覇王ときどき革命

中国・清末民初のお話など

山犬の正義

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 1930年代以降、日本軍と戦い、蒋介石と対立し、共産党と協力した馮玉祥(ひょう・ぎょくしょう)は、中国では、「愛国将軍」と評価されている。だが、軍閥混戦期の言動が作り出す馮のイメージは、それとは違う。奉天・直魯連合軍の勇将・李景林の言葉が実像に近いように思う。
 「馮の心には化け物が棲み、山犬か狼のごとく残忍である」
 裏切り、寝返りは、馮玉祥の代名詞である。呉佩孚や郭松齢らは、それによって地獄を見た。馮はまた、邪魔者や恨みのある者をためらいなく殺した。
 それだけではない。馮玉祥は、自らを人格者と宣伝して恥じなかった。「覇王と革命」では、陝西を離れる際の演説で、「弊履を捨てるように陝西長官の地位を捨てる」と言いたくて、ぼろ靴を脱ぎ捨てた話、「君子の交わりは淡きこと水のごとし」との寓意を込めて、呉佩孚の誕生祝いに水を贈った話などを紹介した。ほかにも、こんな逸話がある。
 1925年、段祺瑞の義弟である呉光新が、張家口にいた馮玉祥を訪ねると、夜、街に一つある映画館に誘われた。上映された作品のタイトルは、「馮玉祥の家庭生活」。スクリーンには、質素な暮らしが延々と映しだされる。段政権を支える国民軍司令官の機嫌をとりたい呉光新は、我慢した。だが、茅の小屋で読書していた馮のもとに子供が「お父さん、ごはんですよ」と呼びに来たシーンで、ついに立ち上がって言った。「こんなつまらんものはない」
 分かる、分かるよ、呉光新。つらかったね、と声をかけたくなる。
 誰かに「嫌いなの、馮玉祥?」と問われれば、正直にうなずくしかない。
 ただ、彼らは、彼らが生きた世界の価値観と掟によって生きている。
 このころ、兵たちは食うために軍に入った。軍に入れば、無事を願った。そうした兵たちは、「強い」馮玉祥のもとに集まったのである。1926年、国民軍は、馮不在の南口の戦いで叩きのめされ、兵力4000にまで激減した。ところが、馮が復帰すると、国民軍は再び数十万の大軍に膨れあがる。
 この時代、兵にとっても、将にとっても、勝利こそが正義だった。少なくとも、勝てば正義の側に回れた。
 どんなに手を汚しても、勝利という正義にひたすら忠実だった馮玉祥は、まさに「時代の子」だったのではないか。直隷の貧民街に生まれ、恨みとともに育ち、若くして革命にも手を染めた巨漢の軍人は、裏切り続け、殺し続け、勝つ側に回り続け、大軍閥へと成長した。馮が動けば、大軍が動き、大局が動いた。小粒で中途半端な他の裏切り者たちとは、スケールが違う。
 千変万化の軍閥史は、「山犬」とまで蔑まれた馮玉祥の動きによるところが大きい。中国の未来は、そのたびに翻弄された。だが、その揺れを作り出す馮自身は、まったくぶれていない。(2013年3月10日)
 
※参考資料:我所知道的馮玉祥、我所知道的呉佩孚、武夫当権、大国的迷失、武夫当国、北洋政府簡史、人民網

※写真は、北京南苑の東屋。第二次直隷・奉天戦争の前、馮玉祥と孫岳はこの場で裏切りの密談を行ったとも伝えられています。