もともと、紙の本が好きだ。視覚も、匂いも、手触りも。厚みによって読んだ量と未読の分を確認する楽しみもある。これは、終生変わらないだろう。
しかし、北京に暮らしているいま、電子書籍がない生活も考えられない。新書ほどの大きさのリーダーには、全四巻、上中下といった読み物が詰まっているが、まったく重くないし、かさばりもしない。「本」とセットになっていた持ち運び、収納という難題から解放された。
『覇王と革命』について、「中学生のドカベン」と評した知人がいる。出典注をウェブサイトで公開して軽量化を図った『張作霖』も、それに近い。「通勤電車で読みにくい」と言われたこともある。内容以前の物理的問題に対する厳しい指摘には、うなずくしかなかった。
軍閥の時代は、中国近現代史、日中関係史において決定的に重要な時期だと思う。しかし、実際には、歴史の空白地帯となってきた。
『覇王と革命』『張作霖』の電子化を機に、一人でも多くの方が、この時代の驚くべき中国をのぞいてくださることを願っている。決して重くはないので。(2017年11月10日)
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出版から五年近くたった『覇王と革命』では、電子化を機に内容を見直した部分が多い。中には、「濼州」の誤字をはじめ、明らかな間違いもある。改めておわびしたい。資料を精査し、張作霖の若年時の「匪賊」に関する描写や、蔣介石の学歴など一部事実関係も修正した。誇大描写の可能性がある資料の記述を削除したり、必要な記述を追加したりした。歴史評価に関する表現を変えたところもある。
「紙の本」を読んでくださった方、これから読んでくださる方にも、この場で修正内容をお知らせしておきたい(句読点の追加や、読みやすくするための表現の細かな修正等については除く)。
以下、『覇王と革命』電子版に追加した「あとがき」と、主な修正部分を記す。
出版間もない『張作霖』の方は、基本的に若干の修正にとどまっている。それも末尾に追加しておく。ここにある修正部分、ページ数などは、第二刷をもとにしている。
◆『覇王と革命』~あとがき追加分
(電子書籍化に際して)
『覇王と革命』の出版から、ほぼ五年が過ぎた。この間も、軍閥の時代に関する資料は、数多く世に出てきた。電子書籍化に際して、誤字脱字を直し、読みづらい部分の表現を若干修正したほか、事実関係、歴史評価に関する記述も一部変更した。資料を改めて吟味し、削除した部分もあれば、加筆した部分もある。
読んでくださった方々から温かいご指摘をいただき、直したところも多い。心より感謝したい。残念ながら、軍閥史を構成する無数の事象について、何が史実なのかを判定する力は、相変わらず、自分にはない。多くの力を借りることが、軍閥史の実相に近づく道だと思っている。
【全体に関係する修正】
▽「安徽系」「直隷系」などの軍閥表記は、「安徽派」「直隷派」と改めた。
▽「帝制」は、一般的な皇帝政治を示す場合は「帝政」、共和制などとの制度的対比を示す場合には「君主制」「立憲君主制」などとした。
▽濼州、濼河は灤州、灤河に
【個別修正】
p2上:緑林(匪賊などの武装集団)から→満洲の草莽から身を起こし、▽日本に爆殺された→日本人に爆殺された
p12上:この大英帝国公使が→中国の史書によると、この大英帝国公使が
p13下:「侵略者」日本への反感を土台にした中国民衆の愛国ナショナリズムはここに覚醒した。→日清戦争の敗北で覚醒した民衆のナショナリズムは、ここから、「侵略者」日本への反感を土台にして燃え上がっていく。
p17下:西太后の思考に「軍建設」というものが入り、→西太后は、強力な近代軍の必要性を認識し、
p18上:この一歩から現代中国の激動が始まる→激動の現代中国の行方を左右する一歩であった
p18下:山東に赴き、外国軍→山東に赴き、義和団を弾圧して外国軍
p21下:同盟会が中心→同盟会などが中心
p23下:政治維新運動→政治改革運動▽……踏み出していた。しかし、西太后→踏み出していた。光緒帝は百日あまりで二百八十六の詔書を出し、一気に維新を進めようとした。しかし、自らの身の危険をかぎとった西太后
p24上:科挙制度を廃止して→科挙制度を朝廷に迫って廃止させ▽維新派は「改革派」の袁を取り込もうとしていた。戊戌の年……維新派は、上京していた袁世凱に対し→戊戌の年、西太后の圧力を感じた維新派は「改革派」の袁世凱を取り込もうとし、上京した袁に
p25下:今は広大なトウモロコシ畑→この一帯は今、広大な水田とトウモロコシ畑▽遊び仲間……食らわせていた→削除▽春から初夏にかけて→初夏
p26上:満洲の春は遅く、短い。零下二十度以下になる冬から、三十度を超える夏までをつなぐ春は、駆け足で過ぎ去る。凍りついていた張有財の死体は陽気の中で溶け出し、→満洲の冬の気温は零下二十度以下になるが、短い春が過ぎれば、三十度を超える暑さがやってくる。張有財の死体は腐乱し、
p26下:近くの鎮安県(現黒山県)→親類を頼って近くの県
p27上:小さな匪賊団の頭だった→一時匪賊に加わっていた▽保安隊→保険隊▽(匪賊)→(匪賊などの非合法集団)▽逃げる途中で→逃亡した先で
p27下:張作霖に報告した。奉天西部にいる張の→奉天北西部でモンゴル人の蜂起軍と戦っていた張作霖に報告した。張の
p28上:撲殺された→殺された(2か所)
p29下:それまで、密談→それまで、社会にあっては、密談
p35下:重鎮→重要人物
p43下:李烈鈞(ルビりれつぎん)→李烈鈞(ルビりれつきん)
p45下:侵入→進攻
p55下:馮が悪役を演じて段を追い詰め、善玉を演じる張が段を無抵抗にして、すべてを吐き出させるのである。帝政推進の旗を振った段芝貴……→馮が帝政推進の旗を振った段を追い詰め、張が段をかばって無抵抗にし、すべてを吐き出させるのである。段芝貴は……
p56上:贈り物をした。→贈り物をした。腹心の孫烈臣を護衛として段に同行させた。
p56下:突然、駅舎内の人の動きが慌ただしくなり、連隊長が立ち去った→連隊長が立ち去り、孫烈臣も下車した
p57上:「悪役」の→削除
p61上:近代化を一手に担い→近代化を担い
p68上:山東に入った→山東に駐留していた
p72上:清代の北洋大臣以来、直隷→北京周辺で大軍を持つ直隷
p73上:中国政府との間に→中国政府に対し、
p84上:農民服の老人→農民姿の男
p92上:報告には、「十二歳……→報告には、溥儀について、「十二歳……
p96上:任命した→した
p99上:国民党・→国民党系・
p99下:国民党の重鎮→孫とともに活動してきた革命派の主要人物
p100上:国民党→国民党系勢力
p102下:国民党派→革命派
p103上:国民党代表→国民党系の代表
p105上:護法軍政府、国民党軍との→護法軍政府との▽国民党軍は→国民党系の軍は
p106下:現地軍では最強の→削除▽北洋軍は潰走→直隷派の北洋軍は潰走
p107下:王汝賢、範国璋が長沙から追い落とされた十八日→湖南の混乱が続く十一月十八日
p109上:安徽系主戦派の声を→主戦論を▽湖北の旧国民党系→湖北の国民党系
p109下:馮国璋への直接→主戦派が馮国璋への直接
p112下:岳州への進攻→岳州への南軍進攻
p114上:一個旅団もの精鋭兵士→精鋭旅団の兵士
p115上:二十四日夜のことだった。同日夜十一時十五分、楊宇霆の指示によって、機関車が……出発した。「東に向かっているぞ!」驚いたのは北京から来た役人たちである。北京方向は……闇の中でいつの間にか機関車が→二十四日のことだった。そのとき、奉天軍が駅を制圧した。同日夜十一時十五分、機関車が……東に向けて出発した。北京方向は……闇の中で機関車は
p115下:これまでも湖南などに計六個旅団が入っていたが、→削除
p116上:さらに六個旅団→六個旅団▽張作霖の奉天系→張作霖
p116下:張作霖を味方につけた→張作霖の軍を手にした
p118下:跳躍し→跳躍する身体能力
p121上:南の統一→南の結束▽国民党軍→国民党系軍
p126下:行うと約束→行うと告げ
p127下:段祺瑞の思惑→段祺瑞、徐樹錚の思惑
p128上:完全日本式→日本式
p134下:そのまま通り過ぎた→通り過ぎた
p135上:このときの張作霖の→史書が伝えるこのときの張作霖の
p140上:保安隊→保険隊
p143上:二十二歳で→その伝記によれば、二十二歳で
p144下:非難する時代→非難するまで
p152下:口出しするな」 張作霖は……→口出しするな」 この夜、徐樹錚が張作霖を暗殺しようとしたが、未遂に終わった。張作霖は……▽ひっそりと→削除
p163下:装甲車を前面に置く→装甲車を使った用兵
p165上:この時代→この時期▽柳行李→行李(二か所)
p165下:分割の調整→分割
p166上:対立は解消→孫、段の対立は解消
p170上:中華人民共和国では、十月……(建国記念日)になると、→中華人民共和国でも、十月……(建国記念日)などに、
p173下:史書の記述によると、翌日、王占元→史書には、王占元の「非道」ぶりを強調するすさまじい記述がある。王占元
p174上:回収させたと伝えられている→回収させたとまで書かれている。▽兵乱に……声を失った。→削除
p179上:命令は、「堅く→命令は、相変わらず「堅く
p180上:軍艦→艦船▽港に横付けし→港で
p181下:湖南支援戦争→湖北支援戦争
p182下:安徽系・段祺瑞派→安徽派
p185上:柳行李に担がれて北京の日本公使館を脱出したとされる→北京の日本公使館を脱出した
p187上:曹鋭の前に現れた張作霖の顔は厳しい。→張作霖は、
p187下:緑林以来→保険隊以来
p188下:三角蜘蛛→三角蜘蛛の巣
p190上:張作霖の盟友・→削除
p190下:馬も人も天に→人馬もろとも▽奉天軍は昔ながら……用いた→奉天軍には、昔ながら……用いる部隊もあった▽この戦争で→削除
p192上:「三角蜘蛛」の陣を敷いた呉は、巣→「三角蜘蛛の巣」の陣を敷いた呉は、糸
p194下:声明を口授した→声明を作った
p196上:戦闘が始まって……突撃を命じた。→削除
p196下:潰乱した。高、→潰乱した。裏切りも続出した。高、
p197上:追撃をあきらめた→追撃もあきらめた▽衝くこともできた→衝くこともできたかもしれない
p201下:日本の陸軍士官学校の制服を着た→削除
p203上:張景恵ら→古い幹部
p204下:求めたのは、軍政長官の権力を国家に返納するという一種の大政奉還で→求めたのは、軍閥が持つ権力の国家への返納で
p205上:どこへ行こうと→どこにいようと
p211上:成立後直後→成立直後
p219上:災害被災地の農民→災害に遭った農民
p225上:歩兵銃→小銃
p228下:公文→公文書(二か所)
p231上:浙江軍が一個連隊を壕から突撃させたが→浙江軍一個連隊が壕から出撃した。しかし、
p237上:奉天軍は、……持っていたといわれる→奉天軍はさらに、……持っていた。
p238上:黒いレモンのように→削除
p239上:直隷軍はこれから、……シナリオだろう→削除
p240上:廬はこれを→盧はこれを
p241下:すぐに包囲→あっさり包囲
p242上:二十四師団を→二十四師団の精鋭部隊を▽大崩壊→より早い破局
p263下:ただ、中国→中国
p265上:倒したがゆえに、心の……守り続ける段は、→倒した段は、心の……続け、一方では、
p268上:日本の陸軍士官学校……砲兵連隊に在籍した→日本で砲兵連隊に在籍したことがある
p269上:孫の字をとって→孫の呼称「孫中山」にちなんで
p271上:第一次大戦以来、→削除
p283下:状況が一気に→情勢が一気に
p285上:署名した→郭松齢に従う署名をした
p285下:士官派→陸士派
p290上:多数の凍傷患者が→凍傷が
p291上:十二月七日……会談した→中国の史書の多くが、十二月七日……会談したと記している
p295下:貨車→貨車など▽内部呼応者→内応者
p297下:奉天の凍る市中で→奉天で
p301下:ここで王永江が休会を提案し、郭……確認する会議は終わった→会議は、郭……確認した
p308下:ですが」と言う。中山艦は→ですが」と言う。黄埔からだった。中山艦は
p314下:井戸など→川や井戸など▽国民軍軍→国民軍
p318下:歩兵銃→小銃
p320下:蔣と孫の間には、蔣と呉が第一……いう点で利害が一致している。→蔣と呉が第一……ということに限れば、蔣と孫の利害は一致している。
p323下:名高い黄鶴楼がある。→削除
p330上:こだわらない。大丈夫だ」→こだわらない大丈夫(ルビだいじょうふ)だ」)
p332上:要請した→皮肉を返した
p346下:病死→死亡
p347下:国民党の三大勢力が排撃し始めた→国民党内での
p351上:直魯連軍→直魯連合軍
p365下:日本側では、この夜の面会は次のように記述している→日本側の史書は、この夜の面会について、次のように記している▽努めた」 芳沢が……→ 努めた」 外交文書には、芳沢が奉天への撤退を求めたとの記述もある。 芳沢が……
p367上:この日の夜→中国の史書によれば、この日の夜
p369上:日本から見れば、張は、日本の特殊権益を脅かす存在となっていた。 日本にとって張は、不要の存在になっていた→張はまた、満洲統治に専念せよとの日本の勧告を再三無視して中央に覇権を求め、結果として日本の満洲権益を危険にさらしていた。 満洲をわがものにしたい日本の軍人らにとって、張は排除すべき存在になっていた
p371上:泰山号が火煙に→泰山号は破壊されて停車し、煙に▽原形をとどめず→炎上しはじめ
p372上:五十四歳だった、の脇に(39)~注番号
p376上:李宗仁が回想録の中で→李宗仁の口述回想録が
p376下:進出してきた→退却してきた
p378上:軍閥時代の特徴→軍閥の特徴
p382(8):二発の→削除
p385(15):『大参考民国時期戦争』→『民国時期戦争大参考』(以下同じ)
p391(7):(冒頭に追加)第二革命の後、国民党は消滅、孫文は一九一四年、「中華革命党」を創設する。「中国国民党」に改名するのは一九年。煩雑さを避けるため、ここでは、孫を中心とする勢力を「国民党系」と記す。
p394(38):『曹汝霖一生的回憶』→『曹汝霖一生之回憶』(以下同じ)
p400(3):膨大になるとみられる→膨大になる
p423(袁世凱):八二年に→一八八二年に▽まで間滞在→まで滞在
p426(蔣介石):陸軍士官学校→振武学校▽広西系→李宗仁
p428(段祺瑞):内閣総理。→内閣総理。安徽派の最高指導者
p432(楊度):名前のルビを「ようど」から「ようたく」に
p430、432、433:陳光遠、李鳴鐘、龍済光、劉郁芬は、本編での記述が少なく、削除
p443下(1925年1月3日):西北辺防督弁→西北辺防督弁に
p455(中国新聞雑誌等):藩陽晩報→瀋陽晩報
◆『張作霖』
p70:ねじり伏せた→ねじ伏せた
p73:大物を安置する→大物を置かせていただく
p163:武器の専門家→削除
p274:戦の後、旧→戦の後は、投降した旧
p288:こんな逸話→就任後の逸話
出典注p5:双喜と改名→双喜を改名