覇王ときどき革命

中国・清末民初のお話など

北伐のエース

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 1927年夏、要衝・徐州で蒋介石の北伐軍を撃破した孫伝芳の大軍が南下、8月25日夜、長江を北から南に渡った。目標は、南京。蒋不在の中、孫軍を迎え撃ったのは、広西軍を率いる李宗仁である。
 前日、李宗仁は、軍艦艇に乗って長江を移動中、南京西方で孫伝芳軍の帆船群に襲撃されている。小舟が100隻以上見えた。大軍が集結しているのか。
 南京に戻った李宗仁は命じた。
 「総予備隊の8個連隊を直ちに出動させよ」
 来たるべき敵の上陸に備え、南京にあった予備兵力の各連隊が動き出す。だが、兵の足は、「東」を向いていた。李宗仁が襲われた「西」ではない。
 「間違いなく、あれは擬陣だ。我が主力を上流(西)に引きつけておき、隙を突いて下流(東)で渡河してくる」
 口述の回想録で、李宗仁は自らが襲われた「西」を捨て、「東」を選んだ判断について、あっさり語っている。
 その読み通り、孫伝芳は、6万の大軍を南京の東、竜潭一帯に上陸させた。「西」にいたのは、小さな陽動部隊だったことが確認された。
 李宗仁はなぜ、ためらいなく東に兵を出せたのか。同じ季節に竜潭付近を歩いた時、その根拠が少しだけ見えた気がする。
 そこには葦原があった。近くには、大型船が接岸できる埠頭もあった。なるほど、ここなら、大軍の作戦が可能だろう。歩兵は闇に紛れて小舟で秘かに渡河できる。浸透した歩兵が橋頭堡を築けば、重火器も陸揚げできるはずだ。
 李宗仁は、自らの戦闘の興奮に流されることはなかった。必然性と蓋然性によって導かれる合理的な結論に基づいて即断したのだと思う。
 予備軍が西に向かっていたら、「竜潭の戦い」の様相はまったく違ったものになっただろう。河岸の丘陵地帯の防衛線は破られ、孫伝芳軍は南京に突入し、武漢から南京をにらんでいた国民党左派の唐生智軍と合流していた可能性が強い。何応欽は南京を脱出して、上海方面で蒋介石とともに再起を図っただろう。李宗仁軍は、恐らく生き残れない。中国史パラレルワールドに突入する。
 だが、李宗仁軍は、孫伝芳の乾坤一擲の攻撃にかろうじて耐え、上海から来援した白崇禧軍とともに、孫軍を殲滅する。北軍は長江から遠く駆逐された。
 妙な例えだが、北伐のエースだった李宗仁の戦いには、バレーボールの王者のような迫力、凄みがあるように思う。奇策はない。力と速さと正確な読みで、相対する敵を堂々と撃破していく印象だ。弱い相手には何もさせず、竜巻のように蹂躙してゲームセットである。強敵に出会えば、相手の動きを読んでしぶとく守り、チャンスをつかんで強打を決める。
 竜潭では、敵のスパイクのコースを読み、正しくレシーバーを配した。その前年、湖北・賀勝橋で呉佩孚軍主力を粉砕した時には、突破した敵をかわして、その側面に移動攻撃を加えた。江西の南潯路(なんじんろ)では、鉄道線路沿いに展開した孫伝芳軍主力を、高い打点のクロスのように横からなぎ倒した。
 竜潭の戦いから11年後の1938年。日中戦争で連戦連勝を重ねていた日本軍の2個師団が、徐州に近い山東省南部・台児荘に向かった。だが、そこで予期せぬ強力な抵抗にあい、激戦の末、後退を余儀なくされる。
 日本軍が相対していたのは、李宗仁軍だった。李は、周辺に最精鋭部隊を含む大軍を集中させ、勝利を疑わずにアタックをかけてきた日本軍の眼前に、三枚ブロックのごとき高い壁を築いていたのだ。 (2013年7月21日)

※参考資料:李宗仁回憶録、李宗仁大伝、蒋介石大伝、武夫当国、新華網

※写真は、上が、棲霞山から見た長江。右手が竜潭側です。下が竜潭駅。孫伝芳軍はこの幹線を切断しました。

宋教仁暗殺

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 1913年の3月20日夜、国民党の指導者・宋教仁は、見送りの黄興、廖仲愷らとともに、上海駅にいた。宋は、強力な政敵になるであろう臨時大総統・袁世凱が待つ北京に向かおうとしている。
 「孫文、黄興など、気にするまでもない。遁初(宋教仁の字)の小僧だけがちょっと面倒だ」
 袁世凱は、周囲にそう語っていた。最強の北洋軍を握る大総統にまで不安を抱かせる男、それが宋教仁だった。
 宋教仁はこの時、三十一歳。革命期の寵児たちは、まばゆいほどに若い。
          *     *
 前の年、つまり中華民国元年の12月から年初にかけて、初の国会議員選挙が行われた。王朝を捨てた中国が「民国」たることを証明する選挙であり、年齢、税金納入額、学歴などで一定基準を満たした男性が歴史的な票を投じた。
 結果は、国民党の圧勝だった。衆議院定数596のうち269議席参議院274のうち123議席を獲得したのである。
 選挙を指揮したのは、党の実務を担当していた筆頭理事の宋教仁だった。理事長の孫文は、象徴的な存在にすぎない。
 両院で第一党を得た宋教仁は、過渡期の憲法にあたる臨時約法とそれを支える国会によって、袁世凱に挑もうとしていた。
          *     *
 北京行き列車の発車時刻まで5分になった22時40分、改札に入ろうとした宋教仁の背後に一人の男が躍り出た。
 パン、と銃声が響いた。続いてまた二つの銃声。
 宋教仁が倒れこんだ。
 近くの鉄道病院で緊急手術が始まった。一発の弾が、右側の腰から体内に斜めに入って腎臓をかすめ、大腸に二つの穴を開けていた。弾は摘出したが、出血が止まらない。弾には毒が塗られていたという。
 宋教仁は、黄興に託して、袁世凱に電報を送った。
 「大総統が真心を開き、正しい道理を広め、民権の保障に力を尽くされんことを伏してこいねがいます」
 22日午前4時47分、宋教仁死亡。
 袁世凱は「こんなことがあろうか」とうめいた。
 実行犯は、武士英という元軍人だった。逮捕後、獄中で死亡した武は、末端の鉄砲玉に過ぎない。
          *     *
 事件の背後にいたのは誰か。
 中国でこれまで、「史実」とされてきたのは、「袁世凱」である。しかし、近年、民国史の記述が自由になるにつれ、長い間封印されてきた異論が続出している。最も多いのは、孫文と関係が深い革命派の大物・陳其美を主犯と見なす説だろう。そうなると、事件は国民党内部の暗争ということになる。
 真相は分からない。確かなことは、約法と国会という制御装置を砕かれた幼い民国は、ここから暴走し始めた、ということだ。
 宋教仁を失った国民党は、たちまち「第二革命」の旗を立てて武装蜂起し、北洋軍にたたきのめされた。
 ちょうど百年前の出来事である。 (2013年7月14日)

※参考資料:北洋政府簡史、洪憲帝制、北京民国政府的議会政治、袁世凱評伝、人民網、新華網、鳳凰網(三聯生活週刊より)

※写真は、租界時代の面影を残す上海のバンドです。

高原の鷲

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 華北平原の西端から、大陸は突如天に向かって隆起を始め、巨大な台地群が波のようにうねりながら沙漠へとつながる。地表はパウダーのような黄土に覆われ、その底には石炭層が黒々と広がっている。山西は、そんな黄土高原に位置している。
 1924年秋、山西王・閻錫山(えんしゃくざん)は、省都・太原から、遠く渤海の戦況をにらんでいた。呉佩孚と張作霖という2頭の巨獣が、山海関で覇権をかけて激突していたのだ。第二次直隷・奉天戦争である。
 勝つ方につく、と決めている閻錫山は、単純明快な勝敗判定基準を部下に告げた。
 「敵の背後に回った方が、勝つ」
 呉佩孚側で馮玉祥が寝返り、勝敗の天秤は一気に傾いた。だが、閻錫山は動じない。将領たちに定例会議で告げた。
 「山西は一貫して『保境安民』を守ってきた。勝敗がどうであれ、敗兵の騒ぎを防ぐため、兵を出して(直隷との境)娘子関の防衛を強化する」
 境界を固く守り、内部の安定・充実を優先する「保境安民」は、辛亥革命(1911年)以来、この地を治める閻錫山の基本路線だった。
          *     *
 「これじゃあ、閻錫山のレールとおんなじだ」
 はるか後年、改革・開放の時代になって、中国の知人から、こんな表現を何度か聞いた。閻が山西に敷いた鉄道レールの幅は狭く、他地域との相互乗り入れができなかった。「閻のレール」は、地方保護主義や閉鎖性の代名詞となっているのだ。
 だが、現実の閻錫山は、一人、天空の地に「模範省」を造りあげていた。
 水利事業、植樹、養蚕で、乾いた高原での産業振興基盤を作り、棉花、造林、牧畜も大いに奨励した。鉱業、鉄鋼業、軍需産業にも力を注いだ。辮髪を切らせ、アヘン、纏足を厳禁した。村を核とした地方自治、学校教育の普及に努め、小学校で学ぶ児童の割合は全国最高レベルだった。孤児院も運営した。
 古い、分かりやすい言葉でいえば、閻錫山は、「名君」だった。兵の増強だけに熱中した凡百の軍閥とは次元が違う。
          *     *
 閻錫山は、軍閥混戦の世から目をそらしていたわけではない。黄土高原の巣で、羽毛が生えそろうのをひたすら待っていたのだ。その羽の充実を感じた時に勃発したのが、第二次直隷・奉天戦争だった。
 奉天軍が万里の長城を越え、ついに呉佩孚軍の背後に回り込んだ。勝敗は決した。
 閻錫山は、将領たちに向かって、翼を広げるごとく宣言した。
 「兵を出す時が来た」
 「保境安民」を捨てた鷲が、高原から舞い上がった。
 華北平原に出現した山西軍は、直隷・石家荘に進出し、北京と武漢を結ぶ京漢鉄道を切断、長江流域にあった呉佩孚麾下の部隊の北上を阻止した。ほとんど戦わずして勝利に大きく貢献した閻錫山は、勝者の列に連なった。
          *     *
 閻錫山は、飛ぶたびに強くなった。
 「覇王と革命」で触れたように、一瞬の隙を見て、張作霖から蒋介石へと飛び移る見事な外交手腕も見せた。
 第二次直隷・奉天戦争からわずか4年後の1928年、閻錫山は「国民革命軍第三集団軍総司令」という大きな存在となり、蒋介石、馮玉祥、李宗仁という大軍人たちと肩を並べて北京に軍を進めている。 (2013年7月7日)

※参考資料:我所知道的閻錫山、閻錫山伝、山西王閻錫山、中華網、東方網、人民網

※写真は、上が乾いた大地が果てしなく続く黄土高原(陝西省)、下が山西省大同の炭鉱街です

白い戦場

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 泥の濁りがまじった雪原の道路わきから、同じように薄汚れた白い子犬が、じっとこちらを見ていた。二つの目は、黒真珠のごとく濡れて動かない。
 厳寒の季節、遼寧省新民市の郊外、巨流河という村を訪れた。付近を流れる遼河は、かつて、村と同じ雄大な名前で呼ばれていた。
 1925年のクリスマス前、この一帯の雪原で、奉天の最精鋭部隊を率いて張作霖に反旗を翻した郭松齢の軍と、張がかき集めた奉天本軍の計十万以上が凍った大河をはさんで激突した。
 「覇王と革命」では、軍閥混戦期の幾多の戦いを書いた。その中で、郭松齢の乱ほど、滅びゆく者の運命を正確に指し示しているものはない、と思う。
 なにしろ、そこに勝者がいない。
 戦闘自体は、張作霖軍が郭松齢軍を圧倒し、郭は妻とともに銃殺された。だが、中国最強だった奉天軍閥は、この骨肉の争いによって、一夜で白髪に変わった闘士のごとく衰えた。北方の覇王の時代も、大きく傾いた。
          *     *
 寒さで顔がこわばる。ダウンコートの襟をぴっちり絞め、フードを頭からすっぽりかぶった。「巨流河の決戦」は、この寒さの中で進行した。
 「後方」を持たない孤独な大軍は、連戦連勝で奉天に一歩一歩迫っていた。だが、日一日と兵士たちは飢え、その手足は凍傷で黒く変色しつつある。
 中国新聞網が掲載した「時代商報」の記事は、当時の民の怨嗟の声を紹介している。
 「郭鬼子(グイズ)は餓鬼の群れを引き連れ、私たちの一年分の食糧と柴を食い尽くし、燃やし尽くしてしまいました」
 同じ記事には、こんな記述もある。
 「十二月二日から三日にかけて大雪が降り、気温は零下二十度まで下がった。郭軍の兵士はまだ、夏物の服を着ており、多くが凍傷にやられた」
 「戦後の統計では、(郭軍の)凍傷患者は7000人以上に達していた」
 酷寒によろめく軍を率いる郭松齢は、参謀・鄒作華(すうさくか)の進言をいれ、決戦前に三日間、兵を休ませた。
 奉天防衛線構築を急ぐ張作霖は、何より貴重な時間を手に入れた。
 鄒作華は、張作霖に内通していた。だが、それは裏切りなのか。本来の主君に対する忠誠ではないのか。鄒作華によって助かった命はどれだけあるか。
 白い戦場では、無数の裏切りと忠誠、そして生命が、吹雪のように飛び交い、交差していた。
          *     *
 決戦の結末は、あっけなかった。
 張作霖の騎兵師団が、白旗堡という京奉鉄道沿いの鎮(町)にあった郭松齢軍の貨車、物資集積場を襲撃し、郭軍の生命線である食糧弾薬を焼いた。その黒煙の中で、大軍の心臓は停止した。
 白旗堡という鎮は、今はない。中国を飢餓地獄に突き落とした毛沢東極左運動「大躍進」が始まった1958年、「紅旗公社」という名の人民公社になった。その後、「大紅旗公社」、「大紅旗鎮」と改められ、今に至る。
 「白旗」が「紅旗」に変わっても、雪は降る。通りから少し歩くと、また雪原に出た。
 雪はすべてを隠し、雪原はすべての音を吸い込む。貨物列車が通過すると、少しの間だけ、雪原はにぎわう。
 十万の兵士たちの吶喊も、銃砲声も、命も、すべて1925年暮れの雪に吸収されたまま、どこかに消えた。寒さだけが、昔と変わらない。 (2013年6月30日)

※参考資料:中国新聞網(時代商報より)、武夫当国、北洋政府簡史、東北王張作霖画伝、新民市大紅旗鎮人民政府網

※写真は、上下とも遼寧省巨流河村で

 

密偵・呉佩孚

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 1900年、義和団の乱が、清軍と八か国連合軍との戦争に発展した。天津・大沽砲台にいた26歳の下士官・呉佩孚の戦いについて、伝記はこう記す。
 「大隊長以下はみな退却し、一人で砲台を守った。外敵の嘲りに憤り、三発射ち、すべて命中させた」
 だが、清軍は惨敗。戦後、外国軍が続々と進駐してくる中で、呉佩孚は、北洋軍の参謀養成機関に入り、専門の測量のほか、西洋や日本の兵書を研究、兵器、戦略戦術、偵察、陣地攻撃などの新知識を貪欲に吸収した。
 1904年2月、今度は満州で日本とロシアが激突、衰えた清朝は、局外中立を宣言するしかなかった。ただ、強奪同然に満州支配を広げていたロシアに対する反感は強く、清は日本を秘かに支持している。
 暗黙の協力の一つとして、日本軍の密偵機関に、北洋軍の精鋭将校16人を参加させている。30歳の呉佩孚も、そこにいた。義和団、北洋軍、日露戦争……このあたりの歴史と呉佩孚の年譜を重ねると、時代が、天才というものを育てる階段を用意したかのようにさえみえる。
 呉佩孚は、遼東半島西岸に入った。布売りなどに変装し、小分隊を率いて、復州から営口一帯で、ロシア軍の兵数、動き、装備を探り、日本軍の上陸、奉天方面への北上、そして半島先端部の要塞・旅順の攻略に貢献した。
 情報収集を任務とする密偵は、大胆であらねばならない。同時に、それ以上の小心さが求められる。民間人の通報一本が死につながるのだ。誰もが「没法子」(メイ・ファーズ=中国語で「方法(法子)がない」「どうしようもない」)と尻込みする場面が多い。
 だが、呉佩孚は、そんな時にしばしば言った。
 「有法子」(イョウ・ファーズ=「方法はある」「なんとかなる」)
 千変万化の戦場にあって、呉佩孚には、他の誰にも見えない一本の細い活路が見えた。勇猛さと新しい軍事知識は、彼の天才を助けたに違いない。
 日本の軍人たちも、呉佩孚には一目置き、「有法子先生」と呼んだ。呉は日本の勲章も授与された。
 呉佩孚は、旅順港に潜むロシア艦隊偵察で、こんな提案をしたという。
 「昼夜かまわず漁船をロシア軍の前に出し、彼らが麻痺したところで、漁船の中に日本の情報船を紛れ込ませればいい」
 呉佩孚も、日露戦争を戦っていたことが分かる。海陸で鋼鉄がぶつかりあい、大量の血が流れ、情報や補給が死命を制する近代戦というものを身をもって体験していた呉が、軍閥の時代に強者たりえたのは、必然だったのかもしれない。
 旅順戦後では、こんな逸話が残っている。
 ある日、奉天北西の新民で開かれた秘密会議に出席しようとした呉佩孚は、途中、ロシア軍にスパイ容疑で逮捕された。所持品から地図や文書が出てきたのだ。ロシアが支配する黒竜江ハルビンに送られることになった。このままいけば、処刑は免れない。絶体絶命である。
 呉佩孚は、ハルビンに向かう列車から、隙を見つけて飛び降りた。より正確に言えば、見張りのロシア兵に、たばこを渡して隙を作らせた。
 「法子」はあった。
 やがて「中国最強」と呼ばれる密偵は、死地を逃れ、大きな両眼を輝かせながら、再び満州の野に消えた。 (2013年6月23日)

※参考資料:呉佩孚伝、北洋乱、新華網(文史天地より)

※写真は、上が天津の大沽砲台跡、下が遼寧(旧奉天)新民近くのトウモロコシ畑です。

最も暗黒なる一日

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 1926年4月20日に、段祺瑞が側近らとともに北京を去ったことは、先に書いた。 そのひと月前、3月18日の話をしておきたい。
    *   *
 北京の春は、強風と砂塵の季節である。ただ、その日は曇りで、時折、小雪が舞っていたという。
 段祺瑞の執政府は、故宮の東北、鉄獅子胡同(フートン)にあった。張自忠路と改名された今も、段政権の中枢だったゴシック風建築は現存している。
 午後1時半ごろ、列強が政権に突きつけた最後通牒拒否を叫ぶ数百~数千人規模の群衆が段祺瑞との面会を要求、執政府の門前で衛兵隊とにらみあった。
 ソ連に操られた共産党北方区委員会書記の李大釗(りたいしょう)、国民党の徐謙らが組織したデモで、拳銃を持っている者もいた。
 衝突の経緯は、はっきりしない。近年発表された文章は、「どちらが先に発砲したか分からない」という趣旨のものが多い。疑問の余地もない事実は、ここで惨劇が発生したということだ。
 「血肉横飛」
 中国語では、そう表現されている。銃弾に貫かれ、棍棒で殴られた青年たちの頭や胴体から血が噴き出した。
 小雪散る政府の門前は血に染まった。死者数は実に47人、負傷者はその何倍もいる。衛兵にも死者が出た。
    *   *
 すでに『狂人日記』や『阿Q正伝』という革新的な作品を世に出していた作家・魯迅は、当時、北京の阜城門に住んでいた。犠牲者の中には、魯迅の愛読者だった二十二歳の女学生もいた。
 事件当日に書かれた『花のない薔薇 二』からは、魯迅の筆圧さえ伝わってくる。
 「大殺戮」「虐殺」「残虐」「禽獣」「虎狼」「滅亡」「血」……4頁ほどしかない本文に、魯迅は、強烈な言葉を煉瓦のごとく使った。
 例えば、群衆側を非難した政府発表に対しては、「墨で書いた戯言で、血で記した事実を覆い隠すことなどできない」と記した。
 濡れた碑文のような小品で、最も知られているのは、本文の後にわざわざ追加された一言だろう。
 「三月十八日、民国以来、最も暗黒なる一日に、記す」
    *   *
 事件当時、段祺瑞は執政府にはいなかった。だが、47人もの青年たちが命を落としたという事実は、老いた「北洋の虎」の精神に重い衝撃を与えた。
 政治宣伝を排した客観的記述に定評がある歴史雑誌「炎黄春秋」は2009年、犠牲者追悼会での段祺瑞について、孫娘の証言を掲載している。
 「皆の前で長く跪き、立ち上がれませんでした。終身、菜食を通して罪をあがなうとも誓いました。誓いは、病気になっても守られたのです。医者は、栄養を摂るよう勧めたのですが、臨終まで菜食を貫きました。彼は重い脚の病を患っていましたが、苦痛を顧みることもなく、長く跪いたままでした」
    *   *
 63年という長い時を経た1989年、段祺瑞の時代とは比較にならない数の学生、群衆が、民主化を求めて天安門広場を埋めた。6月4日、共産党の軍・人民解放軍が、民衆に発砲しながら、広場や、党・政府の中枢である中南海付近の目抜き通りを制圧、桁違いに大量の血が流れた。
 「天安門事件」と呼ばれる惨劇も、発生からほぼ四半世紀がたった。だが、現政権は今なお、国内の作家が「最も暗黒なる一日」と書くことさえ許さない。霊前に跪き、菜食を通した最高指導者がいたとも聞かない。
 「我が国の政府の門前は死地である」
 天安門事件について語った言葉ではない。1926年3月25日、鉄獅子胡同の衝突から一週間後に、魯迅はそう書いている。 (2013年6月16日)

※参考資料:国民軍史綱、文武北洋、我所知道的北洋三傑、百年家族段祺瑞、華蓋集続編、炎黄春秋、光明網(鳳凰網より)

※写真は、上が旧段祺瑞執政府、下がその門前の3・18事件現場跡。小さな記念碑があります。

その手にあるのは、近代

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 論語や春秋といった四書五経をそらんじ、詩文をよくする。「忠」とか「仁」とかの概念について果てしなく語れる。科挙を勝ち上がるトップエリートもいれば、なぜか竹林に隠れて賢人と呼ばれる者もいる。中国古来の知識人の大雑把なイメージだ。
 中国が嵐の中で近代へと突入する清末から軍閥混戦期にかけて、このイメージを打ち破る破天荒の大知識人がいた。梁啓超だ。
 「たとえ全国四億人のうち三億九九九九万九九九九人が皆賛成したとしても、梁某一人は断じて賛成できない!」
 1915年、皇帝になろうとした袁世凱に、梁啓超がたたきつけた言葉だ。古の知識人のように、抽象的な道理を説くこともなければ、百科事典的頭脳から伝説上の名君を取り出して諫言することもない。痛快である。
 1898年、戊戌の権力闘争で光緒帝に付いて敗れた梁啓超は、西太后の追捕の手が迫るや、たまたま北京を訪れていた伊藤博文が滞在する日本公使館に転がり込んだ。
 そのまま亡命し、東京牛込に居を構えた梁啓超は、明治日本に蓄積されていた維新の経験、西洋式近代思想の大海に驚嘆、研究と啓蒙活動に没頭した。梁を通じて膨大な「近代」が、日本から中国に渡った。
 日本では、「吉田晋」という名を使った。維新に殉じた吉田松陰高杉晋作から名を拝借したところが、国を動かすことに熱中する梁啓超らしい。その名自体がすでに、思想であり、行動である。
 袁世凱との闘いに戻ろう。
 ほぼ14年間にわたる亡命生活の後に帰国、梁啓超は、大総統・袁世凱と協力した。だが、袁が皇帝への道を歩んでいくにつれ、その亀裂は広がっていく。梁はこの時、民国の根幹である共和制を守ろうとしている。
 勝負の年となった1915年の1月、梁啓超は、袁世凱の長男・克定から宴に招かれた。行ってみると、克定の脇には、君主立憲論者の楊度もいる。
 「共和制は中国の国情に合わないのではないか」
 皇太子の座を狙う袁克定は、そんな言葉で帝制への同意を迫る。だが、梁啓超は、「国体研究はほとんどしておりません」と切っ先をきわどくかわした。
 3月、梁啓超は、21か条交渉を巡る反日ムードと帝制に向けた空気が色濃く漂う北京を去り、天津イタリア租界の邸宅で、袁世凱を打倒するための壮大な構想を練る。ここから先は「覇王と革命」に書いた。
 護国戦争は、梁啓超の戦だったといえるだろう。
 弟子の蔡鍔を西南の辺境・雲南から挙兵させ、やはり北京から遠い広西の陸栄廷、南京の馮国璋を巻き込みながら中央政権を倒すという戦略的発想は、恐ろしいほど的中した。薩摩・長州が中心となった倒幕の過程を連想させる。
 袁世凱が斃れた翌年の1917年、今度は、清朝を再建させる復辟事件が起きた。梁啓超は「私は戦はだめだ」などと言いつつ、反復辟の兵を挙げた段祺瑞の陣に加わり、再び王朝を倒した。
 残された写真を見ると、洋服がよく似合う。そんな知識人は、中国史上初めてだったかもしれない。その手には、剣も、銃もなかった。ただ、筆があった。中国の近代を記していたのではない。自在に動くその筆が、中国の近代を創っていた。 (2013年6月9日)

※参考資料:梁啓超伝、袁世凱真相、瑰異総統袁世凱袁世凱与近代名流、我所知道的北洋三傑、人民網

※写真は、上が、天津にある梁啓超故居に置かれた梁の像、中が、故居に展示された「異哉所謂国体問題者」文面のパネル。下は北京郊外の梁啓超墓所です。