覇王ときどき革命

中国・清末民初のお話など

贄(にえ)の街

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 死線をくぐりぬけ、運良く生き残った兵士たちの前に、占領したばかりの街が、褒美の贄となって身を横たえている。
 半ば焦土になっていても構わない。巻き貝のように門を固く閉ざし、息をこらした商店や民家には、金が、財が、食い物が、酒がある。女が隠れている。
 肩には銃。興奮に震え、「掠」、「淫」といった見えない刻印を額に浮かべた兵士たちが、あふれ出す欲望と競争するかのように走り出す。
 略奪姦淫を餌に、兵に死に物狂いの働きを求める悪習は、清末から民国初期にかけて、珍しくなかった。近代思想に基づく強軍建設を進めた袁世凱は、厳罰による軍紀粛清に乗り出したものの、この国に満ちる軍隊から「焼殺姦淫がないと戦えない」という古来の発想が消えることはなかった。
 今からちょうど100年前の1913年、孫文、黄興らを中心とした革命勢力が、大総統・袁世凱を打倒すべく、長江流域を中心に大軍を動かし(第二革命)、粉砕された。
 革命軍最大の根拠地だった南京には、北洋直系の馮国璋、清朝への忠誠を失わぬ辮髪将軍・張勲という2人の大将が向かっている。功を焦る張は、犠牲を厭わず、攻めに攻め、南京に入城した。悲劇はここで起きた。
 軍閥時代の大記者・陶菊隠は、その模様について次のように記している。
 「南京は人の世の地獄と化した。勢力範囲を分割するかのように、雷震春の獣軍は南門、張勲の獣軍は北門にあり、家から家へと略奪を重ねた。天井板から溝まで、すべて獣軍に厳しく改められ、壊された。残ったのは、持ち去れない地面だけだ。一つの家が何度も襲われ、奪い尽くされた末に獣軍によって焼かれた。強姦が同時進行した。秦淮河に身を投げて自殺した女性は多い……」
 陶菊隠は、民を襲った部隊を、人間の軍と呼ばなかった。
 第二革命が扉を開いた軍閥の時代にも、悲劇は続く。血走った眼をした集団が、気まぐれな赤潮のように、街を、村を襲った。
 集団による掠奪強姦はまた、軍人が、役人、名士、商人、果ては大総統までも脅し上げる材料となった。要求を拒まれた軍人は、こう言って相手に再考を迫るのだ。
 「飢えた兵が騒ぎを起こしても知りませんよ」
 「分かりました。では、部下に3日間の自由行動をさせましょう」
 軍閥が、陶菊隠の言う「人の世の地獄」を生んだのは間違いない。「覇王と革命」でも、大規模な放火略奪、集団強姦事件、軍人の脅迫、さらには籠城都市の悲劇などを、たびたび取り上げた。
 軍閥打倒をスローガンに掲げた革命勢力も、救世主とはなりえなかった。それどころか、革命の名の下で、軍人が民を一時的に蹂躙する軍閥統治よりも、はるかに陰惨な現象が生じた。民と民が果てしなく殺し合うシステムが出現したのだ。経済活動は破壊され、人々は、略奪、私刑に熱中した。報復の車輪が回るたびに、人間社会が崩壊していった。武漢、広州という大都市が革命の贄となった。
 群雄がぶつかりあう軍閥の時代は、時に、地下室の饗宴とでもいうような暗い華やぎを見せる。ろうそくの火が急に明るくなったように感じる時、街が燃えている。 (2013年5月12日)

※参考資料:軍紳政権、武夫当国、直系軍閥史略、人民網

※写真は、雨にけむる武昌の街。ここもかつて、悲惨な籠城戦の舞台となりました。