覇王ときどき革命

中国・清末民初のお話など

少年と舟

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 少年は舟を曳いた。
 暴れ川の氾濫によって泥田のようになった秋の大地で、いとこと二人、縄で結わえた粗末な舟を曳いた。
 正確にいえば、それは舟ではない。一人乗りの木箱、棺だ。自宅近くの平地に置かれていたこの棺は、土饅頭もろとも水に流され、立ち木に引っかかり、かろうじて家族の元に連れ戻されようとしていた。棺の板が薄いことで、厚板さえ買えない遺族の貧しさが分かる。棺が平地に置かれていたのは、この土地では、横死した人間は墓穴に入れない風習があるためという。
 曳き縄は、14歳の小柄な少年の肩に重く食い込んだだろう。疲労困憊した二人は、加勢を求めて村に走った。だが、戻ってきた時には、無情にも、棺は泥の中に沈んでしまっていた。
 「このまま、ここに葬りなさい」という村の年長者の言葉で、少年は縄から解放された。一家は新しい土饅頭を、棺の場所に盛った。
                    *   *
 約120年後、遼寧西部の大洼(だいわ)県東風鎮にあるその場所を訪れた。
 野鳥が群れる大湿原を突っ切る高速道路を抜けてインターを下り、しばらく走ると、小さな土盛り群を塀で囲んだ広場のような一角があった。
 「張氏墓園」
 立派な門に掲げられた四文字は、張学良が揮毫(きごう)したものだ。
 正面奥に、棺のあるじの名前が記された墓標が見えた。
 「張有財之墓」
 縄を曳いた少年、張作霖の父親の名だ。
 有財は、直隷からこの地に流れ着いた張家の始祖・張永貴の孫にあたる。その名前に込められた願いは、誰でもわかる。
 「お金に困りませんように……」
 だが、有財は金に困っていた。金が入る時もあったが、すぐに消えた。
 博徒だったのだ。父から分与された財産で雑貨店を開いたが、長続きせず、賭場に入り浸っていた。自ら賭場を開いていたという説もある。
 ある年の春節旧正月)後、有財は、同じく博徒の「王」という男に殺された。「覇王と革命」では、同時代人の証言から、賭博に勝った有財が王に返済を迫って殺されたという、よく知られる説を紹介した。だが、有財が負けた金を踏み倒そうとしたと記す文章もある。後頭部に致命傷を与えたのは、「石」、「刃物」、「足げり」など諸説ある。犯人の姓は「李」とも言われる。
 つまり、ほとんどは、藪の中である。
 事実として、はっきりしているのは、張有財が殺されたということ。そして、もう一つは、この殺人事件が、東北王・張作霖の出発点になったということだ。博徒とはいえ、大黒柱を失った一家は、粗末な家を売り、母親の里へと向かった。張作霖の大いなる一生は、ここから始まる。
 張作霖の家の跡は、「張氏墓園」近くにある。地元の人に教えてもらったその場所は、トウモロコシ畑になっていた。
                    *   *
 清朝に代わって中華民国が成立しようかという頃である。
 張作霖の下の兄、作孚が匪賊討伐の戦いで戦死した。作霖は、故郷に張家の墓園を造ろうと思い立った。
 その準備として、張有財の墓を調べた風水師は、驚嘆して張作霖に報告した。
 「お父上が葬られた土地は、宝の地です。お墓を移してはなりません」
 確かに、父の棺が自ら泥に沈んでからというもの、張作霖は、竜のごとく駆け上がってきた。有財の落命が、張作霖を激動の時代へと投げ込んだばかりではなかった。棺の中の有財は、故郷から走り出した息子の背中を押していた。
 張作孚の墓は、有財の墓の手前に置かれ、そこが墓園となった。
                      *   *
 張有財の棺と風水を巡る話は、様々な史書や報道系サイトに登場している。張作霖に限らず、中国人の多くは、風水を極めて重く見ており、実際に墓園ができたことからすれば、大筋で事実だろう。
 その中にあって、棺を曳く張作霖のエピソードを紹介する文章は、それほど多くない。残念ながら、事実かどうかを検証する力は、自分にはない。
 しかし、墓園の前に立つと、こうも思えてくるのだ。
 あの日、確かに、少年は舟を曳いていた。それは、父の棺だったかもしれないし、あるいは、自らの肩にのしかかる運命というものだったかもしれない。(2013年4月14日)

※参考資料:半島晨報、遼瀋北国網、華夏経緯網ほか、東北王張作霖画伝、我所知道的張作霖、奉軍、乱世梟雄張作霖、張学良遺稿、細説北洋張作霖

※写真は、張作霖が生まれた村に残る張氏墓園。墓園名のわきに張学良の名があります。