覇王ときどき革命

中国・清末民初のお話など

光園の詩人

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 十年ほど前だろうか、『覇王と革命』の取材で来たときには、不動産業者が入
居しており、中に入れなかった。
 ところが、先日再び訪れると、地元の愛国主義教育基地に変わっており、一般
公開されていた。
 北京の西南に位置する河北省保定の「光園」、曹錕の旧宅だ。往時、ここは、
中国最強を誇る直隷軍閥の本営だった。
 陽光がさしこむ明るい洋風邸宅は、「光」のイメージに合う。ただ、その名前は、
明代に倭寇と戦った民族の英雄・戚継光(せきけいこう)から取ったとされる。
 『覇王と革命』では、この館で、曹錕、呉佩孚の感情がすれ違う小さなエピソー
ドを書いた。
 古い板張りの床がうねっている。曹錕や呉佩孚も歩いていた場所だな、とぼんや
り考えつつ、いくつもの部屋を見て回った。
       *      *
 何を題材にした愛国教育基地なのか、入るまで知らなかった。ホールのような大
部屋のパネルを見回して、小さく息をのんだ。
 「晋察冀(しんさつき)日報」に関する展示が並んでいた。
 「晋察冀」は、日中戦争時、山西、チャハル、河北など北京の西を中心とする広
大な一帯で活動する共産党軍の根拠地名で、晋察冀日報は、党が発行する新聞だ
った。
 昨秋出た雑誌(『中央公論』10月号)で、中国にあって理性的な対日観の大事
さを訴え続けている評論家、馬立誠氏の論文を翻訳した。その冒頭に置かれてい
たのは、晋察冀日報、晋察冀通信社に在籍した詩人、そして共産党軍戦士でもあ
る陳輝の「ひとりの日本兵」(詩の日本語訳は秋吉久紀夫氏による)という詩だ
った。

 ひとりの日本兵
 晋察冀の原野で息をひきとっていった

 そう書き出す詩は、大地に散る雪のように、はかなく、美しい。異国の土の上に
横たわる敵兵、そして、その故国で息子の身を案じているであろう母に思いをは
せる。
 陳輝は、共産党プロパガンダという任務以上に、詩人として、誰の心にも確か
に存在する透明なかけらを、そっとすくい取ったのだと思う。かけらの正体は、
共感や同情、哀惜といった言葉をすべて含む他人への優しさなのかもしれない。
 光園の一室で、曹錕も呉佩孚もしばし忘れ、陳輝を探した。
 「革命烈士」のパネルに、その名はあった。
 陳輝は、詩を書いた5年後、1945年に戦死している。24歳だった。手榴弾
を手に日本兵らの包囲の突破を図り、最後は敵中で自爆したと伝えられる。
       *      *
 「ひとりの日本兵」のように、敵味方、国境の両側に立つ人々の心を静かに揺さ
ぶる詩など、とても書けない。自分が書いてきたのは、軍閥の親玉たちが、笑い、
泣き、戦い、敗れていく騒々しい歴史だ。
 もし、陳輝の詩と自分の文章に通じるところがあるとすれば、日本人であれ、中
国人であれ、同じ人間として見ているということだけだろう。
 時代を駆け上がり、転落していった曹錕と呉佩孚。一人の凡人として、彼らの生
きざまは、何と鮮烈で、魅力的で、人間的なんだろうと思う。だが、例えば、こ
こに「日本の利益」といった価値観の尺度を持ち込んだら、どうなるか。二人は
まったく違う姿で、別の物語を歩み始めるに違いない。
       *      *
 光園で、思いがけず、陳輝の名を目にした。
 日本にも到達した強烈な寒波が華北を覆っていたが、洋館の中は暖かく、しゃれ
た窓から入る白い光が、展示物をぼんやりと照らしていた。  (2018年2
月11日)

 

 ※このブログを読んでくださった方が、日本から初めて中国旅行をされた際、万里の長城、明の十三陵などを割愛し、「小站練兵園」に行かれたと聞いて驚きました。個人的には、北京の旅では、まずはやはり定番の世界遺産群をおすすめします。頤和園、天壇などもあって、歴史好きが飽きることはありません。

 ※北京とその周辺の散歩記事が多いこともあり、写真をつけてみることにしました。前の記事にも、あった方がいいかなと思うものには、おいおい写真を追加します。かつて、白水社のホームページに掲載していたのと同じ写真もあれば、ちょっと変えるものもあります。