覇王ときどき革命

中国・軍閥の時代のお話など

最も美しい碑

 北京の繁華街・王府井の北にある小さな胡同(フートン)で、民家の脇に残る石碑を見せてもらった。人の高さほどもある碑面にびっしりと彫られた古い文章は、自分の語学力では、とても読めない。目で漢字を拾って、お目当ての文字を見つけた。
 確かに「法華」とある。清末、ここには、法華寺という寺があった。天津近くの小站(しょうたん)で、新建陸軍の練兵にあたっていた袁世凱が、北京での宿舎にしていた。
 光緒帝の変法維新が風前の灯火となっていた1898年9月18日夜、維新の志士・譚嗣同(たんしどう)はここに袁世凱を訪ね、兵を動かすよう求めた。袁は口を濁し、天津に戻って直隷総督に報告する。間もなく、維新は潰え、帝は西太后によって幽閉された。譚は処刑された。
 「法華」の碑面の上で、木漏れ日が揺れていた。

 『覇王と革命』、『張作霖』の現場取材では、石に刻まれた文字を数多く目にした。
 石の記録は、どこか懐かしい。石という原始的で硬質な物体は、往時の体温といったものまで封じ込める記録性を持っているように感じる。遼寧省瀋陽の旧大帥府に残る張作霖直筆の石額も、訪れるたびに飽かず眺めた。この額については、『張作霖』で書いた。

 これまでで最も心を揺さぶられた石碑は、徐世昌(じょせいしょう)の手になるものだ。
 袁世凱の盟友で、清朝の大官僚だった徐世昌は、中華民国大総統になった。清末、東三省総督として、張作霖の人生にも決定的な影響を与えた。
 1916年、洪憲王朝が潰え、ほどなく失意の中で悶死した袁世凱は、故郷・河南省安陽に造成されていた墓園に葬られた。
 清朝皇帝並みの格式を持つ墓だ。高さ5メートルを超える墓碑に、徐世昌の見事な楷書が残る。
 「大総統袁公世凱之墓」
 「皇帝」という言葉はない。この点は、『覇王と革命』で触れたので、繰り返さない。
 実は、この墓碑には、もう一つ、恐るべき特徴がある。
 裏に回ると、思わず息をのむ。
 袁世凱の生前の記録を刻むための巨大な平面に、碑文が何一つ刻まれていない。中国のネットを検索してみれば、「則天武后以来の無碑文の墓碑」という言葉も見える。
 歴史上まれに見る異様な石碑になった理由を解き明かした文献を読んだことはない。
 以下、想像である。
 袁世凱の生涯を他人が記すのを、徐世昌が許せたとは思えない。ただ、中華民国の正統性から言えば、共和制を壊した袁は罪人に等しかった。徐は、書けなかったのだろう。石に刻まれた文字は永遠に残るのだ。
 無碑文の碑は、愛惜や迷い、自負、後悔といった万感の情が宿る、最も美しい碑なのではないかとも思えてくる。

 譚嗣同が北京の法華寺袁世凱を訪ねた当時、40代前半の徐世昌は、袁とともに、小站で練兵にあたっていた。二人が作り出そうとしていたのは、旧来の清軍とは次元が違う新たな軍隊だ。それは、変法維新という上滑りの改革とは異なる、新しい時代の基礎建設というべきものであった。 (2017年2月19日)

広告を非表示にする