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覇王ときどき革命

中国・軍閥の時代のお話など

北京発最終列車

 夕刻が迫る華北平原を、北京発の特別列車が、東に、天津に向けて、ゆっくりと走っている。
 1926年4月20日のことだ。列車には、北京を追われた段祺瑞一行が乗っていた。段がこの先、復権することはない。最後の旅で見せた「北洋の虎」の涙は、「覇王と革命」で書いた。
 ここでは、段祺瑞に同行した軍人を取り上げたい。
 曲同豊だ。徐樹錚らとともに、「安徽系四天王」の一人と称されている。中国最高の士官学校だった保定軍官学校長を経て、段祺瑞の王牌(切り札)軍である辺防軍の栄えある第一師団長となった。
 だが、1920年夏の直隷・安徽戦争で、曹錕の本拠地・保定に進攻しようとした辺防第一師団は呉佩孚軍に叩きのめされ、曲同豊は手を挙げた。
 保定に移送された曲同豊は、曹錕の居館「光園」で降伏の儀式を行った、と多くの史書が伝えている。正装した曲はホールに入ると、直立して待つ曹に歩み寄り、腰にあった軍刀を解き、両手で捧げた。
 「貴経略使(曹錕の官職名)に投降いたします。将軍に刀を献上いたします」
 曹錕は降伏を受け入れ、「閣下の勇敢さを讃える」と応じて佩刀を許した。
 曲同豊は、なお交戦を続ける安徽軍に対して「共に賊を討とう」との声明を出した。安徽軍は大敗、段祺瑞は下野した。
 史書はこう記す。
 「段祺瑞は曲同豊の老師であった。曲は直隷軍に降ったのみならず、献刀の辱を受け、敵将を『貴経略使』と呼び、恩師を『賊』と呼んだ。それゆえ、世人にひどく軽蔑された」
 惨敗、そして裏切り者と呼ばれる屈辱にまみれた48歳の曲同豊は、どん底からの再起を図る。
 1922年1月1日、直隷・安徽戦争の敗将たちに赦免令が出ると、曲同豊は、直ちに段祺瑞のもとに戻った。そのころ、直隷系と奉天系の対立が激しさを増しており、曲は、安徽系の段、奉天張作霖、広東の孫文という反直隷勢力を結集させる連絡役として、天津、上海、杭州、広州、奉天などを奔走した。24年の第二次直隷・奉天戦争前には、直隷軍を内部崩壊させるため、馮玉祥、胡景翼、孫岳らとも会っている。
 「段祺瑞再起のために、汗にまみれて貢献した」は、史書の表現だ。
 最終的に反直隷三角同盟の工作は成功、直隷軍は崩壊し、段祺瑞は中華民国執政として再び政権の座に就く。曲同豊はその立役者の一人となり、直隷・安徽戦争での恥を雪ぎ、再び老師の脇に席を得た。有名無実ではあるが、航空総署長などといった職にも就いている。
 同じように、三角同盟に尽力して段祺瑞のもとに戻った敗将がいる。直隷・安徽戦争への出陣途中、湖北の敵将・王占元が設けた宴会にのこのこ出かけて捕らえられ、曲同豊以上の恥をさらした元長江上流軍総司令・呉光新だ。
 呉光新もまた、北京発の最終列車に乗っていた。天津にいた奉天軍指揮官・張学良にかけあい、この列車の安全を確保したのも、呉だった。
 綺羅星のごとく輝いていた安徽系軍人たちは、一度は散り散りになったが、その一部は、また一つのレールに戻ってきた。4か月前に殺された徐樹錚は、段祺瑞の胸の中にいる。最終列車は、時代の残照を浴びながら、終着駅に向かうレールの上を走っている。 (2013年6月2日)

※参考資料:百年家族段祺瑞、段祺瑞幕府与幕僚、武夫当国、直軍、呉佩孚伝、北洋政府簡史

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