覇王ときどき革命

中国・清末民初のお話など

高原の鷲

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 華北平原の西端から、大陸は突如天に向かって隆起を始め、巨大な台地群が波のようにうねりながら沙漠へとつながる。地表はパウダーのような黄土に覆われ、その底には石炭層が黒々と広がっている。山西は、そんな黄土高原に位置している。
 1924年秋、山西王・閻錫山(えんしゃくざん)は、省都・太原から、遠く渤海の戦況をにらんでいた。呉佩孚と張作霖という2頭の巨獣が、山海関で覇権をかけて激突していたのだ。第二次直隷・奉天戦争である。
 勝つ方につく、と決めている閻錫山は、単純明快な勝敗判定基準を部下に告げた。
 「敵の背後に回った方が、勝つ」
 呉佩孚側で馮玉祥が寝返り、勝敗の天秤は一気に傾いた。だが、閻錫山は動じない。将領たちに定例会議で告げた。
 「山西は一貫して『保境安民』を守ってきた。勝敗がどうであれ、敗兵の騒ぎを防ぐため、兵を出して(直隷との境)娘子関の防衛を強化する」
 境界を固く守り、内部の安定・充実を優先する「保境安民」は、辛亥革命(1911年)以来、この地を治める閻錫山の基本路線だった。
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 「これじゃあ、閻錫山のレールとおんなじだ」
 はるか後年、改革・開放の時代になって、中国の知人から、こんな表現を何度か聞いた。閻が山西に敷いた鉄道レールの幅は狭く、他地域との相互乗り入れができなかった。「閻のレール」は、地方保護主義や閉鎖性の代名詞となっているのだ。
 だが、現実の閻錫山は、一人、天空の地に「模範省」を造りあげていた。
 水利事業、植樹、養蚕で、乾いた高原での産業振興基盤を作り、棉花、造林、牧畜も大いに奨励した。鉱業、鉄鋼業、軍需産業にも力を注いだ。辮髪を切らせ、アヘン、纏足を厳禁した。村を核とした地方自治、学校教育の普及に努め、小学校で学ぶ児童の割合は全国最高レベルだった。孤児院も運営した。
 古い、分かりやすい言葉でいえば、閻錫山は、「名君」だった。兵の増強だけに熱中した凡百の軍閥とは次元が違う。
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 閻錫山は、軍閥混戦の世から目をそらしていたわけではない。黄土高原の巣で、羽毛が生えそろうのをひたすら待っていたのだ。その羽の充実を感じた時に勃発したのが、第二次直隷・奉天戦争だった。
 奉天軍が万里の長城を越え、ついに呉佩孚軍の背後に回り込んだ。勝敗は決した。
 閻錫山は、将領たちに向かって、翼を広げるごとく宣言した。
 「兵を出す時が来た」
 「保境安民」を捨てた鷲が、高原から舞い上がった。
 華北平原に出現した山西軍は、直隷・石家荘に進出し、北京と武漢を結ぶ京漢鉄道を切断、長江流域にあった呉佩孚麾下の部隊の北上を阻止した。ほとんど戦わずして勝利に大きく貢献した閻錫山は、勝者の列に連なった。
          *     *
 閻錫山は、飛ぶたびに強くなった。
 「覇王と革命」で触れたように、一瞬の隙を見て、張作霖から蒋介石へと飛び移る見事な外交手腕も見せた。
 第二次直隷・奉天戦争からわずか4年後の1928年、閻錫山は「国民革命軍第三集団軍総司令」という大きな存在となり、蒋介石、馮玉祥、李宗仁という大軍人たちと肩を並べて北京に軍を進めている。 (2013年7月7日)

※参考資料:我所知道的閻錫山、閻錫山伝、山西王閻錫山、中華網、東方網、人民網

※写真は、上が乾いた大地が果てしなく続く黄土高原(陝西省)、下が山西省大同の炭鉱街です