覇王ときどき革命

中国・清末民初のお話など

その手にあるのは、近代

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 論語や春秋といった四書五経をそらんじ、詩文をよくする。「忠」とか「仁」とかの概念について果てしなく語れる。科挙を勝ち上がるトップエリートもいれば、なぜか竹林に隠れて賢人と呼ばれる者もいる。中国古来の知識人の大雑把なイメージだ。
 中国が嵐の中で近代へと突入する清末から軍閥混戦期にかけて、このイメージを打ち破る破天荒の大知識人がいた。梁啓超だ。
 「たとえ全国四億人のうち三億九九九九万九九九九人が皆賛成したとしても、梁某一人は断じて賛成できない!」
 1915年、皇帝になろうとした袁世凱に、梁啓超がたたきつけた言葉だ。古の知識人のように、抽象的な道理を説くこともなければ、百科事典的頭脳から伝説上の名君を取り出して諫言することもない。痛快である。
 1898年、戊戌の権力闘争で光緒帝に付いて敗れた梁啓超は、西太后の追捕の手が迫るや、たまたま北京を訪れていた伊藤博文が滞在する日本公使館に転がり込んだ。
 そのまま亡命し、東京牛込に居を構えた梁啓超は、明治日本に蓄積されていた維新の経験、西洋式近代思想の大海に驚嘆、研究と啓蒙活動に没頭した。梁を通じて膨大な「近代」が、日本から中国に渡った。
 日本では、「吉田晋」という名を使った。維新に殉じた吉田松陰高杉晋作から名を拝借したところが、国を動かすことに熱中する梁啓超らしい。その名自体がすでに、思想であり、行動である。
 袁世凱との闘いに戻ろう。
 ほぼ14年間にわたる亡命生活の後に帰国、梁啓超は、大総統・袁世凱と協力した。だが、袁が皇帝への道を歩んでいくにつれ、その亀裂は広がっていく。梁はこの時、民国の根幹である共和制を守ろうとしている。
 勝負の年となった1915年の1月、梁啓超は、袁世凱の長男・克定から宴に招かれた。行ってみると、克定の脇には、君主立憲論者の楊度もいる。
 「共和制は中国の国情に合わないのではないか」
 皇太子の座を狙う袁克定は、そんな言葉で帝制への同意を迫る。だが、梁啓超は、「国体研究はほとんどしておりません」と切っ先をきわどくかわした。
 3月、梁啓超は、21か条交渉を巡る反日ムードと帝制に向けた空気が色濃く漂う北京を去り、天津イタリア租界の邸宅で、袁世凱を打倒するための壮大な構想を練る。ここから先は「覇王と革命」に書いた。
 護国戦争は、梁啓超の戦だったといえるだろう。
 弟子の蔡鍔を西南の辺境・雲南から挙兵させ、やはり北京から遠い広西の陸栄廷、南京の馮国璋を巻き込みながら中央政権を倒すという戦略的発想は、恐ろしいほど的中した。薩摩・長州が中心となった倒幕の過程を連想させる。
 袁世凱が斃れた翌年の1917年、今度は、清朝を再建させる復辟事件が起きた。梁啓超は「私は戦はだめだ」などと言いつつ、反復辟の兵を挙げた段祺瑞の陣に加わり、再び王朝を倒した。
 残された写真を見ると、洋服がよく似合う。そんな知識人は、中国史上初めてだったかもしれない。その手には、剣も、銃もなかった。ただ、筆があった。中国の近代を記していたのではない。自在に動くその筆が、中国の近代を創っていた。 (2013年6月9日)

※参考資料:梁啓超伝、袁世凱真相、瑰異総統袁世凱袁世凱与近代名流、我所知道的北洋三傑、人民網

※写真は、上が、天津にある梁啓超故居に置かれた梁の像、中が、故居に展示された「異哉所謂国体問題者」文面のパネル。下は北京郊外の梁啓超墓所です。