覇王ときどき革命

中国・軍閥の時代のお話など

宋教仁暗殺

 1913年の3月20日夜、国民党の指導者・宋教仁は、見送りの黄興、廖仲愷らとともに、上海駅にいた。宋は、強力な政敵になるであろう臨時大総統・袁世凱が待つ北京に向かおうとしている。
 「孫文、黄興など、気にするまでもない。遁初(宋教仁の字)の小僧だけがちょっと面倒だ」
 袁世凱は、周囲にそう語っていた。最強の北洋軍を握る大総統にまで不安を抱かせる男、それが宋教仁だった。
 宋教仁はこの時、三十一歳。革命期の寵児たちは、まばゆいほどに若い。
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 前の年、つまり中華民国元年の12月から年初にかけて、初の国会議員選挙が行われた。王朝を捨てた中国が「民国」たることを証明する選挙であり、年齢、税金納入額、学歴などで一定基準を満たした男性が歴史的な票を投じた。
 結果は、国民党の圧勝だった。衆議院定数596のうち269議席、参議院274のうち123議席を獲得したのである。
 選挙を指揮したのは、党の実務を担当していた筆頭理事の宋教仁だった。理事長の孫文は、象徴的な存在にすぎない。
 両院で第一党を得た宋教仁は、過渡期の憲法にあたる臨時約法とそれを支える国会によって、袁世凱に挑もうとしていた。
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 北京行き列車の発車時刻まで5分になった22時40分、改札に入ろうとした宋教仁の背後に一人の男が躍り出た。
 パン、と銃声が響いた。続いてまた二つの銃声。
 宋教仁が倒れこんだ。
 近くの鉄道病院で緊急手術が始まった。一発の弾が、右側の腰から体内に斜めに入って腎臓をかすめ、大腸に二つの穴を開けていた。弾は摘出したが、出血が止まらない。弾には毒が塗られていたという。
 宋教仁は、黄興に託して、袁世凱に電報を送った。
 「大総統が真心を開き、正しい道理を広め、民権の保障に力を尽くされんことを伏してこいねがいます」
 22日午前4時47分、宋教仁死亡。
 袁世凱は「こんなことがあろうか」とうめいた。
 実行犯は、武士英という元軍人だった。逮捕後、獄中で死亡した武は、末端の鉄砲玉に過ぎない。
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 事件の背後にいたのは誰か。
 中国でこれまで、「史実」とされてきたのは、「袁世凱」である。しかし、近年、民国史の記述が自由になるにつれ、長い間封印されてきた異論が続出している。最も多いのは、孫文と関係が深い革命派の大物・陳其美を主犯と見なす説だろう。そうなると、事件は国民党内部の暗争ということになる。
 真相は分からない。確かなことは、約法と国会という制御装置を砕かれた幼い民国は、ここから暴走し始めた、ということだ。
 宋教仁を失った国民党は、たちまち「第二革命」の旗を立てて武装蜂起し、北洋軍にたたきのめされた。
 ちょうど百年前の出来事である。 (2013年7月14日)

※参考資料:北洋政府簡史、洪憲帝制、北京民国政府的議会政治、袁世凱評伝、人民網、新華網、鳳凰網(三聯生活週刊より)

※白水社ホームページには、写真も掲載します。

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