉将軍)
 「Biggest man in China」(中国最強の男)
 軍閥混戦の中国にあって、「常勝将軍」の名を轟かせた呉佩孚(ごはいふ)である。「覇王と革命」にも、呉の表紙写真は収められている。
 この写真を撮った当時、「最強の男」という称号は、まさに彼のためにあった。袁世凱の帝制に反旗を翻した雲南・蔡鍔軍と真っ向から組み合い、宣統帝溥儀を担いだ辮髪軍を一蹴した。南方軍を打ち砕き、中国初の近代的師団を擁した安徽軍を蹂躙し、東北王・張作霖率いる奉天軍の挑戦も退けた。
 だが、表紙の写真は、どこか生彩を欠いているように見える。その大きな眼は、確かに印象的ではあるが、同時代の記者に「神が宿る瞳」と形容された光をたたえてはいない。
 この号が発売される時、呉佩孚は、張作霖奉天軍と再びまみえようとしていた(だからこそ「タイム」は、呉を取り上げたのだろう)。呉は、自らの運命を予感していたのかもしれない。奉天軍は、以前戦った時とは比較にならぬほど近代化され、潤沢な資金があった。ところが、自ら率いる直隷軍は四分五裂の状態で、戦費もなかった。
 タイムが発売されて二か月もたたぬうち、呉佩孚軍は壊滅した。「中国最強の男」は、その後、もう一度立ち上がるが、南から来る北伐軍に蹴散らされ、北からは奉天軍に圧迫されて、歴史の表舞台から消えていった。
 メディアは残酷だ。呉佩孚は二度とタイムの表紙に登場することはなく、次は北伐軍の勝者たち、蒋介石、馮玉祥、閻錫山らが、続々と表紙を飾った。1934年には、満州国皇帝となった溥儀も表紙になっている。
 勝者はさらに移ろい、タイムの表紙に、やがて、共産党毛沢東が登場する。改革・開放以来、米国の事実上の同盟者となった鄧小平は、タイムの常連となり、78年と85年の二回にわたって、タイムの「パーソン・オブ・ザ・イヤー」に選ばれている。(2013年2月17日)

※参考資料:人民網、鳳凰網、網易網(中国経済網より)

※写真上は、第一次直隷奉天戦争で呉佩孚が奉天軍を殲滅した長辛店の街、中は、湖北支援戦争で上陸作戦を行った岳陽(岳州)の洞庭湖畔、下は北京郊外にある呉佩孚の墓

「北洋」とは?

f:id:kaitaronouta:20180309215129j:plain

 北洋軍閥、北洋政府、北洋の虎など、中国軍閥史には、「北洋」という言葉が頻出する。そもそも、「北洋」って、何だろう。2007年6月に南方週末紙に掲載された「『北洋系』はいかにして興ったのか」(雷頤・中国社会科学院近代史研究所研究員)などをもとに、「北洋」について簡単に記したい。
 歴史的に、他に並ぶ者なき「華夏の国」を自任する中国は、四囲の世界を文化や制度において遙かに及ばない「蛮、狄、夷、戎」と見なしてきた。清朝もまた、そうした外国が朝廷と対等に交渉する資格があるとは考えていない。
 英国とのアヘン戦争(1840年)で敗れた清朝は、広州、福州、アモイ、寧波、上海の五港を開き、その対外交渉に対応するため、五口通商大臣を設置した。ただ、外国と直接話し合わず、北京にも入れたくないという朝廷の姿勢に変わりはない。朝廷は、通商大臣の職務を地方官である両広(広東・広西)総督に兼任(後に江蘇巡撫が兼務)させることにした。
 1856年に勃発した第二次アヘン戦争で、清はまたも惨敗を喫した。清朝は、英仏などに北京への公使駐在を認め、対外交渉を担当する総理各国事務衙門の設立にも同意した。だが、朝廷はなお、外交の窓口を地方に置いた。
 戦争の結果、沿海部での開港地も増えた。地理的概念で「南洋」と呼ばれてきた長江以南では、開港地が五か所から十三か所に増えた。長江以北の「北洋」では、牛荘(遼寧)、天津、登州(山東)の三か所が新たに開き、南洋と同様、三開港地の通商事務を担当する大臣が天津に置かれた。各国の外交使節は、北京で交渉したいと思えば、まず天津で通商大臣と交渉しなくてはならなかった。
 ただ、もはや中華思想だけで国家が存立できる時代ではなくなっていた。洋務をいかに処理し、国防や経済、そして政治の近代化を進めていくかは、国、そして権力の帰趨を定める決定的な要因になっていた。中華の夢に閉じこもり、外交の大権を手放し、自ら改革の道を閉ざしていった清朝は、ここから坂道を転げ落ちるように滅亡に向かっていく。この当時の清末の歴史は、同時期の日本の幕末-明治維新史とは全く異なる軌跡を描いている。
 1870年、清朝は、三口通商大臣を、南洋にならって直隷総督に兼任させ、その職を北洋通商大臣と改めた。簡称が北洋大臣である。初代の直隷総督兼北洋通商大臣は、太平天国の乱を鎮圧した李鴻章だ。当時の李鴻章は、「国家の外交の全局の主宰者であるかのようだった」という。天津における彼の官衙は、清朝の事実上の外交部だったと伝えられている。
 都、朝廷の守護者たる直隷総督はもともと強大な兵権と地方行政権を持ち合わせていた。国防、外交の重鎮となった北洋大臣の配下にある「北洋系」は、李鴻章の死後に北洋大臣に就任した袁世凱の時代に、朝廷が制御できないほど巨大な勢力となっていく。清朝は、この二代目の北洋大臣に倒されることになる。 (2013年2月11日)

参考資料:南方週末、北洋集団崛起研究、直系軍閥史略

※写真は、保定の直隷総督署跡です。直隷総督兼北洋大臣だった李鴻章袁世凱はここで時代を動かしていました。

「仇討ち女」

f:id:kaitaronouta:20180301001903j:plain

 「覇王と革命」では、覇王たちが歴史から退場していくさまを折に触れて紹介した。五省連合軍総司令だった孫伝芳は、1935年11月13日午後3時15分、天津の在家仏教徒が集まる居士林で読経中に射殺された。
 刺客は、30歳の女。名を「施剣翹(せけんぎょう)」という。10年前に、孫伝芳との戦に敗れて惨殺され、辱められた父親の仇討ちだった。
 写真の施剣翹は、すっきりした目鼻立ちをしている。まっすぐにレンズに向けられた両眼が、意思の強さを示しているかのようだ。孫伝芳の温かい骸を前にした施剣翹は、肝魂をつぶした周囲に、危害は加えないと叫んだ。
 この時、懐から紙を取り出した。この時代に文字を書ける女性はそう多くはなかっただろう。たどたどしさが残る文字で、こう書かれていた。
 「先生方ご注意ください。一、本日、施剣翹(本名は谷蘭)は孫伝芳を殺しました。これは、亡父・施従濱の仇討ちです。二、詳しい事情については、私の『国人に告げる書』をお読みください。三、仇討ちはすでに果たしましたので、すぐに裁判所に自首いたします。四、仏堂を汚し、皆様を驚かせてしまいました。居士林および皆様に対し、心よりお詫び申し上げます」
 すさまじい署名が脇にある。「仇討ち女 施剣翹」。拇印もあった。
 紙にある「国人に告げる書」には、父への思慕と孫伝芳への激しい憎悪を書き連ねていた。
 中国の報道系サイトは、やはり、彼女の並はずれた復讐心を巡るエピソードを紹介している。嫁らの証言では、施は、復讐をともに誓ってくれた軍人に嫁いだ。二人の男児をもうけたが、夫が復讐に消極的になると、たちまち夫との一切の関係を断ったという。
 法廷では、暗殺に使ったブローニング拳銃は、弟の同級生から買ったものだと話し、軍人家庭で育ち拳銃の使いかたは幼いころから知っていたと証言した。
 判決は懲役10年。だが、一人の女が軍閥時代の巨魁を斃した復讐劇は大きな話題となり、特赦を求める嘆願書が殺到、11か月の服役後、釈放された。馮玉祥が影響力を行使したとも言われる。
 その特殊な過去から、釈放後も何かと目立った。日中戦争時には、宣伝臭がある武勇伝も伝わっている。共産党とも良好な関係を保っていたが、政治的な嫌疑をかけられた息子を救うために、毛沢東に手紙を書いたこともある。周恩来夫妻に目をかけられ、後に、北京市政治協商会議委員のポストを得た。
 復讐の記憶を残して施剣翹が世を去ったのは、1979年。改革・開放に乗り出した中国はこの年、米国との関係を正常化している。日本では、「江夏の21球」の年だ。 (2013年2月2日)


 ※参考資料:細説北洋孫伝芳、人民網、中国青年網(現代快報より転載)、中国日報網(羊城晩報より)、大成網(成都日報より)

 ※写真は、北京郊外にある孫伝芳の墓