覇王ときどき革命

中国・清末民初のお話など

海の逃亡者

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 1894年9月17日、日清両国の主力艦隊が黄海で遭遇、火炎と黒煙がたちまち午後の海を覆った。
 丁汝昌率いる北洋艦隊の主力戦艦・定遠鎮遠は、豪雨のごとき砲撃に耐えて反撃した。砲弾を撃ち尽くした巡洋艦・致遠は、日本の巡洋艦・吉野めがけて体当たりを試みたが、魚雷を受けて轟沈した。生存者はわずか7人。致遠の突進は、「中国海軍史上、最も悲壮な一幕」として語り継がれている。
 清軍は奮戦した。だが、海戦は、日本側の圧勝に終わった。司馬遼太郎の『坂の上の雲』に、こんな一節がある。
 「戦闘四時間半で、清国艦隊は十二隻のうち四隻が撃沈された。経遠、致遠、揚威、超勇であった。さらに広甲が擱座した。が、日本側は一艦も沈んでいない」
 最後に記された「広甲」。この艦に虫眼鏡をあててみたい。
 広甲は、全長約67メートル、排水量1290トン、15センチ主砲3門を備えた巡洋艦である。黄海海戦では、指揮艦・済遠と戦隊を組み、最左翼に位置した。ところが、海面泡立つ激戦のさなか、済遠が戦場から遁走を始めてしまった。これを見た広甲も、炎と煙の海を離脱する。その後、おびえるように大連湾の沿岸部を航行中、擱座したのだった。
 海戦から6日後の9月23日、広甲は日本艦隊に発見された。艦長以下、高級幹部は、ボートでいち早く脱出した。置き去りにされた者たちは、日本軍と戦うか、降伏するか、泳いで陸地まで逃げるしかない。
 艦上には、間もなく満30歳になろうかという士官が残されていた。彼は、船乗りなのに、泳げない。なんと、私物の救命衣を身につけていた。ちょうど1年前の9月、広甲が遠洋航海に出た際、用心深い彼は、護身衣を広州で買い求めていたのである。
 その広州でのこと、艦内に病人が出て、幹部と同郷人という医者が呼ばれたのを、彼は覚えている。名を「孫逸仙」といった。初めて見る孫という男は、医者のくせに、艦上のあちこちで民族の危機を訴えていた。
 それはともかく、今は、日本艦が迫ってくる。士官はおそらく救命衣に手を当て、逃げることを選び、他の12人とともに海に飛び込んだ。
 浮いた。広州で買った品物は、実に、陸地に漂着するまでの3時間余の間、泳げぬ彼の顔の位置を水面上に保ってくれたのである。後年、彼の息子はこう話している。
 「他の12人のうち8人は、溺れたり、敵に撃たれたりしました……」
 九死に一生を得た彼は、海軍基地のある旅順へと歩き始めた。
 だが、済遠、広甲の両艦乗員は逃亡者の烙印を捺されていた。済遠艦長は敵前逃亡の罪で処刑され、広甲艦長も解任された。命拾いした士官も、数か月間、監禁され、海軍から追い出された。水に落ちた猫のごとく哀れな姿となった彼は、とりあえず陸で仕官先を探すしかなかった。
 その時、誰が想像しえただろう。日本に敗れた清朝の没落と反比例するかのように、彼が、孫逸仙、つまり孫文をいただく革命軍の司令官となり、中華民国副総統となり、大総統になることを。運命の曲線とは、かくも面白い。
 「覇王と革命」では、彼のことを「民国史上、最も強い運の持ち主かもしれない」と書いた。
 彼の名は、「黎元洪」という。 (2013年4月21日)

※参考資料:坂の上の雲、黎元洪伝、百年家族黎元洪、北洋海軍艦船志、孫中山年譜長編、新浪網(艦船知識網絡版)

※写真は、威海・劉公島の博物館に展示された広甲の模型

※この文章を書いた後で、済遠の離脱は逃亡ではないという有力な説に接しました。現時点では、主流の解釈に従う形で、オリジナルの文章のまま掲載しておきます。いずれ修正しようかとも考えています。