覇王ときどき革命

中国・軍閥の時代のお話など

徐樹錚の情景

きょうは徐樹錚(じょじゅそう)の命日だ。
 段祺瑞の側にあって軍閥の時代を動かした希代の軍師は、1925年12月30日午前1時半ごろ、当時北京を支配していた馮玉祥の命によって、北京郊外・廊坊の駅に停車した特別列車から降ろされ、駅近くで射殺された。
 月が昼のように輝いていた夜だったという。「非常に寒い夜だった」という史書の記述から、外気は零下10度を下回っていただろう。列車に乗り込んできた馮玉祥の部下10数人に下車を迫られた徐樹錚は、オーバーを着て、ベルトを締め、帽子をかぶった。その際、力づくでも連行しようとする兵士たちに対し、「この徐という男はな、生死にこだわったことなどない。囲まんでもいい」とたんかを切って、ゆっくりと外に出た。伝えられる徐樹錚の最後の言葉だ。
 一冊の史書が、その遺体が発見された時の情景について、こう記している。
 「オーバーも服も剥ぎ取られ、血に汚れた白い下着だけを着けていた」
 簡単に真偽を検証できることではない。ただ、中国社会を少しでも知る者には、非常にリアルな記述だろう。昔も今も恐るべき格差・階級社会である中国では、生き抜いていくために、廃棄物をバクテリアのように分解し、持ち去っていく貧しい人々の群れがいる。地表にうち捨てられて凍った大官の白い骸があり、どこかに、銃痕のある上等なオーバーにくるまる人がいる。小さくも、すさまじい、時代の情景である。
 そういえば、20世紀最初の年、山東・済南で徐樹錚が段祺瑞と出会ったのも、冬の寒い一日だった。そこから先の、氷原のようにスケールの大きい徐樹錚の策謀については繰り返さない。段祺瑞だけを見て、他のあらゆる強者を敵に回して臆することはなかった。その徐樹錚が最期を迎える場所は、冷え切った直隷の土以外になかったのではないか、という気さえしてくる。
 射殺される直前の日中、早く北京を逃れよという段祺瑞の必死の勧めも聞かず、徐樹錚は、別れを惜しむように、北京で精力的に活動をしている。その訪問先の一つに、自分が運営する中学校もあった。歓迎会に出席していたのだ。
 当時、教育予算の優先順位は限りなく低かった。権力、武力とは無縁の教員に対する給料遅配は当たり前だった。徐樹錚殺害を命じた馮玉祥は、学校教育などとは縁のないような、まだ辮髪をぶら下げた田舎の若者を好んで兵に採用している。
 そんな時代に、あの徐樹錚が学校を運営していたということは、記憶のどこかにとどめておいてもいい。生徒たちに迎えられた徐樹錚を想像すると、その笑顔が見えるような気がする。(2012年12月30日)

 ※参考資料:北洋政府簡史、百年家族段祺瑞、北洋軍師天梟徐樹錚、荒誕史景、武夫当国伍

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