覇王ときどき革命

中国・軍閥の時代のお話など

最も暗黒なる一日

 1926年4月20日に、段祺瑞が側近らとともに北京を去ったことは、先に書いた。 そのひと月前、3月18日の話をしておきたい。
    *   *
 北京の春は、強風と砂塵の季節である。ただ、その日は曇りで、時折、小雪が舞っていたという。
 段祺瑞の執政府は、故宮の東北、鉄獅子胡同(フートン)にあった。張自忠路と改名された今も、段政権の中枢だったゴシック風建築は現存している。
 午後1時半ごろ、列強が政権に突きつけた最後通牒拒否を叫ぶ数百~数千人規模の群衆が段祺瑞との面会を要求、執政府の門前で衛兵隊とにらみあった。
 ソ連に操られた共産党北方区委員会書記の李大釗(りたいしょう)、国民党の徐謙らが組織したデモで、拳銃を持っている者もいた。
 衝突の経緯は、はっきりしない。近年発表された文章は、「どちらが先に発砲したか分からない」という趣旨のものが多い。疑問の余地もない事実は、ここで惨劇が発生したということだ。
 「血肉横飛」
 中国語では、そう表現されている。銃弾に貫かれ、棍棒で殴られた青年たちの頭や胴体から血が噴き出した。
 小雪散る政府の門前は血に染まった。死者数は実に47人、負傷者はその何倍もいる。衛兵にも死者が出た。
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 すでに『狂人日記』や『阿Q正伝』という革新的な作品を世に出していた作家・魯迅は、当時、北京の阜城門に住んでいた。犠牲者の中には、魯迅の愛読者だった二十二歳の女学生もいた。
 事件当日に書かれた『花のない薔薇 二』からは、魯迅の筆圧さえ伝わってくる。
 「大殺戮」「虐殺」「残虐」「禽獣」「虎狼」「滅亡」「血」……4頁ほどしかない本文に、魯迅は、強烈な言葉を煉瓦のごとく使った。
 例えば、群衆側を非難した政府発表に対しては、「墨で書いた戯言で、血で記した事実を覆い隠すことなどできない」と記した。
 濡れた碑文のような小品で、最も知られているのは、本文の後にわざわざ追加された一言だろう。
 「三月十八日、民国以来、最も暗黒なる一日に、記す」
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 事件当時、段祺瑞は執政府にはいなかった。だが、47人もの青年たちが命を落としたという事実は、老いた「北洋の虎」の精神に重い衝撃を与えた。
 政治宣伝を排した客観的記述に定評がある歴史雑誌「炎黄春秋」は2009年、犠牲者追悼会での段祺瑞について、孫娘の証言を掲載している。
 「皆の前で長く跪き、立ち上がれませんでした。終身、菜食を通して罪をあがなうとも誓いました。誓いは、病気になっても守られたのです。医者は、栄養を摂るよう勧めたのですが、臨終まで菜食を貫きました。彼は重い脚の病を患っていましたが、苦痛を顧みることもなく、長く跪いたままでした」
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 63年という長い時を経た1989年、段祺瑞の時代とは比較にならない数の学生、群衆が、民主化を求めて天安門広場を埋めた。6月4日、共産党の軍・人民解放軍が、民衆に発砲しながら、広場や、党・政府の中枢である中南海付近の目抜き通りを制圧、桁違いに大量の血が流れた。
 「天安門事件」と呼ばれる惨劇も、発生からほぼ四半世紀がたった。だが、現政権は今なお、国内の作家が「最も暗黒なる一日」と書くことさえ許さない。霊前に跪き、菜食を通した最高指導者がいたとも聞かない。
 「我が国の政府の門前は死地である」
 天安門事件について語った言葉ではない。1926年3月25日、鉄獅子胡同の衝突から一週間後に、魯迅はそう書いている。 (2013年6月16日)

※参考資料:国民軍史綱、文武北洋、我所知道的北洋三傑、百年家族段祺瑞、華蓋集続編、炎黄春秋、光明網(鳳凰網より)

※白水社ホームページには、写真も掲載します。

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