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覇王ときどき革命

中国・軍閥の時代のお話など

ベストイレブン+1

 「覇王と革命」のカバーに、軍閥の時代を代表する11人の名を載せた。時代の扉を開いた袁世凱に始まり、安徽系の段祺瑞・徐樹錚、直隷系の馮国璋・呉佩孚、奉天系の張作霖--と北の三大軍閥が続き、南北間で激しく動いた馮玉祥をはさんで、南の雄が並ぶ。国民党の孫文蒋介石、広西系の李宗仁、共産党毛沢東。各チーム選抜選手で作ったベストイレブンのようなものだ。
 名前を載せたい人物は多い。だが、スペースの都合で選手枠が限られている上は是非もない。断腸の思いで絞った各チーム代表は、常識的な線に落ち着いた。
 その中で唯一、広西系だけは、ぎりぎりまで迷った。
 広西枠は「1」と決めていた。北伐軍最強の第7軍を率い、一時は南京国民政府の中心に立ち、後年、日本軍とも戦った李宗仁は、外せない。ただ、悩ましいことに、対抗馬も、決して劣っていない。
 壮(チワン)族の武人、陸栄廷だ。
 南寧北方の貧農の家に生まれた。幼くして父を殺され、母も病死した。少年時代は、乞食をし、廟に寝て命をつないだ。はたちのころ、広西西部の竜州でフランス人宣教師の飼い犬を殴り殺してしまい、ベトナムとの国境地帯に逃れた。
 そこで秘密結社の頭目となり、国境線を越えてフランス人や金持ちの財物を略奪する。貧しさを嘗め尽くした陸栄廷は、こんな誓いを立てていたという。
 「貧者から奪わず。中国人から奪わず。付近のベトナム人から奪わず」
 当時、長く清の支配下にあったベトナムも、フランスに奪われようとしていた。中国人は、侵略者や腐敗役人らを懲らしめる盗賊を「義盗」「侠盗」と呼ぶ。洋人の財を掠め取る陸栄廷もまた、そう呼ばれた。
 1884年、ベトナムの支配権を巡って清仏戦争が勃発。陸栄廷も手勢を率いて参戦した。その戦いについて、広西の地元テレビ局のサイトは、やや時代がかった漢文調でこう記す。意味は明瞭だろう。
 「経常神出鬼没、奇襲法(仏)軍、作戦勇敢、法軍聞之喪胆」
 陸栄廷の奇襲攻撃を恐れ、胆魂を失ってあわてふためくフランス兵が見えるようだ。戦争の後、陸は官軍に組み入れられ、革命の嵐に乗って広西を束ねていく。射撃の天才としての伝説も残した。
 軍閥混戦期の陸栄廷については、改めて記すまでもないだろう。新皇帝に戦いを挑んだ陸の狙いすました強烈なカウンターパンチは、ベストイレブンの先頭に立つ袁世凱をマットに沈め、段祺瑞には膝をつかせた。陸は、広西、広東という大版図を切り取り、南から覇を唱えた。もともと戦力的には隔絶していた北と南が長い対立局面に入ったのは、陸の力によるものだった。
 草莽の義盗から身を起こした陸栄廷は、間違いなく、中国史を彩る豪傑、英雄、奸雄たちの流れに連なっている。軍閥の時代は、古典の世界と、現代中国の境界にある。陸は旧世界側の列伝の末尾に入る武人の一人だった。
 1924年、三者鼎立の広西で戦が始まった。後に新広西系と呼ばれる李宗仁、黄紹竑(こう・しょうこう)、白崇禧(はく・すうき)の連合軍は、残る二者、陸栄廷軍と瀋鴻英軍のいずれに付くか、いずれを滅ぼすかを検討した。
 李宗仁は軍議でこう語ったと伝えられている。
 「陸栄廷軍には善行が多い。陸を討って民心を動かすのは容易ではない」
 「民心」という当時としては最も厳しかったであろう基準で、ライバルに評価された陸栄廷。そして、その基準をもってライバルを評価した李宗仁。
 広西系の代表を決めるのは、やはり難しい。 (2013年5月5日)

※参考資料:桂系軍閥、桂系三雄、荒誕史景、白崇禧口述自伝、中華民国歴史上20大派系軍閥、広西電視網、人民網(桂林晩報より)

※「覇王ときどき革命」は、白水社ホームページ(http://www.hakusuisha.co.jp/essay/sugiyama.html)にも掲載しています。
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