覇王ときどき革命

中国・清末民初のお話など

音読みの森

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 中国に関する文章を書いていて、ひどく悩ましいのは、人名の読み方を示すルビだ。
 「李白」などという名前は、本当にありがたい。ほとんどの日本人が、迷わず「りはく」と読む。
 では、「光緒帝」はどうか。「こうしょてい」とも、「こうちょてい」とも読める。「こうしょてい」と読む自分は、「こうちょてい」に、引っかかりを感じる。逆の人もいるだろう。事典には、どちらの読み方もある。
 「徐世昌」という大物は、おおむね「じょせいしょう」と読まれているように思う。盟友の「袁世凱」も、「えんせいがい」で、「世」は「せい」と読む。では、「じょせしょう」が間違いなのかといえば、分からない。清末の軍人、「鄧世昌」も、「とうせいしょう」と読まなくてはならないのだろうか。
 この問題で、避けて通れない人名がある。
 「馮玉祥」だ。
 これは「ふうぎょくしょう」が優勢だろう。ただ、困ったことに、日本では、知名度が比較的高い「玉祥」に限って、「ふう」が目立つような気がする。
 手もとの漢和辞典を開くと、「馮」の字には、「ひょう」「ほう」「ふん」などの音読みが並び、「ふう」は慣用読みとある。
 「馮さん」は多い。現代は、多くの場合、一般的な音読みとして、ごく自然に「ひょう」と読まれている。馮玉祥と同じ時代を生きた軍人では、他に、馮国璋、馮玉栄らがいる。
 皆さん、「ふうさん」ですか、「ひょうさん」ですか?
    *    *
 「どちらも正解です」
 馮姓の著名な日本専門家に尋ねると、あっけらかんとした笑顔とともに、見事な日本語で答えが返ってきた。
 それはそうだろう。現代中国語で名字の「馮」は、「feng(フォン)」という一つの音であるにもかかわらず、日本語の側に読み方が複数あって勝手に迷いが生じているのだ。中国人からすれば、たぶん、どちらでもいい。
 『覇王と革命』『張作霖』とも、「馮」は、玉祥も含めて、より平易な「ひょう」読みを主にし、「ふう」読みは、カッコか注釈に入れた。今はむしろ馮は「ひょう」と読むのが一般的と考えたからだ。
 「あれは『ふうぎょくしょう』でしょう」とのご指摘には、同じような説明をさせていただいた。
 漢字を専門にする学問では、きちんとした法則性があるのかもしれない。馮玉祥がなぜ「ふうぎょくしょう」で、今の馮さんがなぜ、「ひょうさん」なのか説き明かした文章があれば、ぜひ読んでみたい。
 自分で解明するのは無理だ。漢字の森、というより、そのごく小さな一部に過ぎない音読みという領域でも、黒々とした森が広がっているのが分かる。本格的に足を踏み入れる覚悟はない。
    *    *
 それにしても、と思う。
 もともとは外来語であった漢字の一つひとつに、訓読みを含めて、いくつもの読みを与える日本語とは、なんと複雑で、面倒で、きめ細かく、美しいのだろう。森の底で、漢字という文明の巨石を包み込む苔のごとく、優しく、みずみずしい。 (2018年11月24日)

 ※写真は、北京に残る馮(ひょう? ふう?)国璋旧宅です。