覇王ときどき革命

中国・清末民初のお話など

「北洋」とは?

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 北洋軍閥、北洋政府、北洋の虎など、中国軍閥史には、「北洋」という言葉が頻出する。そもそも、「北洋」って、何だろう。2007年6月に南方週末紙に掲載された「『北洋系』はいかにして興ったのか」(雷頤・中国社会科学院近代史研究所研究員)などをもとに、「北洋」について簡単に記したい。
 歴史的に、他に並ぶ者なき「華夏の国」を自任する中国は、四囲の世界を文化や制度において遙かに及ばない「蛮、狄、夷、戎」と見なしてきた。清朝もまた、そうした外国が朝廷と対等に交渉する資格があるとは考えていない。
 英国とのアヘン戦争(1840年)で敗れた清朝は、広州、福州、アモイ、寧波、上海の五港を開き、その対外交渉に対応するため、五口通商大臣を設置した。ただ、外国と直接話し合わず、北京にも入れたくないという朝廷の姿勢に変わりはない。朝廷は、通商大臣の職務を地方官である両広(広東・広西)総督に兼任(後に江蘇巡撫が兼務)させることにした。
 1856年に勃発した第二次アヘン戦争で、清はまたも惨敗を喫した。清朝は、英仏などに北京への公使駐在を認め、対外交渉を担当する総理各国事務衙門の設立にも同意した。だが、朝廷はなお、外交の窓口を地方に置いた。
 戦争の結果、沿海部での開港地も増えた。地理的概念で「南洋」と呼ばれてきた長江以南では、開港地が五か所から十三か所に増えた。長江以北の「北洋」では、牛荘(遼寧)、天津、登州(山東)の三か所が新たに開き、南洋と同様、三開港地の通商事務を担当する大臣が天津に置かれた。各国の外交使節は、北京で交渉したいと思えば、まず天津で通商大臣と交渉しなくてはならなかった。
 ただ、もはや中華思想だけで国家が存立できる時代ではなくなっていた。洋務をいかに処理し、国防や経済、そして政治の近代化を進めていくかは、国、そして権力の帰趨を定める決定的な要因になっていた。中華の夢に閉じこもり、外交の大権を手放し、自ら改革の道を閉ざしていった清朝は、ここから坂道を転げ落ちるように滅亡に向かっていく。この当時の清末の歴史は、同時期の日本の幕末-明治維新史とは全く異なる軌跡を描いている。
 1870年、清朝は、三口通商大臣を、南洋にならって直隷総督に兼任させ、その職を北洋通商大臣と改めた。簡称が北洋大臣である。初代の直隷総督兼北洋通商大臣は、太平天国の乱を鎮圧した李鴻章だ。当時の李鴻章は、「国家の外交の全局の主宰者であるかのようだった」という。天津における彼の官衙は、清朝の事実上の外交部だったと伝えられている。
 都、朝廷の守護者たる直隷総督はもともと強大な兵権と地方行政権を持ち合わせていた。国防、外交の重鎮となった北洋大臣の配下にある「北洋系」は、李鴻章の死後に北洋大臣に就任した袁世凱の時代に、朝廷が制御できないほど巨大な勢力となっていく。清朝は、この二代目の北洋大臣に倒されることになる。 (2013年2月11日)

参考資料:南方週末、北洋集団崛起研究、直系軍閥史略

※写真は、保定の直隷総督署跡です。直隷総督兼北洋大臣だった李鴻章袁世凱はここで時代を動かしていました。