覇王ときどき革命

中国・清末民初のお話など

飛べない悟空

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 古い肖像写真の穏やかな顔は、グレーの色調の中で深い憂いをたたえているように見える。「中国革命の父」と称される孫文だ。その一般的なイメージは、「革命いまだ成功せず」(中国語原文は、「革命尚未成功」)という遺言に見果てぬ夢を託した、高潔、慈愛の革命家といったところだろう。
 ちょっと待てよ、と思う。革命家など、同時代人にとっては、おおむね、危険かつ迷惑千万な存在である。理想に燃えて武装蜂起を企てる孫文のような人には、できれば、アパートの隣室には越してきてほしくない。
 「覇王と革命」では、後の世の造形ではなく、可能な限り、生身の人間を描こうとした。その結果出てきた軍閥期の孫文は、肖像の印象とはまるで違う。広州をはじめ拠点とした南方から、北伐による北京政権の打倒を目指し、とにかく、よく動く。超能力がない孫悟空のように、あくせく動き回る。
 当初、孫文の貧弱な武力は、広東、広西、雲南などの南方諸軍閥には遠く及ばなかった。利用価値がある時には、「大元帥」などと祭り上げられても、いざ勝負の時となると、戦でも、権力闘争でも、負けた。負けては立ち上がり、また負けた。大軍閥の陸栄廷や陳炯明にも「元首」として接し、気にくわないと、げんこつで殴りかかるように突進していった。市街地への艦砲射撃さえいとわなかった。
 状況に応じて、北方の奉天系、安徽系とも同盟を結んだ。東北王・張作霖には金を無心し、戦略協議のために訪れた安徽系軍師・徐樹錚には、「参謀長として残らないか」と誘っている。
 まだある。自らの看板である三民主義を実質的に社会主義化し、ソ連の援助と介入、共産党員の国民党入党を受け入れた。21世紀まで続く共産中国への一歩となる歴史的な決断だったが、当時の孫文は、もう片方の手で、反共を公言する張作霖の袖をつかんだままである。
 言うまでもないことだが、その時、孫文は建国の元勲である。辛亥革命の途上にあった12年1月1日、革命勢力の手によって、中華民国臨時大総統に選ばれている。李宗仁の表現を借りれば、孫はこの一件だけでも、「赫赫(かくかく)たる功」を立てていた人物だったのだ。
 だが、孫文は、元勲として額縁に収まる人生は選ばなかった。実権のない慈父として、世の尊敬を集めるだけの存在にもならなかった。大ぼらを吹き、わめきちらし、手段と友人を選ばず、人を泣かせ、人に笑われ、軍閥の世に立ち向かっていった。その姿には、悟空どころか、同時代の作家・魯迅が書いた「阿Q」の影を感じることさえある。「失敗は数え切れない」と述懐した孫文は、最後まで負け続け、25年3月、生命の終了と同時に負けも終わった。
 なんという大うつけだろう。
 なんという強靱な精神だろう。
 革命家は幾万もいた。天は、その中から、この「うつけ者」を舞台の主役に選んだのである。天の意思も、時には分かるような気がする。
 以下、余談である。
 晩年にソ連に傾斜した孫文のもとから巣立った後継者たちが、「民国」成立からほぼ一世紀をかけて築き上げたのは、恐ろしく巨大な専制国家だった。中国の民に、なお安寧はない。皮肉なことに、この現実は、「革命いまだ成功せず」に新たな生命を吹き込み続けている。「大うつけ」の血は、大陸のどこかに、今も脈々と受け継がれていることだろう。  (2013年4月7日)

※参考資料:学習時報、李宗仁回憶録、大国的迷失、阿Q正伝

※写真は、上が北京・中山公園の孫文像、下が上海の孫文旧居です。

下から迫る者

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 1913年に国民党軍を一蹴した大総統・袁世凱は、北洋軍内部の一人の軍人を凝視していた。
 陸軍総長(陸相)の段祺瑞である。段は、軍の人事権を一手に握っていた。北洋軍高級将官の多くは、かつて軍人教育を担った段の教え子だった。
 独裁者は常に、猜疑心の霧に覆われている。袁世凱の目には、己を脅かす「北洋の虎」が下から迫ってきているかのように映っただろう。
 翌1914年5月、袁世凱は、「陸海軍大元帥統率弁事処」なる組織を設立した。陸・海軍、参謀部を統合した上部組織であり、段祺瑞は、「北洋の龍」・王士珍や、袁が雲南から呼び寄せた蔡鍔ら5人と同格のメンバーとなった。重要人事は、ここでの合議を経て、陸海軍大元帥たる大総統が決定する仕組みだ。袁は、組織改編という巧妙な寝技によって段の人事権を剥奪した。
 同年10月、袁世凱は、将校養成を目的とした教導部隊の模範連隊を新設、隊長ポストを長男・克定に与えようとした。袁にしては極めて異例という太子党(高級幹部子女)人事は、北洋軍を「段家軍」から「袁家軍」に変える意思表示であった。袁王朝の準備という明確な目的意識もあったかもしれない。
 段祺瑞は、その帝制にも、強烈に反対していた。帝制話を切り出した袁側近に「馬鹿も休み休み言え」と言い放った、と記す史書もある。
 袁世凱は、摩擦をなるべく小さくしようと思ったのだろう。模範連隊長人事の件で、段祺瑞に声をかけている。
 「芝泉(段祺瑞の字)、模範連隊だがな、克定にやらせようじゃないか」
 この問いには恐らく、忠誠心をもう一度測る追試の意味もあった。しかし、段は頓着しない。
 「だめです。彼は軍事のことは何も分かっておりません」
 袁世凱は、ここで段祺瑞を見限ったと思う。続く袁の言葉からは、あきらめがうかがえる。
 「では、段総長。私が隊長ではだめか」
 段祺瑞に意見のあろうはずもなく、模範連隊長には袁世凱自身が就いた。
 1915年5月、段祺瑞失脚。このあたりの経緯は「覇王と革命」で書いた。
 北京・西山での段祺瑞の緩い失脚生活からは、袁世凱らしい「恩」がうかがえる。清朝での宮廷闘争でも革命でも、袁の「恩」によって引き上げられた段は、最高の働きをした。「恩」は、武人たちをまとめあげた袁の力の源泉であった。同時に、それゆえの「甘さ」は、袁の力の限界線を引いた。
 失脚したナンバー2が帝制に公然と反対し続けているという状況が、蔡鍔や陸栄廷の反乱、段と並ぶ北洋の双璧だった馮国璋の離反につながり、皇帝・袁世凱をひきずり倒したといっても過言ではない。
 その点、数千万人の国民を餓死に追い込んだ毛沢東は違う。毛の極左路線を修正しようとした国家主席劉少奇は、奪権を図る毛が発動した文化大革命(1966~76)で迫害された末、69年死亡した。一時は毛後継者の地位を確立したかに見えた林彪(りんぴょう)は、文革中の71年、危険な猜疑の目を向けた毛の暗殺を謀って失敗、ソ連に逃れようとしてモンゴルで墜死した。
 北洋の大覇王・袁世凱は、下から迫り来る者に情けをかけ、それが命とりになった。唯物論を掲げる赤い大覇王・毛沢東は、仮借なく、挑戦者を奈落の血の池に突き落とし、一人、現人神(あらひとがみ)の領域へと足を踏み入れていった。
 毛沢東文革を発動したのは、袁世凱の死からちょうど半世紀後のことだ。この間、中国の覇王は、冷たい進化を遂げていた。 (2013年3月31日)

※参考文献:北洋述聞、袁世凱評伝、百年家族段祺瑞、洪憲帝制、我所知道的北洋三傑

※写真は、上が天津の段祺瑞旧宅。下が馬廠駅から旧砲台跡へまっすぐに伸びる道です。馬廠は、復辟戦争で段が挙兵した場所です。

DF李純

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 静かな敗者がいる。
 名を「李純」という。直隷系の首領・馮国璋の腹心で、代理大総統に就任する馮が南京を離れる際、江蘇軍政長官を引き継いだ。
 1917~18年の湖南戦争では、南進して全国を統一しようとする段祺瑞の安徽軍を阻止しようとした。広東・広西を束ねる南軍の首領・陸栄廷は、馮国璋の事実上の同盟者であり、李純は、南を守ることで馮を守ろうとした。
 当時、江蘇、江西、湖北の長江ラインに陣取る直隷系3軍政長官は、「長江三督(督軍=軍政長官の意)」と呼ばれ、サッカーでいえば、3バックのごときディフェンスラインを形成、李純ディフェンダー(DF)の要であった。
 「戦争をやめよ」「和平を実現せよ」
 硝煙渦巻く中で、李純は、何度も声明を出す。長江の南京対岸・浦口を馮玉祥軍に占拠させ、安徽軍の兵站を支える鉄道線をストップさせる奇策にも出た。
 「李純李純! この裏切り者め」
 激高した安徽系主戦派の集団が叫ぶ。彼らは大総統・馮国璋ではなく、その部下である李純を責め続けた。
 やがて、同じ直隷系だった曹錕は安徽系に接近、南軍も馮国璋の意に反して北上攻撃を敢行、奉天張作霖も安徽系と結んだ。孤立した馮国璋は18年、大総統を辞任し、翌年死去する。結局、李純は、己の首領を守り切れなかった。
 馮国璋が消えた時点で、もはや李純の居場所はない。安徽系、奉天系、そして自分ではない直隷系による三つどもえの争いを傍観するしかなかった。1920年7月、曹錕・呉佩孚が段祺瑞の安徽軍を撃破、天下に片手をかけた。南京の李純には、「長江巡閲使」という有名無実のポストが与えられた。かつて馮国璋の後継者と言われた李純の足は、ここで完全にとまった。
 中国のニュースサイトによると、李純と親しかった祖父を持つという人物が、李純についてこう話している。
 「特に称賛されるようなことはしていない。だが、人々を特に傷つけるような悪事も働いていない」
 なんと悲しいジャッジだろう。
 「あなたは普通の人だった」と言われたに等しい。英雄も悪党も躍動した軍閥の時代の大軍人にとって、おそらく、これほど残酷な採点はない。
 長江巡閲使になってひと月もたたない20年10月12日午前4時45分、南京督軍署の李純の自室で銃声が響いた。駆け上がった夫人が叫びを上げた。蒼白な顔をした李純の左胸を銃弾が貫通し、そばにピストルがあった。
 李純は精神に変調を来していたと言われる。夫人の情事絡みの他殺説もあるが、直筆の遺書5通が残され、そこには「病魔の苦しさは言葉にできない」とあった。どこまでも弱い一人の人間が、ここにいる。平凡なディフェンダーは、自らピッチを去ったのだと思う。
 その李純に似合うのは、派手なフォワードや華麗なミッドフィルダーに対するような満場の喝采ではない。健闘空しく倒れた凡人への静かな共感を伴った背中からのまばらな拍手だろう。 (2013年3月24日)

※参考資料:武夫当国、総統府史話、細説北洋馮国璋、直軍、百年家族段祺瑞、天津網

※写真は、長江北岸・浦口の南京北駅です。往時、馮玉祥はここを封鎖しました。

妄想のレッドクリフ

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 細い雨の中である。短い坂道を傘をさして登り、その小さな丘から四周を見回すと、緑の木立と古い住宅が交じりあう街の光景があった。
 ほんとにここか?
 そう思えてくる。だが、記念公園の正門の錠を開けてもらって入ったのだから間違いない。目の前には、国民革命軍(北伐軍)第4軍将兵の慰霊碑が立っている。村の集会所くらいの規模だが、戦闘経過の記録を残す記念館もある。
 湖北省の汀泗橋(ていしきょう)。1926年、南から押し迫ってくる北伐軍と、武漢を守るためにここに布陣した呉佩孚軍が激闘を繰り広げた土地だ。
 多くの史書に書いてあった。三方が水に囲まれ、正面に高地がそびえる、と。地図を見ると、三国志で有名な赤壁に近い。事前に思い描いていた汀泗橋は、水上要塞のごとくであった。かつてベトナムで見たハンバーガーヒル(ベトナム戦争中、米兵の生命をすりつぶした難攻不落の丘)と同じように、巨大な容積を持つ高地が、血で膨れた蛭のごとく脳裏に横たわっていた。
 ところが、着いたら、これだ。雨に煙るいなか町だ。「要塞」を浮かべていたはずの水面もない。近くに小川はある。
 「ああ、治水やったからね、昔のような水はないよ」
 公園の門を開いた管理人さんが、にっこり笑って教えてくれた。
 中国の史書に潜むくせ者は、プロパガンダだけではない。「白髪三千丈」という妖怪もどきの超古豪もいる。「百聞は一見にしかず」は、この強敵に対処するための呪文である。もっとも、今回の場合、記述が三千丈というわけではなく、白髪が増えた自分の頭の中にある妄想が、三千丈に育っていた。愚かだった。
 まあ、救いもある。「覇王と革命」で、映画「レッドクリフ赤壁)」のごとき情景の汀泗橋を描かなかったのは、幸いだった。
 軍閥史を書くにあたって、できるだけ現場を見たい、と思っていた。より正確な記述をするためである。歴史の空気を実感できることも多い。
 天津と奉天の間に位置し、濼河(らんが)が流れる直隷・灤州(現河北省灤県)は、軍閥の時代、何度も大事件の舞台となった。1924年の第二次直隷・奉天戦争では、奉天軍がここを奪って勝敗が決した。一年後、奉天軍の最精鋭を率いる郭松齢が、張作霖に反旗を翻し、挙兵したのもここだ。
 灤河のほとりに立った。現役の大鉄橋のわきに、橋部分を失った昔の鉄橋がある。その写真を撮っていたら、3人の武装警察官が近寄ってきて、デジカメの画像を見せてほしいと言う。それを確認した警官の一人が、無線でどこかに連絡した。「撮っているのは、昔の橋の方です……はい……はい」といった会話が終わると、彼らはそのまま立ち去っていった。
 きっとどこからか監視されていたのだろう。現役の橋の構造などを入念に撮っていたら、政権が警戒する破壊活動に関する疑いを抱かれ、撮影目的を聞かれたかもしれない。
 なるほど。灤州は、昔も今も要衝なのだ。それが分かった。 (2013年3月17日)

 

※参考資料:呉佩孚伝、北洋政府簡史、蒋介石大伝など

※写真は、上が、北伐を記念する湖北・汀泗橋の記念公園。下がその近くの街です。まだ水路はあります。

山犬の正義

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 1930年代以降、日本軍と戦い、蒋介石と対立し、共産党と協力した馮玉祥(ひょう・ぎょくしょう)は、中国では、「愛国将軍」と評価されている。だが、軍閥混戦期の言動が作り出す馮のイメージは、それとは違う。奉天・直魯連合軍の勇将・李景林の言葉が実像に近いように思う。
 「馮の心には化け物が棲み、山犬か狼のごとく残忍である」
 裏切り、寝返りは、馮玉祥の代名詞である。呉佩孚や郭松齢らは、それによって地獄を見た。馮はまた、邪魔者や恨みのある者をためらいなく殺した。
 それだけではない。馮玉祥は、自らを人格者と宣伝して恥じなかった。「覇王と革命」では、陝西を離れる際の演説で、「弊履を捨てるように陝西長官の地位を捨てる」と言いたくて、ぼろ靴を脱ぎ捨てた話、「君子の交わりは淡きこと水のごとし」との寓意を込めて、呉佩孚の誕生祝いに水を贈った話などを紹介した。ほかにも、こんな逸話がある。
 1925年、段祺瑞の義弟である呉光新が、張家口にいた馮玉祥を訪ねると、夜、街に一つある映画館に誘われた。上映された作品のタイトルは、「馮玉祥の家庭生活」。スクリーンには、質素な暮らしが延々と映しだされる。段政権を支える国民軍司令官の機嫌をとりたい呉光新は、我慢した。だが、茅の小屋で読書していた馮のもとに子供が「お父さん、ごはんですよ」と呼びに来たシーンで、ついに立ち上がって言った。「こんなつまらんものはない」
 分かる、分かるよ、呉光新。つらかったね、と声をかけたくなる。
 誰かに「嫌いなの、馮玉祥?」と問われれば、正直にうなずくしかない。
 ただ、彼らは、彼らが生きた世界の価値観と掟によって生きている。
 このころ、兵たちは食うために軍に入った。軍に入れば、無事を願った。そうした兵たちは、「強い」馮玉祥のもとに集まったのである。1926年、国民軍は、馮不在の南口の戦いで叩きのめされ、兵力4000にまで激減した。ところが、馮が復帰すると、国民軍は再び数十万の大軍に膨れあがる。
 この時代、兵にとっても、将にとっても、勝利こそが正義だった。少なくとも、勝てば正義の側に回れた。
 どんなに手を汚しても、勝利という正義にひたすら忠実だった馮玉祥は、まさに「時代の子」だったのではないか。直隷の貧民街に生まれ、恨みとともに育ち、若くして革命にも手を染めた巨漢の軍人は、裏切り続け、殺し続け、勝つ側に回り続け、大軍閥へと成長した。馮が動けば、大軍が動き、大局が動いた。小粒で中途半端な他の裏切り者たちとは、スケールが違う。
 千変万化の軍閥史は、「山犬」とまで蔑まれた馮玉祥の動きによるところが大きい。中国の未来は、そのたびに翻弄された。だが、その揺れを作り出す馮自身は、まったくぶれていない。(2013年3月10日)
 
※参考資料:我所知道的馮玉祥、我所知道的呉佩孚、武夫当権、大国的迷失、武夫当国、北洋政府簡史、人民網

※写真は、北京南苑の東屋。第二次直隷・奉天戦争の前、馮玉祥と孫岳はこの場で裏切りの密談を行ったとも伝えられています。

歴史に残る1票

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  日本が関東大震災に襲われた1923年9月、北京では、直隷系軍閥の総帥・曹錕(そうこん)と、国会議員たちが、大総統ポストを巡って熱い駆け引きを続けていた。曹側は議員に金を配り、見返りに議員は曹を大総統に選ぶ。その条件のすり合わせである。
 天津の布売りから身を起こした曹錕の好物は、カネと女と肉である。それを隠すでもなく、「みんな、好きだろ?」と笑えるような天真の魅力が、この善人にはある。風呂敷包みでも持たせるかのように、すべての軍権を部下の呉佩孚に委ね、天を切り裂くかのごとき呉の戦闘力に乗って軍閥の時代を勝ち上がってきた。ただ、呉と離れた時の曹は、まるで凡庸だ。還暦を過ぎていた曹は、早く大総統になりたいと願い、正直に、カネに頼った。
 史書の曹錕評が面白い。
  「曹錕はケチで知られていた。家の財産は豊かだったが、こうしたカネは、別の人に払わせた」
 中国の史書では、「覇王と革命」で取り上げた多くの軍人は概ね「人民の敵」といった描き方をされている。だが、曹錕へのこの批判は、しみったれていて、人間臭い。実際、賄賂の金は直隷省長の王承斌らに作らせたとされる。
 曹錕は、もうしくじれないと思っていただろう。5年前の副総統選挙で議員1人に2000元を用意したが、「曹錕が芸者を10万元で身請けした」との情報が流れ、「妾一人で議員50人分」という失笑とともに、選挙も流れた。
 大総統選の協議では、最終的に、曹錕側が議員側に対して投票前に小切手を渡し、選挙後に議員たちが換金することで、約束の履行を互いに担保することにした。小切手の額面は、基本的に一人五千元だった。
 10月5日、衆院議員441人、参院議員152人の計593人が登院し、午後2時から4時まで大総統選の投票が行われた。
 投票総数590票のうち、曹錕は480票を獲得して文句なく当選した。第2位は33票を得た孫文、第3位は20票の雲南・唐継尭だった。この時の国会は、一時解散されていた旧国会を復活させたもので、国民党、南方系勢力のシンパが比較的多い。段祺瑞は7票、呉佩孚が5票、陳炯明、陸栄廷が各2票、張作霖も1票取っている。
 無効票の中に、議事記録にも、記憶にも残った出色の1票がある。総統名記入欄には、「五千元」とあった。諧謔一発、議場は笑いに包まれただろう。
 この大総統選挙は、「曹錕賄選(賄賂選挙)」と称されている。とんでもない選挙ではある。しかし、その印象は、意外に明るい。 (2013年3月3日)
 
 ※参考資料:北洋政府簡史、武夫当国、細説北洋曹錕、大国的迷失、人民網(環球網より)

 ※写真は、民国時代の北京地図(部分)です。地図の下部、宣武門近くに衆議院(众议院)、参議院(参议院)があります。衆議院は現在、国営新華社通信ホールになっています。地図の右側には中南海(中海、南海)があり、総統府(总统府)、国務院(国务院)の字が見えます。

革命のシャワー

 手元に中国の高校歴史教科書(人民教育出版社)がある。かの国の高校生たちは、自国の軍閥の時代をどのように習っているのだろう。
 「覇王と革命」で取り上げた期間は、A4版教科書の3課計8頁にまたがっており、まずは、「第13課 辛亥革命(1911年)」のおしまいあたりで、袁世凱が登場する。
 「辛亥革命勃発後、清朝は、北洋軍閥の親玉である袁世凱内閣総理大臣に任命し、軍政を仕切らせ、危機を乗り切ろうとした。……孫中山孫文)は妥協を迫られ、清帝が退位し、袁世凱が共和に賛成するなら、袁世凱を臨時大総統に推すと表明した。……辛亥革命の勝利の果実は、袁世凱の手中に落ちた」
 「親玉」は、記述通りの表現だ。「ボス」と訳してもいい。要は、教科書を支配する共産党が、悪党の頭という語感を持つ言葉(中国語原文では「頭子」)を袁世凱に与えたということだ。この課は最後で、辛亥革命そのものについて、封建君主専制を終わらせ、帝国主義の侵略勢力に打撃を与えたなどと絶賛している。
  次の第14課のタイトルは、「立ち上がる新民主主義革命」。また革命だ。
  リードの部分で、段祺瑞政権が連合国の一員として第一次大戦に参戦したことに触れた後、本文に入る。小見だしは、「五四風雷」である。
 え? いきなり五四運動(1919年)? どこでもドアでわらわらと現れたような愛国学生たちが街頭に繰り出して、日本の対華二十一か条要求の撤廃やら、曹汝霖ら3人の売国奴の処罰やらを叫んでいる。
 今度は、「売国奴」という極めて主観的かつ侮蔑的なことばが、地の文で堂々と使用されている。共産党政権が「3人は売国奴」と判決を下せば、それはもはや「歴史的事実」なのだ。
 五四運動に続くのは、「中国共産党誕生」。陳独秀、李大釗(りたいしょう)、毛沢東らの顔写真や、1921年に上海で開かれた第一回党全国代表大会の出席者名簿が添えられ、「共産党が出てきてから、中国革命の様相は一新する」と、革命が新段階に入ったことを強調している。
 第14章最後の小見出しは、「国共合作と北伐戦争」。
 「1926年、国民政府は、帝国主義が支持する北洋軍閥の呉佩孚、孫伝芳、張作霖という三勢力を消滅させる北伐を決定した。北伐軍は破竹の勢いで、呉佩孚、孫伝芳の主力をたちまち殲滅した」
 ああ、ここにいたんだ、と思う間もなく、北の覇王たちの記述は、これで尽きた。
 南の雄・蒋介石に対しては、悪意に満ちた表現が並ぶ。
 「国内外の反動勢力の支持の下、蒋介石は1927年4月12日、上海で反革命政変を発動し、共産党員と革命群衆を思うがままに捕らえ、殺した」
 国共合作が崩壊したところで、第15課「国共10年の対峙」に入る。
 最初の小見だし「南昌蜂起」は、人民解放軍の出発点とされている共産党軍の武装蜂起だ。次の「土地革命」では、毛沢東が江西の井岡山に革命根拠地を築いている。
 軍閥の時代に関する記述は、ここで終わる。
 「覇王と革命」どころではない。シャワーのごとく、「正義の革命」「革命の正義」が連呼される。それはもはや歴史とは言えない。プロパガンダ、あるいは洗脳と呼ぶべき性質のものだろう。
 「必修」
 高校生たちが手にする教科書の表紙には、目立つ黒い文字で、そう書かれている。(2013年2月24日)

※参考資料:歴史1(2007年1月第3版、2011年5月第13次印刷)