覇王ときどき革命

中国・清末民初のお話など

下から迫る者

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 1913年に国民党軍を一蹴した大総統・袁世凱は、北洋軍内部の一人の軍人を凝視していた。
 陸軍総長(陸相)の段祺瑞である。段は、軍の人事権を一手に握っていた。北洋軍高級将官の多くは、かつて軍人教育を担った段の教え子だった。
 独裁者は常に、猜疑心の霧に覆われている。袁世凱の目には、己を脅かす「北洋の虎」が下から迫ってきているかのように映っただろう。
 翌1914年5月、袁世凱は、「陸海軍大元帥統率弁事処」なる組織を設立した。陸・海軍、参謀部を統合した上部組織であり、段祺瑞は、「北洋の龍」・王士珍や、袁が雲南から呼び寄せた蔡鍔ら5人と同格のメンバーとなった。重要人事は、ここでの合議を経て、陸海軍大元帥たる大総統が決定する仕組みだ。袁は、組織改編という巧妙な寝技によって段の人事権を剥奪した。
 同年10月、袁世凱は、将校養成を目的とした教導部隊の模範連隊を新設、隊長ポストを長男・克定に与えようとした。袁にしては極めて異例という太子党(高級幹部子女)人事は、北洋軍を「段家軍」から「袁家軍」に変える意思表示であった。袁王朝の準備という明確な目的意識もあったかもしれない。
 段祺瑞は、その帝制にも、強烈に反対していた。帝制話を切り出した袁側近に「馬鹿も休み休み言え」と言い放った、と記す史書もある。
 袁世凱は、摩擦をなるべく小さくしようと思ったのだろう。模範連隊長人事の件で、段祺瑞に声をかけている。
 「芝泉(段祺瑞の字)、模範連隊だがな、克定にやらせようじゃないか」
 この問いには恐らく、忠誠心をもう一度測る追試の意味もあった。しかし、段は頓着しない。
 「だめです。彼は軍事のことは何も分かっておりません」
 袁世凱は、ここで段祺瑞を見限ったと思う。続く袁の言葉からは、あきらめがうかがえる。
 「では、段総長。私が隊長ではだめか」
 段祺瑞に意見のあろうはずもなく、模範連隊長には袁世凱自身が就いた。
 1915年5月、段祺瑞失脚。このあたりの経緯は「覇王と革命」で書いた。
 北京・西山での段祺瑞の緩い失脚生活からは、袁世凱らしい「恩」がうかがえる。清朝での宮廷闘争でも革命でも、袁の「恩」によって引き上げられた段は、最高の働きをした。「恩」は、武人たちをまとめあげた袁の力の源泉であった。同時に、それゆえの「甘さ」は、袁の力の限界線を引いた。
 失脚したナンバー2が帝制に公然と反対し続けているという状況が、蔡鍔や陸栄廷の反乱、段と並ぶ北洋の双璧だった馮国璋の離反につながり、皇帝・袁世凱をひきずり倒したといっても過言ではない。
 その点、数千万人の国民を餓死に追い込んだ毛沢東は違う。毛の極左路線を修正しようとした国家主席劉少奇は、奪権を図る毛が発動した文化大革命(1966~76)で迫害された末、69年死亡した。一時は毛後継者の地位を確立したかに見えた林彪(りんぴょう)は、文革中の71年、危険な猜疑の目を向けた毛の暗殺を謀って失敗、ソ連に逃れようとしてモンゴルで墜死した。
 北洋の大覇王・袁世凱は、下から迫り来る者に情けをかけ、それが命とりになった。唯物論を掲げる赤い大覇王・毛沢東は、仮借なく、挑戦者を奈落の血の池に突き落とし、一人、現人神(あらひとがみ)の領域へと足を踏み入れていった。
 毛沢東文革を発動したのは、袁世凱の死からちょうど半世紀後のことだ。この間、中国の覇王は、冷たい進化を遂げていた。 (2013年3月31日)

※参考文献:北洋述聞、袁世凱評伝、百年家族段祺瑞、洪憲帝制、我所知道的北洋三傑

※写真は、上が天津の段祺瑞旧宅。下が馬廠駅から旧砲台跡へまっすぐに伸びる道です。馬廠は、復辟戦争で段が挙兵した場所です。