覇王ときどき革命

中国・清末民初のお話など

贄(にえ)の街

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 死線をくぐりぬけ、運良く生き残った兵士たちの前に、占領したばかりの街が、褒美の贄となって身を横たえている。
 半ば焦土になっていても構わない。巻き貝のように門を固く閉ざし、息をこらした商店や民家には、金が、財が、食い物が、酒がある。女が隠れている。
 肩には銃。興奮に震え、「掠」、「淫」といった見えない刻印を額に浮かべた兵士たちが、あふれ出す欲望と競争するかのように走り出す。
 略奪姦淫を餌に、兵に死に物狂いの働きを求める悪習は、清末から民国初期にかけて、珍しくなかった。近代思想に基づく強軍建設を進めた袁世凱は、厳罰による軍紀粛清に乗り出したものの、この国に満ちる軍隊から「焼殺姦淫がないと戦えない」という古来の発想が消えることはなかった。
 今からちょうど100年前の1913年、孫文、黄興らを中心とした革命勢力が、大総統・袁世凱を打倒すべく、長江流域を中心に大軍を動かし(第二革命)、粉砕された。
 革命軍最大の根拠地だった南京には、北洋直系の馮国璋、清朝への忠誠を失わぬ辮髪将軍・張勲という2人の大将が向かっている。功を焦る張は、犠牲を厭わず、攻めに攻め、南京に入城した。悲劇はここで起きた。
 軍閥時代の大記者・陶菊隠は、その模様について次のように記している。
 「南京は人の世の地獄と化した。勢力範囲を分割するかのように、雷震春の獣軍は南門、張勲の獣軍は北門にあり、家から家へと略奪を重ねた。天井板から溝まで、すべて獣軍に厳しく改められ、壊された。残ったのは、持ち去れない地面だけだ。一つの家が何度も襲われ、奪い尽くされた末に獣軍によって焼かれた。強姦が同時進行した。秦淮河に身を投げて自殺した女性は多い……」
 陶菊隠は、民を襲った部隊を、人間の軍と呼ばなかった。
 第二革命が扉を開いた軍閥の時代にも、悲劇は続く。血走った眼をした集団が、気まぐれな赤潮のように、街を、村を襲った。
 集団による掠奪強姦はまた、軍人が、役人、名士、商人、果ては大総統までも脅し上げる材料となった。要求を拒まれた軍人は、こう言って相手に再考を迫るのだ。
 「飢えた兵が騒ぎを起こしても知りませんよ」
 「分かりました。では、部下に3日間の自由行動をさせましょう」
 軍閥が、陶菊隠の言う「人の世の地獄」を生んだのは間違いない。「覇王と革命」でも、大規模な放火略奪、集団強姦事件、軍人の脅迫、さらには籠城都市の悲劇などを、たびたび取り上げた。
 軍閥打倒をスローガンに掲げた革命勢力も、救世主とはなりえなかった。それどころか、革命の名の下で、軍人が民を一時的に蹂躙する軍閥統治よりも、はるかに陰惨な現象が生じた。民と民が果てしなく殺し合うシステムが出現したのだ。経済活動は破壊され、人々は、略奪、私刑に熱中した。報復の車輪が回るたびに、人間社会が崩壊していった。武漢、広州という大都市が革命の贄となった。
 群雄がぶつかりあう軍閥の時代は、時に、地下室の饗宴とでもいうような暗い華やぎを見せる。ろうそくの火が急に明るくなったように感じる時、街が燃えている。 (2013年5月12日)

※参考資料:軍紳政権、武夫当国、直系軍閥史略、人民網

※写真は、雨にけむる武昌の街。ここもかつて、悲惨な籠城戦の舞台となりました。

ベストイレブン+1

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 「覇王と革命」のカバーに、軍閥の時代を代表する11人の名を載せた。時代の扉を開いた袁世凱に始まり、安徽系の段祺瑞・徐樹錚、直隷系の馮国璋・呉佩孚、奉天系の張作霖--と北の三大軍閥が続き、南北間で激しく動いた馮玉祥をはさんで、南の雄が並ぶ。国民党の孫文蒋介石、広西系の李宗仁、共産党毛沢東。各チーム選抜選手で作ったベストイレブンのようなものだ。
 名前を載せたい人物は多い。だが、スペースの都合で選手枠が限られている上は是非もない。断腸の思いで絞った各チーム代表は、常識的な線に落ち着いた。
 その中で唯一、広西系だけは、ぎりぎりまで迷った。
 広西枠は「1」と決めていた。北伐軍最強の第7軍を率い、一時は南京国民政府の中心に立ち、後年、日本軍とも戦った李宗仁は、外せない。ただ、悩ましいことに、対抗馬も、決して劣っていない。
 壮(チワン)族の武人、陸栄廷だ。
 南寧北方の貧農の家に生まれた。幼くして父を殺され、母も病死した。少年時代は、乞食をし、廟に寝て命をつないだ。はたちのころ、広西西部の竜州でフランス人宣教師の飼い犬を殴り殺してしまい、ベトナムとの国境地帯に逃れた。
 そこで秘密結社の頭目となり、国境線を越えてフランス人や金持ちの財物を略奪する。貧しさを嘗め尽くした陸栄廷は、こんな誓いを立てていたという。
 「貧者から奪わず。中国人から奪わず。付近のベトナム人から奪わず」
 当時、長く清の支配下にあったベトナムも、フランスに奪われようとしていた。中国人は、侵略者や腐敗役人らを懲らしめる盗賊を「義盗」「侠盗」と呼ぶ。洋人の財を掠め取る陸栄廷もまた、そう呼ばれた。
 1884年、ベトナムの支配権を巡って清仏戦争が勃発。陸栄廷も手勢を率いて参戦した。その戦いについて、広西の地元テレビ局のサイトは、やや時代がかった漢文調でこう記す。意味は明瞭だろう。
 「経常神出鬼没、奇襲法(仏)軍、作戦勇敢、法軍聞之喪胆」
 陸栄廷の奇襲攻撃を恐れ、胆魂を失ってあわてふためくフランス兵が見えるようだ。戦争の後、陸は官軍に組み入れられ、革命の嵐に乗って広西を束ねていく。射撃の天才としての伝説も残した。
 軍閥混戦期の陸栄廷については、改めて記すまでもないだろう。新皇帝に戦いを挑んだ陸の狙いすました強烈なカウンターパンチは、ベストイレブンの先頭に立つ袁世凱をマットに沈め、段祺瑞には膝をつかせた。陸は、広西、広東という大版図を切り取り、南から覇を唱えた。もともと戦力的には隔絶していた北と南が長い対立局面に入ったのは、陸の力によるものだった。
 草莽の義盗から身を起こした陸栄廷は、間違いなく、中国史を彩る豪傑、英雄、奸雄たちの流れに連なっている。軍閥の時代は、古典の世界と、現代中国の境界にある。陸は旧世界側の列伝の末尾に入る武人の一人だった。
 1924年、三者鼎立の広西で戦が始まった。後に新広西系と呼ばれる李宗仁、黄紹竑(こう・しょうこう)、白崇禧(はく・すうき)の連合軍は、残る二者、陸栄廷軍と瀋鴻英軍のいずれに付くか、いずれを滅ぼすかを検討した。
 李宗仁は軍議でこう語ったと伝えられている。
 「陸栄廷軍には善行が多い。陸を討って民心を動かすのは容易ではない」
 「民心」という当時としては最も厳しかったであろう基準で、ライバルに評価された陸栄廷。そして、その基準をもってライバルを評価した李宗仁。
 広西系の代表を決めるのは、やはり難しい。 (2013年5月5日)

※参考資料:桂系軍閥、桂系三雄、荒誕史景、白崇禧口述自伝、中華民国歴史上20大派系軍閥、広西電視網、人民網(桂林晩報より)

※写真は、陸栄廷が本拠を置いた桂林の風景です。

日月輝く国

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 1922年6月16日、孫文が広州から追放された。陳炯明(ちん・けいめい)麾下の軍が、未明から観音山の総統府を砲撃し、圧倒的な兵力をもって、そこの主人である革命家を追い出したのだ。
 孫文と陳炯明の路線対立については、「覇王と革命」で書いた。ここでは、孫追放後の陳の発言を取り上げたい。重しがとれた解放感もあったのか、陳は、外国人に対し、理想の国家像というものを繰り返し語っている。
 陳炯明の発言、書簡、電文などを広く収録した「陳炯明集」(中山大学出版社)によると、孫文追放直後の6月27日付米紙ニューヨーク・タイムズで、陳は、中国統一のための2大原則を示している。
 (1)米国の連邦制度に学び、中華合衆国(United States of China)を成立させる。
 (2)上海で全国会議を開き、軍縮と督軍(軍政長官)廃止を話し合う。
 陳炯明は、これに基づいて、北京政権と統一協議をしたいと語った。
 8月には、外国の報道関係者にこう述べている。
 「米国にあるような憲法を、中国が持つことを渇望しています。幅広い自治権を各省に与え、民政を受け持たせます。国家の軍事、司法、外交については、中央のしっかりした政府が管轄し、指揮することになります……私は統一を強く主張します。統一のためには、まず憲法を制定しなければなりません。武力によって民国を発展させようという計画には、私は強く反対します」
 9月6日に訪ねてきた米国領事に、陳炯明はやはり、米国のような連邦制国家への希望を語った。「憲法改正が成ったら北と協力するのですか」という領事の問いかけには、「そうです」と答えた後で、付け加えている。
 「袁世凱、段祺瑞、孫中山孫文)、そして今の呉佩孚は、みな武力で中国を統一しようとしていますが、これは間違っている。正しいやり方は、法律による中国統一です。言いかえれば、よき憲法を制定し、これを公布、実行することです」
 少年のころ、夢の中で、日と月を両手に抱いた陳炯明は、帝王の相に恥じず、海の向こうにある巨大な民の国・アメリカ合衆国~「United States of America」のごとき国家を思い描いていた。孫文を放逐した時、日月輝くその国は、おぼろげではあっても、手が届くかもしれないと思えるところにあった。中国の未来に新たな可能性が生じていた。
 だが、追放された孫文は上海で再起した。そのもとには、蒋介石がいた。背後には、ソ連がいた。革命勢力は、やがて陳炯明を打倒し、「中華合衆国」も蒸発する。孫文は「中国革命の父」として、陳は「国父に反逆した軍閥」として、革命史に刻まれることになる。
 「United States of China」。この英語をネットで検索すると、ニューヨーク・タイムズの記事に関する陳炯明の記述とともに、2010年にノーベル平和賞を受賞した中国の民主活動家・劉暁波(りゅう・ぎょうは)氏に関する文章も出てくる。現在の共産党独裁体制の変革を目指して劉氏が起草し、2008年にネット上で発表された文書「08憲章」は、「中華連邦共和国の樹立」を唱えていた。劉氏は政権転覆を扇動したと見なされ、投獄された。
 「覇王と革命」を執筆中、陳炯明の退場について、はじめ、「『中華合衆国』--陳炯明が描いた夢は永遠に消えた」と書いた。
 違う、と思った。キーボードをたたき、「永遠に消えた」を、「封印された」に改めた。 (2013年4月28日)

※参考資料:陳炯明集、歴有争議的陳炯明、孫中山年譜長編

※写真は、広東の黄埔軍官学校跡です。陳炯明は、ここでソ連式の教練を受けた蔣介石軍に倒されました。

海の逃亡者

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 1894年9月17日、日清両国の主力艦隊が黄海で遭遇、火炎と黒煙がたちまち午後の海を覆った。
 丁汝昌率いる北洋艦隊の主力戦艦・定遠鎮遠は、豪雨のごとき砲撃に耐えて反撃した。砲弾を撃ち尽くした巡洋艦・致遠は、日本の巡洋艦・吉野めがけて体当たりを試みたが、魚雷を受けて轟沈した。生存者はわずか7人。致遠の突進は、「中国海軍史上、最も悲壮な一幕」として語り継がれている。
 清軍は奮戦した。だが、海戦は、日本側の圧勝に終わった。司馬遼太郎の『坂の上の雲』に、こんな一節がある。
 「戦闘四時間半で、清国艦隊は十二隻のうち四隻が撃沈された。経遠、致遠、揚威、超勇であった。さらに広甲が擱座した。が、日本側は一艦も沈んでいない」
 最後に記された「広甲」。この艦に虫眼鏡をあててみたい。
 広甲は、全長約67メートル、排水量1290トン、15センチ主砲3門を備えた巡洋艦である。黄海海戦では、指揮艦・済遠と戦隊を組み、最左翼に位置した。ところが、海面泡立つ激戦のさなか、済遠が戦場から遁走を始めてしまった。これを見た広甲も、炎と煙の海を離脱する。その後、おびえるように大連湾の沿岸部を航行中、擱座したのだった。
 海戦から6日後の9月23日、広甲は日本艦隊に発見された。艦長以下、高級幹部は、ボートでいち早く脱出した。置き去りにされた者たちは、日本軍と戦うか、降伏するか、泳いで陸地まで逃げるしかない。
 艦上には、間もなく満30歳になろうかという士官が残されていた。彼は、船乗りなのに、泳げない。なんと、私物の救命衣を身につけていた。ちょうど1年前の9月、広甲が遠洋航海に出た際、用心深い彼は、護身衣を広州で買い求めていたのである。
 その広州でのこと、艦内に病人が出て、幹部と同郷人という医者が呼ばれたのを、彼は覚えている。名を「孫逸仙」といった。初めて見る孫という男は、医者のくせに、艦上のあちこちで民族の危機を訴えていた。
 それはともかく、今は、日本艦が迫ってくる。士官はおそらく救命衣に手を当て、逃げることを選び、他の12人とともに海に飛び込んだ。
 浮いた。広州で買った品物は、実に、陸地に漂着するまでの3時間余の間、泳げぬ彼の顔の位置を水面上に保ってくれたのである。後年、彼の息子はこう話している。
 「他の12人のうち8人は、溺れたり、敵に撃たれたりしました……」
 九死に一生を得た彼は、海軍基地のある旅順へと歩き始めた。
 だが、済遠、広甲の両艦乗員は逃亡者の烙印を捺されていた。済遠艦長は敵前逃亡の罪で処刑され、広甲艦長も解任された。命拾いした士官も、数か月間、監禁され、海軍から追い出された。水に落ちた猫のごとく哀れな姿となった彼は、とりあえず陸で仕官先を探すしかなかった。
 その時、誰が想像しえただろう。日本に敗れた清朝の没落と反比例するかのように、彼が、孫逸仙、つまり孫文をいただく革命軍の司令官となり、中華民国副総統となり、大総統になることを。運命の曲線とは、かくも面白い。
 「覇王と革命」では、彼のことを「民国史上、最も強い運の持ち主かもしれない」と書いた。
 彼の名は、「黎元洪」という。 (2013年4月21日)

※参考資料:坂の上の雲、黎元洪伝、百年家族黎元洪、北洋海軍艦船志、孫中山年譜長編、新浪網(艦船知識網絡版)

※写真は、威海・劉公島の博物館に展示された広甲の模型

※この文章を書いた後で、済遠の離脱は逃亡ではないという有力な説に接しました。現時点では、主流の解釈に従う形で、オリジナルの文章のまま掲載しておきます。いずれ修正しようかとも考えています。

少年と舟

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 少年は舟を曳いた。
 暴れ川の氾濫によって泥田のようになった秋の大地で、いとこと二人、縄で結わえた粗末な舟を曳いた。
 正確にいえば、それは舟ではない。一人乗りの木箱、棺だ。自宅近くの平地に置かれていたこの棺は、土饅頭もろとも水に流され、立ち木に引っかかり、かろうじて家族の元に連れ戻されようとしていた。棺の板が薄いことで、厚板さえ買えない遺族の貧しさが分かる。棺が平地に置かれていたのは、この土地では、横死した人間は墓穴に入れない風習があるためという。
 曳き縄は、14歳の小柄な少年の肩に重く食い込んだだろう。疲労困憊した二人は、加勢を求めて村に走った。だが、戻ってきた時には、無情にも、棺は泥の中に沈んでしまっていた。
 「このまま、ここに葬りなさい」という村の年長者の言葉で、少年は縄から解放された。一家は新しい土饅頭を、棺の場所に盛った。
                    *   *
 約120年後、遼寧西部の大洼(だいわ)県東風鎮にあるその場所を訪れた。
 野鳥が群れる大湿原を突っ切る高速道路を抜けてインターを下り、しばらく走ると、小さな土盛り群を塀で囲んだ広場のような一角があった。
 「張氏墓園」
 立派な門に掲げられた四文字は、張学良が揮毫(きごう)したものだ。
 正面奥に、棺のあるじの名前が記された墓標が見えた。
 「張有財之墓」
 縄を曳いた少年、張作霖の父親の名だ。
 有財は、直隷からこの地に流れ着いた張家の始祖・張永貴の孫にあたる。その名前に込められた願いは、誰でもわかる。
 「お金に困りませんように……」
 だが、有財は金に困っていた。金が入る時もあったが、すぐに消えた。
 博徒だったのだ。父から分与された財産で雑貨店を開いたが、長続きせず、賭場に入り浸っていた。自ら賭場を開いていたという説もある。
 ある年の春節旧正月)後、有財は、同じく博徒の「王」という男に殺された。「覇王と革命」では、同時代人の証言から、賭博に勝った有財が王に返済を迫って殺されたという、よく知られる説を紹介した。だが、有財が負けた金を踏み倒そうとしたと記す文章もある。後頭部に致命傷を与えたのは、「石」、「刃物」、「足げり」など諸説ある。犯人の姓は「李」とも言われる。
 つまり、ほとんどは、藪の中である。
 事実として、はっきりしているのは、張有財が殺されたということ。そして、もう一つは、この殺人事件が、東北王・張作霖の出発点になったということだ。博徒とはいえ、大黒柱を失った一家は、粗末な家を売り、母親の里へと向かった。張作霖の大いなる一生は、ここから始まる。
 張作霖の家の跡は、「張氏墓園」近くにある。地元の人に教えてもらったその場所は、トウモロコシ畑になっていた。
                    *   *
 清朝に代わって中華民国が成立しようかという頃である。
 張作霖の下の兄、作孚が匪賊討伐の戦いで戦死した。作霖は、故郷に張家の墓園を造ろうと思い立った。
 その準備として、張有財の墓を調べた風水師は、驚嘆して張作霖に報告した。
 「お父上が葬られた土地は、宝の地です。お墓を移してはなりません」
 確かに、父の棺が自ら泥に沈んでからというもの、張作霖は、竜のごとく駆け上がってきた。有財の落命が、張作霖を激動の時代へと投げ込んだばかりではなかった。棺の中の有財は、故郷から走り出した息子の背中を押していた。
 張作孚の墓は、有財の墓の手前に置かれ、そこが墓園となった。
                      *   *
 張有財の棺と風水を巡る話は、様々な史書や報道系サイトに登場している。張作霖に限らず、中国人の多くは、風水を極めて重く見ており、実際に墓園ができたことからすれば、大筋で事実だろう。
 その中にあって、棺を曳く張作霖のエピソードを紹介する文章は、それほど多くない。残念ながら、事実かどうかを検証する力は、自分にはない。
 しかし、墓園の前に立つと、こうも思えてくるのだ。
 あの日、確かに、少年は舟を曳いていた。それは、父の棺だったかもしれないし、あるいは、自らの肩にのしかかる運命というものだったかもしれない。(2013年4月14日)

※参考資料:半島晨報、遼瀋北国網、華夏経緯網ほか、東北王張作霖画伝、我所知道的張作霖、奉軍、乱世梟雄張作霖、張学良遺稿、細説北洋張作霖

※写真は、張作霖が生まれた村に残る張氏墓園。墓園名のわきに張学良の名があります。

飛べない悟空

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 古い肖像写真の穏やかな顔は、グレーの色調の中で深い憂いをたたえているように見える。「中国革命の父」と称される孫文だ。その一般的なイメージは、「革命いまだ成功せず」(中国語原文は、「革命尚未成功」)という遺言に見果てぬ夢を託した、高潔、慈愛の革命家といったところだろう。
 ちょっと待てよ、と思う。革命家など、同時代人にとっては、おおむね、危険かつ迷惑千万な存在である。理想に燃えて武装蜂起を企てる孫文のような人には、できれば、アパートの隣室には越してきてほしくない。
 「覇王と革命」では、後の世の造形ではなく、可能な限り、生身の人間を描こうとした。その結果出てきた軍閥期の孫文は、肖像の印象とはまるで違う。広州をはじめ拠点とした南方から、北伐による北京政権の打倒を目指し、とにかく、よく動く。超能力がない孫悟空のように、あくせく動き回る。
 当初、孫文の貧弱な武力は、広東、広西、雲南などの南方諸軍閥には遠く及ばなかった。利用価値がある時には、「大元帥」などと祭り上げられても、いざ勝負の時となると、戦でも、権力闘争でも、負けた。負けては立ち上がり、また負けた。大軍閥の陸栄廷や陳炯明にも「元首」として接し、気にくわないと、げんこつで殴りかかるように突進していった。市街地への艦砲射撃さえいとわなかった。
 状況に応じて、北方の奉天系、安徽系とも同盟を結んだ。東北王・張作霖には金を無心し、戦略協議のために訪れた安徽系軍師・徐樹錚には、「参謀長として残らないか」と誘っている。
 まだある。自らの看板である三民主義を実質的に社会主義化し、ソ連の援助と介入、共産党員の国民党入党を受け入れた。21世紀まで続く共産中国への一歩となる歴史的な決断だったが、当時の孫文は、もう片方の手で、反共を公言する張作霖の袖をつかんだままである。
 言うまでもないことだが、その時、孫文は建国の元勲である。辛亥革命の途上にあった12年1月1日、革命勢力の手によって、中華民国臨時大総統に選ばれている。李宗仁の表現を借りれば、孫はこの一件だけでも、「赫赫(かくかく)たる功」を立てていた人物だったのだ。
 だが、孫文は、元勲として額縁に収まる人生は選ばなかった。実権のない慈父として、世の尊敬を集めるだけの存在にもならなかった。大ぼらを吹き、わめきちらし、手段と友人を選ばず、人を泣かせ、人に笑われ、軍閥の世に立ち向かっていった。その姿には、悟空どころか、同時代の作家・魯迅が書いた「阿Q」の影を感じることさえある。「失敗は数え切れない」と述懐した孫文は、最後まで負け続け、25年3月、生命の終了と同時に負けも終わった。
 なんという大うつけだろう。
 なんという強靱な精神だろう。
 革命家は幾万もいた。天は、その中から、この「うつけ者」を舞台の主役に選んだのである。天の意思も、時には分かるような気がする。
 以下、余談である。
 晩年にソ連に傾斜した孫文のもとから巣立った後継者たちが、「民国」成立からほぼ一世紀をかけて築き上げたのは、恐ろしく巨大な専制国家だった。中国の民に、なお安寧はない。皮肉なことに、この現実は、「革命いまだ成功せず」に新たな生命を吹き込み続けている。「大うつけ」の血は、大陸のどこかに、今も脈々と受け継がれていることだろう。  (2013年4月7日)

※参考資料:学習時報、李宗仁回憶録、大国的迷失、阿Q正伝

※写真は、上が北京・中山公園の孫文像、下が上海の孫文旧居です。

下から迫る者

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 1913年に国民党軍を一蹴した大総統・袁世凱は、北洋軍内部の一人の軍人を凝視していた。
 陸軍総長(陸相)の段祺瑞である。段は、軍の人事権を一手に握っていた。北洋軍高級将官の多くは、かつて軍人教育を担った段の教え子だった。
 独裁者は常に、猜疑心の霧に覆われている。袁世凱の目には、己を脅かす「北洋の虎」が下から迫ってきているかのように映っただろう。
 翌1914年5月、袁世凱は、「陸海軍大元帥統率弁事処」なる組織を設立した。陸・海軍、参謀部を統合した上部組織であり、段祺瑞は、「北洋の龍」・王士珍や、袁が雲南から呼び寄せた蔡鍔ら5人と同格のメンバーとなった。重要人事は、ここでの合議を経て、陸海軍大元帥たる大総統が決定する仕組みだ。袁は、組織改編という巧妙な寝技によって段の人事権を剥奪した。
 同年10月、袁世凱は、将校養成を目的とした教導部隊の模範連隊を新設、隊長ポストを長男・克定に与えようとした。袁にしては極めて異例という太子党(高級幹部子女)人事は、北洋軍を「段家軍」から「袁家軍」に変える意思表示であった。袁王朝の準備という明確な目的意識もあったかもしれない。
 段祺瑞は、その帝制にも、強烈に反対していた。帝制話を切り出した袁側近に「馬鹿も休み休み言え」と言い放った、と記す史書もある。
 袁世凱は、摩擦をなるべく小さくしようと思ったのだろう。模範連隊長人事の件で、段祺瑞に声をかけている。
 「芝泉(段祺瑞の字)、模範連隊だがな、克定にやらせようじゃないか」
 この問いには恐らく、忠誠心をもう一度測る追試の意味もあった。しかし、段は頓着しない。
 「だめです。彼は軍事のことは何も分かっておりません」
 袁世凱は、ここで段祺瑞を見限ったと思う。続く袁の言葉からは、あきらめがうかがえる。
 「では、段総長。私が隊長ではだめか」
 段祺瑞に意見のあろうはずもなく、模範連隊長には袁世凱自身が就いた。
 1915年5月、段祺瑞失脚。このあたりの経緯は「覇王と革命」で書いた。
 北京・西山での段祺瑞の緩い失脚生活からは、袁世凱らしい「恩」がうかがえる。清朝での宮廷闘争でも革命でも、袁の「恩」によって引き上げられた段は、最高の働きをした。「恩」は、武人たちをまとめあげた袁の力の源泉であった。同時に、それゆえの「甘さ」は、袁の力の限界線を引いた。
 失脚したナンバー2が帝制に公然と反対し続けているという状況が、蔡鍔や陸栄廷の反乱、段と並ぶ北洋の双璧だった馮国璋の離反につながり、皇帝・袁世凱をひきずり倒したといっても過言ではない。
 その点、数千万人の国民を餓死に追い込んだ毛沢東は違う。毛の極左路線を修正しようとした国家主席劉少奇は、奪権を図る毛が発動した文化大革命(1966~76)で迫害された末、69年死亡した。一時は毛後継者の地位を確立したかに見えた林彪(りんぴょう)は、文革中の71年、危険な猜疑の目を向けた毛の暗殺を謀って失敗、ソ連に逃れようとしてモンゴルで墜死した。
 北洋の大覇王・袁世凱は、下から迫り来る者に情けをかけ、それが命とりになった。唯物論を掲げる赤い大覇王・毛沢東は、仮借なく、挑戦者を奈落の血の池に突き落とし、一人、現人神(あらひとがみ)の領域へと足を踏み入れていった。
 毛沢東文革を発動したのは、袁世凱の死からちょうど半世紀後のことだ。この間、中国の覇王は、冷たい進化を遂げていた。 (2013年3月31日)

※参考文献:北洋述聞、袁世凱評伝、百年家族段祺瑞、洪憲帝制、我所知道的北洋三傑

※写真は、上が天津の段祺瑞旧宅。下が馬廠駅から旧砲台跡へまっすぐに伸びる道です。馬廠は、復辟戦争で段が挙兵した場所です。