覇王ときどき革命

中国・清末民初のお話など

歴史との距離感

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 毛沢東と、その死後に共産党の実権を握った鄧小平は、中華人民共和国史における突出した巨頭である。しかし、袁世凱、段祺瑞、呉佩孚、張作霖蒋介石といった大軍閥たちが覇を争っていたころ、毛や鄧は、恐竜時代を生きる哺乳類のごとき存在だった。
 蒋介石が中国を再統一する前、江西の山奥に小なりとはいえ武装根拠地を築いた毛沢東はともかく、クロワッサンに感動したフランス留学生、若手活動家としての経歴しか残していない鄧小平は、無名の共産党員に過ぎない。「覇王と革命」でも、映画で言えば、通行人のエキストラに近い。
  だが、毛沢東、鄧小平ともに、やがてくる「未来」の姿を告げる予言者的存在として、軍閥史を語るための不可欠の存在だった。無数の可能性の中から生まれた未来を、端役の彼らに託した。
  二人には、もう一つ、大事な役割を担ってもらった。
  自分と同時代を生きた彼らは、現代と「軍閥の時代」との距離感を計る物差しだった。特に、1978年に鄧小平の改革・開放が始まって間もなく、大学で中国語を学び始め、かけだしの北京特派員として鄧の動静を追った自分にとって、鄧は中国近現代史の時間的距離感を計る物差しとなる。革命から改革・開放まで、中国現代史そのものを体現する存在と言っていい「鄧小平」の年齢を年表のわきに置くと、「鄧がこれくらいの頃の事件か」などと、時間的距離感が大づかみにイメージできる。
  もっとも、これは、あくまでも個人的な感覚であって、毛沢東の方が距離感をつかみやすいという方もいるだろう。毛沢東も、鄧小平も、物差しにはできない若い世代の方にとっては、今も健在な江沢民氏が分かりやすいかもしれない。毛、鄧に続く「革命第3世代」の指導者を自任する江氏が生まれたのは、1926年8月のことである。
 この月は、南方が北方を呑み込んでいく歴史の潮目となった。奉天軍、呉佩孚軍、直魯連合軍など北方の大軍が、馮玉祥軍に大包囲攻撃をかけ、北京郊外の万里の長城付近の要衝・南口を落とした。ところが、その隙を突いて南の北伐軍が快進撃、湖北防衛のために急きょ南下し、賀勝橋に布陣した呉佩孚軍主力も打ち砕いた。江沢民氏が生まれたころの出来事と考えれば、毒蛇が地をはったあの激戦も、手の届く過去の出来事のように思えてくる。
  個人的には、鄧小平以外にも、軍閥史との距離感を与えてくれた人がいる。昭和3年、すなわち1928年の12月に生まれた亡父だ。彼が誕生した26日後、奉天の張学良は、青天白日満地紅旗を掲げて蒋介石の国民政府に合流し、軍閥の時代は終わりを告げた。 (2013年1月20日)