覇王ときどき革命

中国・清末民初のお話など

紫禁城爆撃

f:id:kaitaronouta:20180301001038j:plain

f:id:kaitaronouta:20180301001058j:plain

 中国の歴史は、地層のごとく分厚い。軍閥の時代、数千年続いた王朝の余熱は大地に生々しく残っており、乱世に生きる民の多くが新しい天子の出現を待っていた。「皇帝」がいつ復活してもおかしくなかった。
 「覇王と革命」では、二度の皇帝復活劇を取り上げた。袁世凱の洪憲皇帝就位の動き(1915~16)と、辮髪将軍・張勲が中心となった宣統帝溥儀の復辟(ふくへき)(1917)である。一つめは、清朝を倒した軍人の新王朝樹立の物語であり、二つめは、倒された清朝廃帝復活だ。どちらも、共和護持の旗を掲げる勢力との戦争を引き起こした。
 袁世凱の「中華帝国」が失敗した後、宣統帝の復位で再生した「大清帝国」の巨体も、本格的に一歩を踏み出す寸前までいった。その地響きが大陸に轟けば、おそらく、「皇帝の御代」は再生されたのではないかと思う。女も子供もそれを歓迎し、北京の街には、清朝のシンボルである龍旗が翻った。だが、「北洋の虎」・段祺瑞が挙兵、張勲の辮髪軍を破り、巨人を再び眠りにつかせた。
 その時の戦争で、鮮烈な印象を残す戦いがある。復辟宣言から5日後の7月6日、段祺瑞軍(討逆軍)の飛行機が行った紫禁城故宮)爆撃だ。軍閥混戦期の戦闘には、機関銃や迫撃砲、装甲車や戦車といった20世紀の近代兵器が「三国志」の世界に入り込んだような、独特のミスマッチ感がある。その最たるものが、この爆撃だろう。数千年にわたる中国の内戦史上、初めて落とされた爆弾は、なんと、皇帝の居城に命中したのだ。
 史書を読むと、絵巻物を眺めているような気分になる。記述にはばらつきがあるものの、三発の爆弾が、宮中にパニックをもたらした点では、ほぼ一致している。大臣たちの多くは煙のごとく消え失せ、賭博に興じていた宦官たちは肝をつぶし、女はテーブルの下に潜り込み、辮髪をぶら下げた兵隊は走り回って逃げた。一人の籠かきが運悪く命を落とし、犬も1匹死んだ、との記述も一部にあった。
 ある史書によると、溥儀は後に、「宮中に討逆軍の飛行機が爆弾を落とし、局面は完全に変わった」と回想したという。他の史書も「復辟勢力を絶望の淵に陥れた」など、爆撃が与えた心理的衝撃に言及している。中国の皇帝の時代にとどめを刺したのは第一次大戦で登場したばかりの航空兵器だった、という説も成り立つかもしれない。清朝は、そこで体温を失って本物の過去となり、爆弾が吹き上げた土煙がまじった「共和」という新たな表土が、中国史の地層を覆った。
 中国大陸に再び「皇帝」が登場するのは、17年後のことである。紫禁城爆撃当時、宮中深くの養心殿に逃れ、間もなく二度目の帝位を降りた宣統帝溥儀は、1934年3月1日、「満州国皇帝」として、生涯三度目の帝位に就いた。 (2013年1月26日)

※参考資料:北洋政府簡史、皖軍、細説北洋段祺瑞、最後的紫禁城、大参考民国時期戦争、武夫当国、人民政協報

※写真は、上が、故宮代表する太和殿。下は、延禧宮。宮の案内板に、復辟の戦いでの爆撃で被害を受けたとの説明があります。

歴史との距離感

f:id:kaitaronouta:20180317212816j:plain

 毛沢東と、その死後に共産党の実権を握った鄧小平は、中華人民共和国史における突出した巨頭である。しかし、袁世凱、段祺瑞、呉佩孚、張作霖蒋介石といった大軍閥たちが覇を争っていたころ、毛や鄧は、恐竜時代を生きる哺乳類のごとき存在だった。
 蒋介石が中国を再統一する前、江西の山奥に小なりとはいえ武装根拠地を築いた毛沢東はともかく、クロワッサンに感動したフランス留学生、若手活動家としての経歴しか残していない鄧小平は、無名の共産党員に過ぎない。「覇王と革命」でも、映画で言えば、通行人のエキストラに近い。
  だが、毛沢東、鄧小平ともに、やがてくる「未来」の姿を告げる予言者的存在として、軍閥史を語るための不可欠の存在だった。無数の可能性の中から生まれた未来を、端役の彼らに託した。
  二人には、もう一つ、大事な役割を担ってもらった。
  自分と同時代を生きた彼らは、現代と「軍閥の時代」との距離感を計る物差しだった。特に、1978年に鄧小平の改革・開放が始まって間もなく、大学で中国語を学び始め、かけだしの北京特派員として鄧の動静を追った自分にとって、鄧は中国近現代史の時間的距離感を計る物差しとなる。革命から改革・開放まで、中国現代史そのものを体現する存在と言っていい「鄧小平」の年齢を年表のわきに置くと、「鄧がこれくらいの頃の事件か」などと、時間的距離感が大づかみにイメージできる。
  もっとも、これは、あくまでも個人的な感覚であって、毛沢東の方が距離感をつかみやすいという方もいるだろう。毛沢東も、鄧小平も、物差しにはできない若い世代の方にとっては、今も健在な江沢民氏が分かりやすいかもしれない。毛、鄧に続く「革命第3世代」の指導者を自任する江氏が生まれたのは、1926年8月のことである。
 この月は、南方が北方を呑み込んでいく歴史の潮目となった。奉天軍、呉佩孚軍、直魯連合軍など北方の大軍が、馮玉祥軍に大包囲攻撃をかけ、北京郊外の万里の長城付近の要衝・南口を落とした。ところが、その隙を突いて南の北伐軍が快進撃、湖北防衛のために急きょ南下し、賀勝橋に布陣した呉佩孚軍主力も打ち砕いた。江沢民氏が生まれたころの出来事と考えれば、毒蛇が地をはったあの激戦も、手の届く過去の出来事のように思えてくる。
  個人的には、鄧小平以外にも、軍閥史との距離感を与えてくれた人がいる。昭和3年、すなわち1928年の12月に生まれた亡父だ。彼が誕生した26日後、奉天の張学良は、青天白日満地紅旗を掲げて蒋介石の国民政府に合流し、軍閥の時代は終わりを告げた。 (2013年1月20日)

蔡鍔出奔(しゅっぽん)--脱兎のごとく

f:id:kaitaronouta:20180225183342j:plain

f:id:kaitaronouta:20180225183416j:plain

f:id:kaitaronouta:20180227224412j:plain

f:id:kaitaronouta:20180309010034j:plain

 史書を読んでいると、時に、何かの音が聞こえてくることがある。
 1915年12月、昭威将軍・蔡鍔(さいがく)が、西南の辺境に位置する雲南から、北京の皇帝・袁世凱に反旗を翻した。帝制取り消しを求め、雲南独立を宣言したのである。遠雷が聞こえたような気がした。
 軍閥混戦という群雄の時代にあって、ひときわ大きな光芒を放ち、忽ち消えた蔡鍔。得体の知れない新王朝を一太刀で倒した疾走は、独立宣言の前月、蔡が逃げるように北京を離れ、師・梁啓超が待つ天津に向かった時から始まる。
 鮮やかな結末につながった将軍遁走は、その後、多くの伝説を生んだ。
 おおかたの筋書きは、蔡鍔を、蔡が愛した芸妓・小鳳仙(しょうほうせん)が助けるというものだ。悪役は袁世凱である。英雄と美女と魔王。虎口脱出譚の登場人物として、これ以上の設定は、なかなかない。
 「覇王と革命」では、小鳳仙自身が語ったとされ、最もよく知られる遊郭からの脱出劇を紹介した。蔡鍔の行動を四六時中監視していた密偵たちを、英雄と美人が共同で欺く小気味よさがいい。蔡が去った後の小鳳仙のすまし顔が目に浮かぶ。
 蔡鍔と小鳳仙が中央公園でお茶を飲み、蔡が厠に行くと言い残して消えたという話もある。この説によると、蔡は、袁世凱がいる中南海の目と鼻の先の同級生宅で女装したことになっている。二人一緒に天津行き列車に乗ったと記す史書もある。
 蔡と小鳳仙が二人で観劇に行ったというバージョンでは、消えた蔡の行方を密偵に問い詰められた時に小鳳仙が切ったたんかが、実に面白い。
 「あんたたち、何も分かっちゃいないね。蔡鍔さんに別のお贔屓ができたってことじゃないか」
 徹夜でカードをやった蔡鍔がそのまま出勤、密偵が安心したころ、人力車夫に変装して駅に向かったというものもある。美女が登場しない分、英雄譚としてはしっくりこない。偽計の線も細い。
 現実には、結核を患っていた蔡鍔は、袁世凱から天津での療養許可を取っていた。ただ駐華日本公使が「脱兎のごとく北京を去れり」と本国に報告した蔡の脱出は、実際にも緊迫したものだったに違いない。
 もともと雲南の軍政長官だった蔡鍔の力量を最もよく知っていたのは、ほかならぬ袁世凱だった。蔡を北京に呼び寄せたのも、袁だ。袁は側近にこう語っていたという。
 「蔡鍔の剽悍なること、黄興や諸民党をはるかにしのぎ、あるいは宋教仁もまた、これに及ばないであろう」
 蔡鍔の北京脱出を聞き、袁世凱帝制推進の中心となった君主立憲の志士・楊度が、「虎を山に帰し、魚を海に放したようなものだ。これから、中国に平穏な日々はないだろう」と語ったとも伝えられている。
 雲南独立を宣言した蔡鍔は、「護国軍」を率いて四川に進攻、圧倒的な戦力を持つ北洋の大軍と激闘を繰り広げる。結核の身を削りながらの奮戦は、南の覇王を動かした。雲南に接し、強兵を擁する広西の陸栄廷(りくえいてい)が独立を宣言したのだ。
 今度は、国が割れる音を聞いた。 (2013年1月12日)

 ※参考資料:袁世凱真相、武夫当国、蔡鍔、瑰異総統袁世凱、北洋乱、袁世凱全伝、梁啓超伝、洪憲帝制、細説北洋袁世凱、歴史深処的誤会、日本外交文書

 ※写真は、上が、北京・護国寺界隈の蔡鍔旧居、2枚目が小鳳仙がいたとされる陝西巷の遊郭跡、3枚目は蔡鍔とゆかりの深い雲南陸軍講武堂(昆明)、最下段は蔡鍔の双眼鏡(現在は北京国家博物館で展示)

張作霖の「治家の道」

f:id:kaitaronouta:20180313004521j:plain

f:id:kaitaronouta:20180313004628j:plain

 遼寧省瀋陽に残る張作霖・張学良父子の執務楼兼居館・張氏帥府(「覇王と革命」では大帥府と記している)に、「張作霖治家之道」と題するパネルがある。6人の夫人、14人の子女がいた張作霖が定めた夫人のための家訓十条で、非常に興味深い。紹介しよう。
 一、夫人が政治にかかわることを厳禁する。寝物語は聞かない。
 二、夫人が大勢集まって無駄話をするのを厳禁する。面倒を起こさないようにだ。
 三、各房の夫人たちの地位に尊卑はない。みな、夫人と呼び合うように。
 四、夫人は勝手に誕生祝いをしてはならない。
 五、使用人虐待は厳禁する。
 六、厳格な俸給制をとる。各夫人は毎月、決まった時期に受け取る、
 七、食事は、同じものを別々にとる。各夫人と子女は、自分の部屋で食事をとること。
 八、休息時間を厳守する。外出活動は、すべて夜10時を過ぎてはならない。
 九、子女の文化教育を重視し、名師を招いて子女を啓蒙せよ。
 十、子女の婚姻は自由にはさせない。張作霖一人が取り仕切る。
 もちろん、張作霖が愛情を等分に注いでいたわけではない。最愛の夫人もいれば、福女として連れ回す夫人もいた。だが、基本は、平等な地位を与えた上で一人ひとりを厳しい規則で縛る分断統治である。少数派が多数派を支配する国家と同様のスタイルだ。「革命」を許さぬ体制といってもいい。洪憲皇帝・袁世凱が、側室7人を、「妃(ひ)」と「嬪(ひん)」の二ランクに分け、後宮の人間関係がめちゃくちゃになったのとは対照的だ。
 厳しい家法に縛られていたとはいえ、張作霖の妻として生きることができた6人の夫人たちは、総じて幸福だったかもしれない。これに対して娘6人は、「自由な結婚まかりならず」という父親が進める政略結婚で各地に散り、その明暗は大きく分かれた。
 長女は、同郷の腹心・鮑貴卿の息子に嫁いだ。モンゴル王の子の妻となった次女は涙にくれ、父親が爆殺された後に離婚した。三女はかつての東三省総督・趙爾巽の息子に。四女の相手は張勲の子。精神疾患を抱えていた。五女は、総理・靳雲鵬の息子と婚約したものの、爆殺で結婚はとりやめになった。六女は元遼寧省長の孫と結婚している。
 後継者となった少帥・張学良をはじめ、中華人民共和国の海軍少将になり、文化大革命(1966~1976)で迫害死した四男・張学思など、8人の息子たちも、それぞれ波瀾の生涯を送っている。姉妹たちとは趣きが違うが、やはり、多くが父に人生を左右された。
 張学良が語った子供時分の思い出話を紹介しよう。
 「父の最も恐ろしかったところ、それは食事だった。彼はまず、自分が好きなおかずを人に取ってあげるのだ。『蚕のサナギ、食べたか?』 それが彼の一番の好物だった。これはどうしても食べられなかった。だめだった。もう一つ、ご飯を食べる時、こぼしてはいけない。飯粒を卓にこぼしたら、拾って食べなくてはいけない。地面に落としても、拾って食べなくてはならないのだ。これは恐ろしかった」
 厳格な父を前にした幼いプリンスのひきつった顔が見えるようだ。        (2013年1月5日)

 ※参考資料:張氏帥府史料、我所知道的張作霖張作霖全伝、張学良口述歴史、張作霖一代梟雄

 ※写真は、上が冬の大帥府。下はその中の老虎庁。張学良はここで楊宇霆、常蔭槐を射殺します。

赤蛇と竜と蝦蟇(がま)

f:id:kaitaronouta:20180309222700j:plain

 「覇王と革命」で、1915年の冬の夜、袁世凱の居館、中南海の居仁堂に大きな赤蛇が現れたという言い伝えを紹介した。赤蛇は、袁にお辞儀して消えたという。
 ある方に「ほんまかいな」と聞かれた。苦笑するしかない。が、もちろん、「ほんま」と言えることもある。それは、「天」がまだ実在していたこの時代、新たな天子の登場には、超自然的な啓示が必要だったということだ。
 蛇よりさらに、直接的な啓示がある。
 竜だ。竜の出現こそ、新たな皇帝出現の予兆だった。史書「洪憲帝制」の一節を引こう。
 「竜は天の化身であり、いったん竜が出現したら、それは、旧王朝が信任を失い、天が統治権を新たな天子に授けるということを意味していた。王朝が交替するのである」
 いくつかの史書によると、この年の10月には、長江上流の湖北省宜昌で、巨大な竜骨(恐竜の化石)が発見された。土地の役人は「まさに、大皇帝の国のめでたきしるしである」と騒いだ。北京の歓心を買おうとする下心もあっただろう。とはいえ、こうして社会的事件として歴史書に記載されているところを見ると、竜骨発見が、帝制の予兆として広く受け止められたのも、恐らく間違いない。
 竜について、「覇王と革命」では、童子の玉杯の話を取り上げた。昼寝中の袁世凱に目覚めの茶を持って行った童子が、誤って朝鮮国王下賜の玉杯を割ってしまった。童子はひれ伏して、懸命に弁解した。寝台で寝ていたのは金の竜でございました、びっくりして玉杯を落としてしまいました……。
 伝承には、さまざまなバリエーションがあり、「朝鮮国王」が「西太后」に、「童子」が「女の使用人」になったりしている。そんなことはどうでもいいのである。「竜の出現」こそが伝承の核心なのだ。
 この話は、帝制に反対した馮国璋が、袁世凱の死後に広めたとされる。馮は「項城(袁世凱)ははじめは皇帝になるなんて考えはなかった。ところが、彼こそが竜の転生であると童子が証明してしまったため、福運があると信じた」と語っていたという。
 馮国璋の言葉は示唆に富む。歴史を見るにあたって、天や神や物の怪といった存在は、無視できない。それどころか、時に、当時の人物の心理や行動における決定的な要因となる。袁世凱だけでなく、袁の死後に勃興した張作霖や呉佩孚といった覇王たちも、占いやお告げに頼り、神に額ずいていた。こうした行動を、唯物史観的な、あるいは純粋に科学的な立場から「迷信」と断じてしまうと、歴史の真実は見えなくなる。超常現象を侮ってはならない。
 中国で最も多く竜が群れる場は、皇帝の居城たる紫禁城故宮)である。袁世凱は、洪憲皇帝即位の大典をここでやろうと考えていた。しかし、雲南から起こった反乱の火を消すことができぬまま、それは夢で終わった。
 袁世凱が天に召された時、寝台の下から大きな蝦蟇(がま)が飛び出し、どこかに消えたという話がある。そこには、竜はもちろん、赤蛇さえいない。(2013年1月1日)
 
※参考資料:洪憲帝制、武夫当国壱、荒誕史景、袁氏当国、皖軍

※写真は、故宮の九龍壁です

徐樹錚の情景

f:id:kaitaronouta:20180302234600j:plain

f:id:kaitaronouta:20180302234628j:plain

 きょうは徐樹錚(じょじゅそう)の命日だ。
 段祺瑞の側にあって軍閥の時代を動かした希代の軍師は、1925年12月30日午前1時半ごろ、当時北京を支配していた馮玉祥の命によって、北京郊外・廊坊の駅に停車した特別列車から降ろされ、駅近くで射殺された。
 月が昼のように輝いていた夜だったという。「非常に寒い夜だった」という史書の記述から、外気は零下10度を下回っていただろう。列車に乗り込んできた馮玉祥の部下10数人に下車を迫られた徐樹錚は、オーバーを着て、ベルトを締め、帽子をかぶった。その際、力づくでも連行しようとする兵士たちに対し、「この徐という男はな、生死にこだわったことなどない。囲まんでもいい」とたんかを切って、ゆっくりと外に出た。伝えられる徐樹錚の最後の言葉だ。
 一冊の史書が、その遺体が発見された時の情景について、こう記している。
 「オーバーも服も剥ぎ取られ、血に汚れた白い下着だけを着けていた」
 簡単に真偽を検証できることではない。ただ、中国社会を少しでも知る者には、非常にリアルな記述だろう。昔も今も恐るべき格差・階級社会である中国では、生き抜いていくために、廃棄物をバクテリアのように分解し、持ち去っていく貧しい人々の群れがいる。地表にうち捨てられて凍った大官の白い骸があり、どこかに、銃痕のある上等なオーバーにくるまる人がいる。小さくも、すさまじい、時代の情景である。
 そういえば、20世紀最初の年、山東・済南で徐樹錚が段祺瑞と出会ったのも、冬の寒い一日だった。そこから先の、氷原のようにスケールの大きい徐樹錚の策謀については繰り返さない。段祺瑞だけを見て、他のあらゆる強者を敵に回して臆することはなかった。その徐樹錚が最期を迎える場所は、冷え切った直隷の土以外になかったのではないか、という気さえしてくる。
 射殺される直前の日中、早く北京を逃れよという段祺瑞の必死の勧めも聞かず、徐樹錚は、別れを惜しむように、北京で精力的に活動をしている。その訪問先の一つに、自分が運営する中学校もあった。歓迎会に出席していたのだ。
 当時、教育予算の優先順位は限りなく低かった。権力、武力とは無縁の教員に対する給料遅配は当たり前だった。徐樹錚殺害を命じた馮玉祥は、学校教育などとは縁のないような、まだ辮髪をぶら下げた田舎の若者を好んで兵に採用している。
 そんな時代に、あの徐樹錚が学校を運営していたということは、記憶のどこかにとどめておいてもいい。生徒たちに迎えられた徐樹錚を想像すると、その笑顔が見えるような気がする。(2012年12月30日)

 ※参考資料:北洋政府簡史、百年家族段祺瑞、北洋軍師天梟徐樹錚、荒誕史景、武夫当国伍

 ※写真は、上が廊坊駅。下は、徐樹錚が中心となった政治勢力・安福倶楽部が拠点にしていた東安福胡同。すでに取り壊され、今は存在しません。

はじめに

 最近、白水社から「覇王と革命」という本を出した。1915年から1928年までの中国、軍閥混戦と呼ばれる時代の歴史を書いた。これまで、「悪者」の一言で片付けられ、十把ひとからげに「軍閥」と呼ばれてきた人々が主役となった20世紀初頭の十数年は、実に、群雄の時代であった。
 
 知人らに直接手渡すと、だいたい同じ表情が返ってくる。「うっ、厚っ!」と、目は口ほどにものを言う。
 ああ、と天を仰ぎたくなる。自分にしてみれば、この458頁は、あの矢吹丈がいたバンタム級のボクサー並みに絞り込んだ結果だと思っている。この本を書くにあたって、9年の間に史書、史料、報道などから書き込んだメモの類いは、本の分量をはるかに超える。5倍ではとてもきかない。涙をのんで割愛した場面、エピソード、解説などが、うずたかく積まれている。そんなぜい肉、もとい、こぼれ落ちた物語も、本に盛り込んだ逸話と同じように輝いているのだ。自室の棚に置かれたファイルから、「もし」と呼びかけてくる声が聞こえる気もする。
 これから、こうした断片を巡る小さなお話を、勝手な感想やら歴史的現場の空気やらをまじえながら、少しずつ書きつらねてみたい。時に、「革命」の結果である現代中国にも触れることになるだろう。

 どなたに読んでいただけるか分からないが、最初に一つ、おことわりしておきたい。ここにしるす小さな話の数々は、「史実」とは断言できない。
 
 「覇王と革命」は、エピソードの場面、会話を含め、事実関係のほとんどすべてを史書、史料、報道等の資料に依拠している(「……と笑った」というような人物の表情や心情等については、前後の文脈から解釈・想像を交えて臨場感を出した)。より真実に近いと思われる本線、時代相を正確に映しだすようなエピソード、ジグソーパズルのような複雑な歴史の流れをつなぐ重要なピースをチマナコになって探してきた。生の時代を描くために、後世に分厚く塗られた革命史観的プロパガンダは、無条件でそぎ落とした。
 ただ、「覇王と革命」を、史実だけに基づく厳密な意味での「ノンフィクション」と呼ぶ勇気はない。全体を構成する一つひとつの断片が、厳しい考証・検証を経たものとは言い切れないのだ(そもそも、あまたの事象が、頭を抱えたくなるほど諸説紛々である)。同書「あとがき」には、「発掘された化石から恐竜の姿を復元する作業に近い」と書いた。
 結果として、「覇王と革命」は、群雄たちの物語となった。それはそれでいい、と思っている。中国の史書に接したことのある人なら、誰でも分かるだろう。史記の時代から、中国史とは物語だった。
 
 この場でも、同じようにやりたい。100年ほど前の大陸をぶらぶら歩くくらいのつもりでいる。

(2012年12月30日 杉山祐之)