覇王ときどき革命

中国・清末民初のお話など

日月輝く国

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 1922年6月16日、孫文が広州から追放された。陳炯明(ちん・けいめい)麾下の軍が、未明から観音山の総統府を砲撃し、圧倒的な兵力をもって、そこの主人である革命家を追い出したのだ。
 孫文と陳炯明の路線対立については、「覇王と革命」で書いた。ここでは、孫追放後の陳の発言を取り上げたい。重しがとれた解放感もあったのか、陳は、外国人に対し、理想の国家像というものを繰り返し語っている。
 陳炯明の発言、書簡、電文などを広く収録した「陳炯明集」(中山大学出版社)によると、孫文追放直後の6月27日付米紙ニューヨーク・タイムズで、陳は、中国統一のための2大原則を示している。
 (1)米国の連邦制度に学び、中華合衆国(United States of China)を成立させる。
 (2)上海で全国会議を開き、軍縮と督軍(軍政長官)廃止を話し合う。
 陳炯明は、これに基づいて、北京政権と統一協議をしたいと語った。
 8月には、外国の報道関係者にこう述べている。
 「米国にあるような憲法を、中国が持つことを渇望しています。幅広い自治権を各省に与え、民政を受け持たせます。国家の軍事、司法、外交については、中央のしっかりした政府が管轄し、指揮することになります……私は統一を強く主張します。統一のためには、まず憲法を制定しなければなりません。武力によって民国を発展させようという計画には、私は強く反対します」
 9月6日に訪ねてきた米国領事に、陳炯明はやはり、米国のような連邦制国家への希望を語った。「憲法改正が成ったら北と協力するのですか」という領事の問いかけには、「そうです」と答えた後で、付け加えている。
 「袁世凱、段祺瑞、孫中山孫文)、そして今の呉佩孚は、みな武力で中国を統一しようとしていますが、これは間違っている。正しいやり方は、法律による中国統一です。言いかえれば、よき憲法を制定し、これを公布、実行することです」
 少年のころ、夢の中で、日と月を両手に抱いた陳炯明は、帝王の相に恥じず、海の向こうにある巨大な民の国・アメリカ合衆国~「United States of America」のごとき国家を思い描いていた。孫文を放逐した時、日月輝くその国は、おぼろげではあっても、手が届くかもしれないと思えるところにあった。中国の未来に新たな可能性が生じていた。
 だが、追放された孫文は上海で再起した。そのもとには、蒋介石がいた。背後には、ソ連がいた。革命勢力は、やがて陳炯明を打倒し、「中華合衆国」も蒸発する。孫文は「中国革命の父」として、陳は「国父に反逆した軍閥」として、革命史に刻まれることになる。
 「United States of China」。この英語をネットで検索すると、ニューヨーク・タイムズの記事に関する陳炯明の記述とともに、2010年にノーベル平和賞を受賞した中国の民主活動家・劉暁波(りゅう・ぎょうは)氏に関する文章も出てくる。現在の共産党独裁体制の変革を目指して劉氏が起草し、2008年にネット上で発表された文書「08憲章」は、「中華連邦共和国の樹立」を唱えていた。劉氏は政権転覆を扇動したと見なされ、投獄された。
 「覇王と革命」を執筆中、陳炯明の退場について、はじめ、「『中華合衆国』--陳炯明が描いた夢は永遠に消えた」と書いた。
 違う、と思った。キーボードをたたき、「永遠に消えた」を、「封印された」に改めた。 (2013年4月28日)

※参考資料:陳炯明集、歴有争議的陳炯明、孫中山年譜長編

※写真は、広東の黄埔軍官学校跡です。陳炯明は、ここでソ連式の教練を受けた蔣介石軍に倒されました。