覇王ときどき革命

中国・清末民初のお話など

密偵・呉佩孚

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 1900年、義和団の乱が、清軍と八か国連合軍との戦争に発展した。天津・大沽砲台にいた26歳の下士官・呉佩孚の戦いについて、伝記はこう記す。
 「大隊長以下はみな退却し、一人で砲台を守った。外敵の嘲りに憤り、三発射ち、すべて命中させた」
 だが、清軍は惨敗。戦後、外国軍が続々と進駐してくる中で、呉佩孚は、北洋軍の参謀養成機関に入り、専門の測量のほか、西洋や日本の兵書を研究、兵器、戦略戦術、偵察、陣地攻撃などの新知識を貪欲に吸収した。
 1904年2月、今度は満州で日本とロシアが激突、衰えた清朝は、局外中立を宣言するしかなかった。ただ、強奪同然に満州支配を広げていたロシアに対する反感は強く、清は日本を秘かに支持している。
 暗黙の協力の一つとして、日本軍の密偵機関に、北洋軍の精鋭将校16人を参加させている。30歳の呉佩孚も、そこにいた。義和団、北洋軍、日露戦争……このあたりの歴史と呉佩孚の年譜を重ねると、時代が、天才というものを育てる階段を用意したかのようにさえみえる。
 呉佩孚は、遼東半島西岸に入った。布売りなどに変装し、小分隊を率いて、復州から営口一帯で、ロシア軍の兵数、動き、装備を探り、日本軍の上陸、奉天方面への北上、そして半島先端部の要塞・旅順の攻略に貢献した。
 情報収集を任務とする密偵は、大胆であらねばならない。同時に、それ以上の小心さが求められる。民間人の通報一本が死につながるのだ。誰もが「没法子」(メイ・ファーズ=中国語で「方法(法子)がない」「どうしようもない」)と尻込みする場面が多い。
 だが、呉佩孚は、そんな時にしばしば言った。
 「有法子」(イョウ・ファーズ=「方法はある」「なんとかなる」)
 千変万化の戦場にあって、呉佩孚には、他の誰にも見えない一本の細い活路が見えた。勇猛さと新しい軍事知識は、彼の天才を助けたに違いない。
 日本の軍人たちも、呉佩孚には一目置き、「有法子先生」と呼んだ。呉は日本の勲章も授与された。
 呉佩孚は、旅順港に潜むロシア艦隊偵察で、こんな提案をしたという。
 「昼夜かまわず漁船をロシア軍の前に出し、彼らが麻痺したところで、漁船の中に日本の情報船を紛れ込ませればいい」
 呉佩孚も、日露戦争を戦っていたことが分かる。海陸で鋼鉄がぶつかりあい、大量の血が流れ、情報や補給が死命を制する近代戦というものを身をもって体験していた呉が、軍閥の時代に強者たりえたのは、必然だったのかもしれない。
 旅順戦後では、こんな逸話が残っている。
 ある日、奉天北西の新民で開かれた秘密会議に出席しようとした呉佩孚は、途中、ロシア軍にスパイ容疑で逮捕された。所持品から地図や文書が出てきたのだ。ロシアが支配する黒竜江ハルビンに送られることになった。このままいけば、処刑は免れない。絶体絶命である。
 呉佩孚は、ハルビンに向かう列車から、隙を見つけて飛び降りた。より正確に言えば、見張りのロシア兵に、たばこを渡して隙を作らせた。
 「法子」はあった。
 やがて「中国最強」と呼ばれる密偵は、死地を逃れ、大きな両眼を輝かせながら、再び満州の野に消えた。 (2013年6月23日)

※参考資料:呉佩孚伝、北洋乱、新華網(文史天地より)

※写真は、上が天津の大沽砲台跡、下が遼寧(旧奉天)新民近くのトウモロコシ畑です。