覇王ときどき革命

中国・清末民初のお話など

白い戦場

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 泥の濁りがまじった雪原の道路わきから、同じように薄汚れた白い子犬が、じっとこちらを見ていた。二つの目は、黒真珠のごとく濡れて動かない。
 厳寒の季節、遼寧省新民市の郊外、巨流河という村を訪れた。付近を流れる遼河は、かつて、村と同じ雄大な名前で呼ばれていた。
 1925年のクリスマス前、この一帯の雪原で、奉天の最精鋭部隊を率いて張作霖に反旗を翻した郭松齢の軍と、張がかき集めた奉天本軍の計十万以上が凍った大河をはさんで激突した。
 「覇王と革命」では、軍閥混戦期の幾多の戦いを書いた。その中で、郭松齢の乱ほど、滅びゆく者の運命を正確に指し示しているものはない、と思う。
 なにしろ、そこに勝者がいない。
 戦闘自体は、張作霖軍が郭松齢軍を圧倒し、郭は妻とともに銃殺された。だが、中国最強だった奉天軍閥は、この骨肉の争いによって、一夜で白髪に変わった闘士のごとく衰えた。北方の覇王の時代も、大きく傾いた。
          *     *
 寒さで顔がこわばる。ダウンコートの襟をぴっちり絞め、フードを頭からすっぽりかぶった。「巨流河の決戦」は、この寒さの中で進行した。
 「後方」を持たない孤独な大軍は、連戦連勝で奉天に一歩一歩迫っていた。だが、日一日と兵士たちは飢え、その手足は凍傷で黒く変色しつつある。
 中国新聞網が掲載した「時代商報」の記事は、当時の民の怨嗟の声を紹介している。
 「郭鬼子(グイズ)は餓鬼の群れを引き連れ、私たちの一年分の食糧と柴を食い尽くし、燃やし尽くしてしまいました」
 同じ記事には、こんな記述もある。
 「十二月二日から三日にかけて大雪が降り、気温は零下二十度まで下がった。郭軍の兵士はまだ、夏物の服を着ており、多くが凍傷にやられた」
 「戦後の統計では、(郭軍の)凍傷患者は7000人以上に達していた」
 酷寒によろめく軍を率いる郭松齢は、参謀・鄒作華(すうさくか)の進言をいれ、決戦前に三日間、兵を休ませた。
 奉天防衛線構築を急ぐ張作霖は、何より貴重な時間を手に入れた。
 鄒作華は、張作霖に内通していた。だが、それは裏切りなのか。本来の主君に対する忠誠ではないのか。鄒作華によって助かった命はどれだけあるか。
 白い戦場では、無数の裏切りと忠誠、そして生命が、吹雪のように飛び交い、交差していた。
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 決戦の結末は、あっけなかった。
 張作霖の騎兵師団が、白旗堡という京奉鉄道沿いの鎮(町)にあった郭松齢軍の貨車、物資集積場を襲撃し、郭軍の生命線である食糧弾薬を焼いた。その黒煙の中で、大軍の心臓は停止した。
 白旗堡という鎮は、今はない。中国を飢餓地獄に突き落とした毛沢東極左運動「大躍進」が始まった1958年、「紅旗公社」という名の人民公社になった。その後、「大紅旗公社」、「大紅旗鎮」と改められ、今に至る。
 「白旗」が「紅旗」に変わっても、雪は降る。通りから少し歩くと、また雪原に出た。
 雪はすべてを隠し、雪原はすべての音を吸い込む。貨物列車が通過すると、少しの間だけ、雪原はにぎわう。
 十万の兵士たちの吶喊も、銃砲声も、命も、すべて1925年暮れの雪に吸収されたまま、どこかに消えた。寒さだけが、昔と変わらない。 (2013年6月30日)

※参考資料:中国新聞網(時代商報より)、武夫当国、北洋政府簡史、東北王張作霖画伝、新民市大紅旗鎮人民政府網

※写真は、上下とも遼寧省巨流河村で